その日、十一娘が一人で絵を描いているところへ令宣が入って来た。
「今日実家へ帰ったようだな」
「旦那様、母の体調が悪いので様子を見に帰りました」
「劉太医を行かせるか」
「お気遣いありがとうございます。本当に必要になった時にはお願い致します」
「絵を描いていたのか」
「刺繍にも下書きが必要ですから・・でも私は下手ですから人に見せられるものではありません。笑わないで下さいね」
「この絵は素朴で風情がある。ぼんやりした味わいだが渋味もある。なかなかの佳作だ」
「さすが旦那様は文武両道ですね。この絵を描く時、粉撞きと色撞きの二ツの技法を使いました。石色と岩彩を融合して線を目立たなくしました。色彩だけで池の美の佇まいを表現したかったのです」
「絵は間違いなく佳作だが、それを一体どうやって刺繍で表わすんだ」
「それはお楽しみに」十一娘はいたずらっぽく微笑んだ。
令宣は何も言わずしばらく十一娘の顔を見つめていた。
「私、何か変な事を言いましたか?」
令宣は答えずただ少し首を振った。そして後ろ手にしていた手から木箱を差し出した。
「これは?」
「開けてみろ」
木箱を開けると絹で裏打ちされた中に白玉のかんざしが入っていた。
「白玉のかんざしを失くしたな。冬青にその意匠を聞いた」
確かに失くした事は話したけれど・・十一娘は心底驚いた。この忙しい旦那様がいつの間に。
「お気遣いありがとうございます。失くしたのとそっくりです!」
「挿してみよ。似合うかどうか着けてみてくれ」
十一娘は鏡台の前に座り着けていた銀のかんざしを外して、白玉のかんざしを手に取った。それを髪に挿そうとすると「ちょっと貸してみろ」令宣が背後に立ちその手で角度を慎重に考えながら彼女の髪に挿してくれた。表向きだけの夫婦と言うには何という親密さだろうか。十一娘は不思議な胸の高鳴りを覚えた。
飾り終えると鏡の中で二人は静かに微笑みあった「ありがとうございます、嬉しいです」
こんなに細やかで優しい方なのだ、旦那様は…。
鏡の中で令宣に見られているのを意識すると十一娘の頬は薔薇色に染まった。
二人きりで穏やかな・・これが夫婦の時間というものかも知れない。


その時、庭のほうから諄の泣き声が聴こえてきた。
出ると諄の傍には冬青と陶乳母が居て泣く諄に困り果てている。
「諄くん、どうしたの?母に教えて頂戴」
十一娘は泣きじゃくる諄の涙を拭ってやりながら理由を尋ねた。
「母上~刀が折れました~」
諄は傍らに落ちている木刀を指差した。
見るとぽっきりと二つに折れている。
他愛もない事に笑えたが諄には一大事なのだろう。
「諄くん、泣かない泣かない・・泣かないよ~ほらきっとお父様が何とかして下さるよ」
十一娘は令宣を振り向いた。
「そうですよね?」
あの精妙な扇を作る器用な令宣だ。
木刀など簡単に作ってしまうのではないだろうか。
令宣は下働きに言い付けて道具を持ってこさせた。
二人が見守る中、令宣はいとも簡単に木刀を作ってしまった。
その手並みに十一娘は令宣を尊敬の眼差しで見つめてしまった。
諄は父親を怖がっていた癖が抜け切れず、出来上がった木刀を手渡されても何も言えなかったが十一娘に後押しされてやっと礼を言えた。
「ありがとう、父上」
令宣は諄の頭を撫でた「今後は刀が壊れたら作り直せばいい。男が軽々しく涙を見せるものではないぞ」
諄は頷いて走って行き再び冬青と遊び始めた。
転んで周りに心配されても「大丈夫、自分で立てる」と起き上がった。
「諄くんはああやって侍女や乳母達に囲まれて育っていますのでどうしてもひ弱になります。旦那様がもっと諄くんの傍に居て見本を示して下されば、きっと男らしく育ちますよ」
尤もな意見だ。
会えば厳しい事しか言わないのでは結局は五弟のように敬遠されてしまう。
もっと諄の為に時間を割いてやろう。
切れかけた親子の情愛を十一娘が幾度も救ってくれたなと令宣は改めて彼女を見た。

[令宣の変化]
福寿院に久しぶりに五弟令寛と丹陽の夫婦が訪れていた。
「お義母様、もう大丈夫ですから。今後は毎日お義母様の話し相手になれますから」
夫婦仲が落ち着いて丹陽の体調も日々安定して来た。
「丹陽、身体にさえ気をつけてくれたらいいんだよ」
そこへ喬姨娘が入ってきてきどって愛想を振り撒いた「義母上にご挨拶を・・」
「お義母様」丹陽は喬姨娘を無視して言った。
「四義姉上は本当に有能ですね。家事を司ってから何一つ落ち度はないし、諄様の面倒も非常によく見てらっしゃいます。道理で四旦那様は毎日西誇院に通われるはずですね」
喬姨娘は引き攣った笑いを浮かべて謙遜を装い自虐に走った。
「奥様は利口者で細部まで行き届いてらっしゃいます。恥ずかしながら私は比べものになりません」
「喬姨娘は自分を軽んじなくてもいいのです。正妻は誰にでも務まるものじゃありませんからね・・そういえば喬姨娘は嫁いでから随分経ったけれど、お子の便りを聞きませんね」
丹陽はちらりと自分のお腹を見やった。
「蓮房は腑抜けです・・旦那様と大奥様を失望させてしまいました」
やられっぱなしの蓮房に大夫人だけが助け舟を出した。
「蓮房、お前はまだ若い。こういう事は急いでもどうにもならない、掛けなさい」

「諄様~、走らないで!転びますよ」陶乳母の声と共に諄が駆け込んで来た。
「お祖母様、見て!父上が刀を作ってくれました!」
まっしぐらに祖母の前に行くと大事そうに持った木刀を祖母に差し出して見せた。
「まあ諄ちゃん、立派な木刀ね!」
それを見て令寛が目を丸くした。
「母上、あの四兄上に諄に木刀を作ってやる暇があったんですか?」
諄が誇らしげに答えた。
「父上は母上に言われて作ってくれました!父上は母上の言う事なら何でも聞いてくれますよ」
大夫人が信じられないと言った顔で聞き返した。
「お母さんの言う事ならお父さんは何でも聞いてくれるのかい?」
「父上は母上が何を言っても全然怒りませんよ」
丹陽も「信じられませんよね!」と驚きを隠さない。
丹陽も終始むっつりとした令宣しか見たことがない。
「よし!諄が新しい刀を手に入れたから、五叔父さんがそれに合う新しい劇の台詞を教えてやろうか」
「わ~い嬉しいです。諄は新しい台詞が好きです」
諄は小躍りして喜んでいる。
令寛は早速立ち上がり諄の木刀を片手に舞いながら決め台詞を朗々と歌った。
「天の理は如何なるもの~、民は皆謳歌しておる~宋の時代を懐かしむ者はもう居ない~ただ包龍図の知恵を感慨する~!・・」
演じる五弟も周りもにこやかにこの寸劇を楽しんでいた。
急に皆が立ち上がった。
令宣が入って来たのである。
五弟は振り向き畏まった「これは兄上」
「それは”包待製魯斎郎降伏す”の劇だな?」
「はい」
令宣は諄を振り返って尋ねた。
「諄、五叔父さんの劇はどうだった?」
「素晴らしかったです!」
「そうか、諄がちゃんと勉学したらこれからもまた叔父さんに劇を見せて貰えるぞ」
「やったあ~!」
これには皆驚かされた。
「兄上、兄上は諄が劇を観るのがお嫌いだったのではないですか?今日はまた何故?」
「よく考えてみれば・・私も子供の頃、これらを聴いて育った。劇は諄に人間の理を教えてくれる。十一娘もそれに賛成してくれた」
「意外です。四義姉上が嫁いで来てから兄上は随分変わられましたね」
丹陽まで傍に来て令宣をからかった。
「諄や令寛にもっと寛容にして下さいと私達もよく進言してましたのに全然聞いて下さいませんでしたよね」
「丹陽分かってないな。どんな人にも敵わない相手が居るものだ」
令寛が得意げにやり返した。
大夫人が決着を付けた。
「もういい・・令宣も帰って来たばかりで疲れているだろ。丹陽も早く帰って休みなさい。皆も帰っていい」
「母上はお疲れのようですね。それでは我々は失礼します。行こう」
五弟は礼をすると丹陽を促して帰って行った。
令寛は兄に褒められ意気揚々としていた。

先程までのやり取りを口を尖らして聞いていた喬姨娘はどんよりとした顔を隠せなかった。

福寿院の門から出た時、令宣は後ろを従う照影に聞いた。
「照影」
「旦那様」
「近頃わたしは変わったか?」
「はい、旦那様は最近よく鏡を見るようになりました」
令宣は無言で照影を睨んだ。
しまった!こういうのじゃなかったか?と心中舌打ちをすると次に極めて真面目な顔で答えた。
「あ!変わったといえば確かに最近笑顔が増えました。近年笑っている姿を見たことがありませんでした」
「・・・」
わたしはどんなに頑なな人間だと思われてたんだ。

[西誇院]
夕食の盛り沢山な皿を前にして十一娘と冬青がはしゃいでいた。
「違います!わたしは太ってませんって」
「やだ、これを見てよ」冬青の脇腹をつまむ十一娘。
琥珀が来て伝えた「今日は旦那様来られないそうです」
十一娘はがっかりするでもない様子で答えた。
「あら、じゃあ私達で食べよう!琥珀もうひとつ皿を持ってきて」
「はい奥様」
琥珀はあれからも態度の変わらない十一娘に戸惑っていた。

すると冬青が「最近旦那様の様子がおかしい」と言い出した。
「旦那様が奥様を見る目がぎこちないです」
十一娘は取り合わなかった。
「お仕事が忙しいからでしょ」
「いえ、前はいくら忙しくてもそんな事ありませんでした。もしかして私達が旦那様の機嫌を損ねましたか?」
「そんな事ないわ、・・まさか私の作った服が気に入らなかった、とか?・・いやそれはないでしょ」
「あ・・もしかしたら実家に帰ると言って仙綾閣へ授業しに行ったことがばれたとか!」
「それならきっと話してくれるはず。旦那様は黙っている人ではないわ」
「そうですよね」
「もうやめて、そもそも貴族の考えなんて分かりやすいものじゃない」
冬青は納得していなかった「半月畔に行って見たら?」
「いいのよ」
皿を持って来た琥珀に十一娘は椅子に座るように言った。
「旦那様が居ないから一緒に食べよう」
「奥様、私は使用人です・・そんなこと」
「琥珀、言ったでしょ。私達の部屋は家族よ。使用人じゃない」
冬青も早く座れと催促する。
躊躇っていた琥珀もついに折れて食卓についた。