令宣は夕闇濃い軍営の執務室に居た。


朝からずっと頭を離れない疑問がある。

五弟や義妹に言われた。自分は変わったのか?

誰にも左右される事がないと確信していた自己が揺らいでいる。

徐家を背負って立って十数年、経験した事のない感覚が嵐のように令宣の心を揺さぶっていた。

落ち付かないまま席を立ち薄暗闇の中に身を置いていると臨波が入って来た。

臨波はすぐさま令宣の様子が普段と違う事に気付いた。

「何を考えてらっしゃるんですか?」

令宣は天井を睨んでため息をついた。

「一人で悩むより私に話してみませんか?私にいい解決法があるかも知れませんよ」

「お前が?」

「舐めないで下さいよ。私のあだ名は何でも屋ですよ。候殿だって知ってるじゃないですか。知らない事はありませんよ」

「なんだか・・」

令宣は自分の弱気がもどかしかった。

それで臨波の言葉に頼って打ち明けた。

「最近益々自分が自分らしくなくなった気がする」


臨波は令宣らしからぬ言葉にまじまじと上司の顔を見つめた。

「まあいい・・お前には分からない」
「…候殿をこうも不安にさせたのは誰ですか?」
「・・それは・・」

「私には分かりますよ・・候殿の情緒が不安定なのは私にも伝わってましたよ。いつもの冷静さを失っている感じです。恐らくそれは奥様が嫁いで来てから表れた現象です。だからきっと奥様と関係がありますね」


不安定と言われて令宣は余計にしかめつらしい顔をした。
「私は徐家の当主だ。一族の栄光を背負っている。どんな情緒にも影響されてはいけない。私の心は石の如くあらねばならんのだ」

「しかし徐殿は石ではありません。人間です。人間には情と欲とがあります。自分にも抑え切れないものが沢山ありますよ」

令宣は気弱な笑みを浮かべた。

「だが・・このような感覚は初めてだ」

「・・怖いですか?」
令宣は黙って答えなかった。

翌日、令宣は書斎から出てすぐに照影に尋ねた「十一娘は西誇院に居るな?」
「奥様は今日実家に行かれるそうです」
令宣は眉をひそめた。
「義母上の容態がまだ良くなってないのか・・」

軍営からの帰り道、令宣と臨波が街中を歩いていると十一娘の兄、振興とばったり出会った。
互いに挨拶を交わす。
「振興」
「徐殿、それに傳殿、徐邸へ帰るところですか。私は國士館に行くところです。ここで徐殿に会えるとは」
「義母上の容態が良くないそうですが、今はどうですか?太医院の劉太医に行かせましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。母の容態は大分落ち着きました。後数日で完全に治るでしょう」
「ならいいのだが、今度十一娘が実家に帰る時義母上の養生の為にもっと高麗人参を持って行かせます」
「ありがとうございます、徐殿。十一娘に会うのも久しぶりですから、丁度会えます」
「久しぶり・・十一娘は最近よく実家に戻ってるんじゃありませんか?」
「いいえ・・あ!もし私が不在の時に来ているなら私が知らないだけかも知れません」
振興が知らないのは不自然だ。
令宣と臨波は顔を見合わせた。

翌日の朝、連れ立って出掛けた十一娘達を密かに追跡する令宣と臨波の姿があった。
十一娘達の乗った馬車は賑やかな大通りを抜け仙綾閣前に到着した。
仙綾閣は繁盛店らしく人の出入りが多い。
十一娘が到着するとたちまち玄関から出て来た女性客に囲まれた。
女性達は皆華やかに着飾った裕福そうな婦人達ばかりだった。
「羅先生、先生の作品です!どうですか?」
「よくお似合いですよ」
「先生、ここで買ったこの扇素敵でしょう」
「ええ、この扇面の刺繍は今大人気の技法です・・」
十一娘はここでは「羅先生」と呼ばれていた。

令宣はその様子を唖然として見ていた「一体どうなっているんだ・・」
十一娘が仙綾閣の中に消えると、令宣と臨波は馬を預けて店内に入っていった。
女性店員から声が掛かる「何かお探しですか?」
「刺繍品を見せてくれ、上品なものを」
令宣は臨波に目配せした。
「お客様、奥様への贈り物ですか?こちらへ・・」
「うむ、いやまず自分で見てみたい」
「そうですか、どうぞご自由に」
臨波は素早く店内に目を走らせ十一娘が店ののれんの奥へ入っていったと目星を付けた。
令宣は隙を見て臨波が目で指し示した通路へ出た。
そこは中庭を臨む回廊となっていた。回廊の向こうに十一娘の姿を見つけてはっとする。
髪を娘時代のように下ろし質素な服に着替えた彼女は回廊に面した部屋へと吸い込まれていった。
令宣は十一娘が入っていった部屋を覗いた。

「羅先生、おはようございます」
そこには大勢の女性達を前に刺繍の講義を始める十一娘がいた。
「今日皆さんに学んで頂きたいのは、絵を元にした画繍です。水墨画は従来文人墨客に推奨されてきた・・」
令宣は愕然とした。
貴族の夫人が教師のように人前に出て労働をする事は許されていない。
「公衆の前に顔を出すとはみっともない・・臨波、連れて出ろ」
「徐殿、ここは女性ばかりの部屋ですよ。私も入りづらいです」

二人が立っているところへ仙綾閣の職人らしき女性が声を掛けてきた「お客様、刺繍品をお探しですか?」
「すみません、今刺繍の講義をしているのは?」
「簡先生の弟子の羅先生です。彼女の刺繍品をご希望ですか?彼女の刺繍は素晴らしいですよ」
「ここへはどのくらいの割で来ているのですか?」
「月に3~4回くらいでしょうか・・難民の女性達に刺繍を教えています。羅先生のお陰で私達は災害の後も生きる術を手に入れました。そうでないと今頃私達は飢え死にしているところですよ。あ、どうぞ作品をご覧になって下さい」
「ああ」
・・・
「候殿、奥様は本当に善良な方ですね。難民にここまで尽くされるとは、、」
臨波は感じ入ったようだった。
令宣は仙綾閣を出て考えに耽りながらゆっくりと歩いた。
彼は先程十一娘を安易に連れ出そうとした自分を恥じた。
彼女のやっている事は裕福な夫人が片手間にする慈善事業ではない。
自らの才能を生かして民を助ける尊い行為そのものだ。
しかし令宣には十一娘が頻繁に出入りするあの場所で彼女を拉致された苦い過去がある。
令宣はどうあっても彼女を護りたい。
「臨波、人をやって仙綾閣の前に出店を出せ。うち外の様子を探らせて密かに十一娘を護衛させろ」
「はい」
「十一娘には知られないように」
「ここまで奥様を思いやって、どうして奥様に知らせないのですか?良いことは知らせないと奥様に伝わりませんよ」
「お前には分からない」
「分かりますよ、奥様が不愉快な思いをしたら今まで通りにいかないんじゃないかと心配してるんでしょう?本当に奥様を思いやってますね」
「もういい」
「気に障っても言いますよ。そういう事は奥様にちゃんと伝えないとダメですって」
令宣が立ち止まって臨波に向き直った。
また劉家の娘の話をされそうだ。
「分かりました。分かりましたから怒らないで下さい」

喬姨娘は福寿院を訪れていた。
「杜乳母の話では近頃お義母様の食欲が落ちているとか。蓮房手作りの小豆と麦のお粥をお持ちしました。身体の湿気を取り除き食欲の回復に効果があります。飲めばきっと良くなります」
「お~お~、蓮房や。来なさい」
大夫人は喬姨娘の手を取って隣に座らせた。
「やはり私を心配してくれるのは蓮房だよ」
「実は今日奥様にも汁物を用意しましたが朝からまた実家へ帰られていらっしゃいません」
「またか・・嫁いでからあまり経たないというのに、こうも頻繁に実家へ帰られたら知らない者が聞いたら徐家が嫁を虐めているみたいじゃないか」
その会話は丁度部屋の前まで帰ってきた令宣の耳に達した。
(また二人して十一娘の陰口か)
令宣はうんざりしていた。
そんな事とは露知らぬ蓮房は大夫人を煽るように言った。
「奥様はそんな人ではありません。羅家の奥様が最近容態が良くないみたいです。多分奥様が養生薬と絹を持って実家へ帰っているのでしょうね。羅家の五娘にも協力して干し果物屋も開きましたしね」
「そんなこと、わが徐家にとっては何でもない。でも先ずは徐家の事をちゃんと仕切らないと。頻繁に外に出て顔も見せないなんて・・みっともない」
「お義母様の仰る通りです」
喬姨娘は今日も大夫人の反応が思った以上なので嬉しかった。
そこへおもむろに令宣が入ってきて挨拶した「母上にご挨拶を・・今何の話をされてましたか?」
「十一娘がまた実家の母親の面倒を見に帰ったとか」
「母上、孝こそ百善の基です。もし十一娘が病の義母上を放っておくようなら万一母上が病に罹っても傍で仕えるなど望めないでしょう」
「うんうん、お前も自分の女の事は庇いたいんだね」
令宣の十一娘を擁護する言葉に有頂天だった蓮房の気持ちはたちまち萎れてしまった。

[再び軍営の執務室]
臨波が飛び込んで来た「徐将軍」
「先日のカビ米の一件ですが、手掛かりが見つかりました!」
[告発]
「候爵の指示通り米問屋から着手し、兵営の糧食庫でもカビ米を見つけて抑えてあります。幸い炊きだしの時ほどではなく兵に下痢の症状はありますがそれ以上の被害はありません」
「兵士は国や人々を守ってくれる。区家はあのような僅かな利ざやの為に兵営の食糧庫にまで手を出した。その兵士を前線に送るのは死を求めるも同然だ。これこそ陛下を騙す罪だ!」
民と兵士の為に動かぬ証拠を見つけた令宣は告発の上奉をしたためた。

[靖遠候]
巡視より戻ってきた区家の当主靖遠候爵は報告に訪れた宮廷内で宦官に呼び止められた。
「靖遠公、東南に巡視に行かれたようですがいつ都に戻られましたか」
「つい先日です。ご心配ありがとうございます」
わざわざ声を掛けてきた宦官のお節介はへつらう為ではないと直感した靖遠候は逆に尋ねた。
「馬公公、陳閣老が悩んでおいでのようだが、最近何かありましたか?」
宦官の目がキラリと光った。
「区大人、ご存知なかったのですか・・兵営の食糧庫に大量の黴米が見つかり、陛下が激怒されて陳閣老に調査を命じられたのです」
靖遠候は自分の留守中に我が息子が区家の足元を揺るがすような失態を犯したことを知った。