「この薬を使えば傷痕は残らないわ」十一娘が秦姨娘に薬の入った小瓶を手渡した。
秦姨娘は恐縮していた「奥様、かすり傷ですので・・でもよく覚えていて下さいましたね」
「秦姨娘が助けてくれなかったら怪我を負っていたのは私だったわ」
「恐縮です。奥様の足のお怪我はいかがですか?」
「もう痛くないわ」
「あ、そういえば奥様が家事を司られますね。おめでとうございます。今回の事で奥様のご尽力は誰もが認めています。きっと皆が納得する事でしょう」
「お陰さまで・・」
そこに侍女の声が聞こえた「旦那様がお見えです」
「え!」慌てたのは秦姨娘より十一娘だった。ここに令宣が現れるとは予想もしていなかった。
令宣が入ってきて十一娘を見た。十一娘が此処に居るのは秦姨娘を見舞いに来たのだろう。
「秦姨娘が怪我をしたと聞いた。見舞いに来た」
「ありがとうございます、旦那様、夕食はまだですか?今宵はこちらで召し上がられては?」
秦姨娘が旦那様に夕食を勧めるのは当然の成り行きだ。
間に割り込むのは心苦しいので十一娘は帰りたかった。
「では、お先に失礼します」
「一緒に食べよう、秦姨娘、食事の用意を」
令宣が即座に命じた。親切心から薬を届けに来ただけなのに秦姨娘にとってとんだ邪魔者になってしまった。令宣が来ると分かっていたら自分は此処に来なかったのに余計な事を言う令宣が恨めしかった。
質素ながら円卓に酒肴が並べられ立ったままの秦姨娘が酒を注ぐ。
十一娘が「座って一緒に食べよう」と言ったが秦姨娘は躊躇い遠慮した。
だが令宣が「座って」というと「はい」と素直に応じた。
令宣が十一娘の皿におかずを取り分けてくれた。
「これを食べて」
自分だけに優しくされても嬉しくないものだ。
十一娘が精一杯目に力を入れて令宣に合図するとようやく気付いた彼が秦姨娘にも取り分けてやった。
「ありがとうございます!旦那様」
秦姨娘は素直に喜びを顔に出していた。

秦姨娘は姉よりも前から旦那様に仕えている此処で一番の古株。長年彼の傍にいるはずなのに彼は秦姨娘にこういう心遣いをした事がなかったのだろうか…

一口食べると山椒の辛みがヒリヒリと口に拡がっていく。「うっ!」うっかりとしていた。
思わず口を手で扇ぐ。
「どうした?」
「あ、いいえ、山椒の味が慣れなくて」
「忘れていた・・お前は江南に長く居たので薄味が多かったな」
令宣はそう言いながら杯に飲み物を注いでくれた。
秦姨娘が済まなさそうに謝った。
「私のせいです、旦那様は苗彊に長く駐屯しておられました。苗彊は夜が寒く山椒で寒気を取り除くのです。旦那様の好みばかりを考えて奥様の好みを忘れていました」
「いいえ、私の口が奢っていてごめんなさいね」
「奥様、筍の味が薄いのでこれをどうぞ」
令宣が命じた「他にも用意を」「はい」
「あ、いいのいいの大丈夫。食べよう」
筍を食べながらふと隣を見ると秦姨娘がいたたまれないような顔をしている。
自分が居ないほうが良さそうだ。
秦姨娘も気楽に令宣と団欒を楽しめるだろう。
十一娘は仮病を使う事にした。
「旦那様、頭が痛いので先に帰ります、召し上がってて下さい」
令宣は箸を置いた「頭が痛い?送る」
「大丈夫です!歩けますから」
秦姨娘も案じた。
「奥様、体調が優れないなら旦那様に送って頂きましょう。その方が私も安心出来ます」
「いえ、旦那様のお手を煩わせてはいけません」
「傷が治ったばかりで無理をするな」
そういい半ば強引に手を取られてしまった。
「暗くなって来ましたので旦那様奥様、お気をつけて・・」
結局、秦姨娘に見送られながら部屋を出る羽目になってしまった。
令宣はずっと十一娘の手を離さず彼女の足元に気を配って歩いていた。
十一娘は沈黙が気まずいので事件について聞くことにした。
「旦那様、白家職によるとカビ米の件は区家に関わりが?」
令宣は頷いて遠いところを見る目付きになった。
「徐家と区家は閲歴が古くいずれも百戦錬磨の武家の一門だ。区家は靖遠候爵の代になってから権勢欲に目がくらみ、海禁で忠臣を嵌めた。父上と兄上は海禁を解除して海賊の心配を失くしたい。それで徐家は区家の目の敵になった。父上と兄上は戦死させられ徐家は残る全員が投獄された。すべて靖遠候爵の仕業だ」
「徐家にそんな過去があったとは・・」
「お前のお祖父様が陛下に執り成してくれなければ、また罪滅ぼしとして最前線で手柄を立てなければ今日の徐家はなかった」
「過去は過ぎ去りました。候爵は自力で徐家を盛り返しました。大旦那様と世子様はあの世で安らかに眠れます」
「売国奴を一掃しなければ民百姓は平穏無事に暮らせない。父上と兄上も安らかに眠れないだろう」
「区家が大旦那達を嵌めた証拠は無いのでしょうか?」
「当時靖遠候爵は淅江巡撫に着任していて、自分に不利な証拠を残す訳がない」
「奸臣が国を誤らせ、英雄が死ぬ。千古の遺碑に名が刻まれる区家が忠臣を陥れ倒行逆施、いずれ自分で蒔いた種は自分で刈り取る事になるでしょう」
「今や靖遠候爵は兵部を司り、長男励行は礼部侍郎の官職の上に礼部尚書の嫡女を妻に迎え、刑部も靖遠候爵に取り込まれている。彼等を失脚させるのは容易ではないのだ・・区家の次男区彦行は庶子でほとんど姿を現さない。彼に関する噂は殆ど無い」
十一娘がぴたっと止まった。
「どうした?」
「着きました」
「足元気をつけて」西跨院の門を潜る令宣は一向に帰る気配がない。
彼はこのまま泊まる気なの?どうしよう!万が一、妊娠したら!)
「あ!そうだ旦那様、お義母様に挨拶に行かれました?」
「母上には二義姉が居る。しかもこんな時間だ。もう休んでいるさ。邪魔してはいけない」
「あ!そうだ、今日家事の書類を預かったばかりでまだ」「そんなの本人がやらなくていい」「・・」
ずんずん玄関に近づく令宣にもうかける言葉が無い。
西跨院の前で冬青と琥珀が揃って出迎えた。二人何故か嬉しそうにしている。
「喉が渇いたな」
・・・
「旦那様にお茶を」
「「はい!」」
侍女が茶を運んで来た。
「旦那様は休んでて下さい。私はちょっと帳簿を確認してきます」
「うん・・」十一娘はどうしても帳簿が気になるようだ。仕方がない。
帳面をめくる指先が痛いらしいので何故かと聞くと刺繍の針で刺したという。
見ると大きな刺繍の台がある。
「どうしてそんなに刺繍が好きなんだ?」と聞くと顔を上げて「針の先に綺麗な花々が咲くのが嬉しいんです」更に
「それに刺繍は心の拠り所になっています」と言う。
「女性にとって心の拠り所は良い結婚相手ではないのか?」と問うと
「誰にも頼れない時に自活出来る事こそ心の拠り所となります」と答えた。
令宣はその実際的な答えに驚いた。自活だと?庶出とは言え貴族の子女が自活を口にするとは。
彼女はほんの少し帳簿を見て終わらせると思っていたが十一娘は帳簿に没頭し始めた。
侍女が途中で「奥様、旦那様のお風呂の用意をしましょうか?」とお伺いをたてにきたのに、十一娘は命じるどころか、突如立ち上がると侍女を凄い目付きで見ている。
何か様子がおかしい。
もしかして、私に泊まって欲しくはないのか・・?
「お風呂が必要ですか?」
令宣はムッとしていた。
「・・先に休め。邪魔しない」
「そんな事ないです。じゃお送りしますね!」
やはり引き止める気はないようだ。
「私が行ってしまうのがそんなに嬉しいのか」
「いいえ、いつも旦那様はお忙しいのであまりお引き留めしてはいけないと思って」
「・・・そう。仕事が忙しい」
令宣が帰っていくと真っ先に冬青に問い詰められた。
「奥様!旦那様といい感じになったのにどうして泊めなかったんですか?」
琥珀も追求してくる「冬青の言う通りです。徐家に嫁いだのに旦那様と仲直りしないままではいけません」
「心配しなくていい。分かってる・・」
冬青も琥珀も奥様は分かってないと言いたげな不満顔だった。

半月畔の書斎で墨や硯を片付けていた照影は主人が帰って来たのでびっくりした。
てっきり西跨院で泊まりだとばかり思っていたからだ「旦那様?」
「公文書を今夜中に終わらすと言ったじゃないか。誰が仕舞えと言った」
「今夜は西跨院でお泊りかと・・」
「仕事途中なのにどうして西跨院に行くんだ」
「まさか、また奥様と・・」(喧嘩したんじゃ)という言葉は慌てて飲み込んだ。
「聞くな!」

文姨娘は気分よく菓子を頬張っていた。
思い通りの展開で喬姨娘は家事責任者の地位をあっさり取り上げられた。しかも今夜旦那様は十一娘の西跨院にも泊まらなかった。
「奥様は家事を司っても、旦那様の心を掴めないのね。それにしても今回は簡単に喬姨娘を失脚させたわね。今後は奥様と仲良くすれば文家も立ち直れるわ」
文姨娘が機嫌が良いので侍女も嬉しい「この前給金20両であんなに喜んでましたものね、簡単に籠絡出来そうですね」
「やはり庶女は庶女。家事を司っても出身は争えない」

翌日、西跨院の前庭に部門毎に10名あまり、使用人頭の姥達が集合させられていた。
下働きの使用人の采配を振る姥達だ。
呼ばれるまで、不安げな顔でぶつぶつ話し合う。
今まで喬姨娘が司っていた為、奥様でありながら十一娘の事を気にかける者は居なかったからだ。
「どうしよう、奥様に悪い事をした。私達どんなふうに罰せられるのかね・・」
「ふん!」馬鹿にしたように鼻息が荒いのは喬姨娘に恩寵の錦を渡した張乳母だった。
「何が心配なんだ。今の奥様は家事なんか預かった事がないんだ。右も左も分からない。逆に我々の機嫌を取るさ!」
「昨晩も旦那様は此処に来てすぐに帰った。旦那様に気に入られてない証拠だ!何も出来ないはずだよ」
「本当なの?」
そこへ琥珀が屋敷に入るよう呼び掛けた「皆さん、こちらへ」