二義姉・徐恰真は十一娘が懸命の看病を続けている様子をそっと見守っていた。

[喬姨娘・蓮房]
一方、喬蓮房は自分の部屋に設えた仏間で祈祷していた。
「諄様が無事でありますように!」聞こえよがしの声を出し大袈裟な格好で祈っている。
蓮房のところには下働きの侍女以外誰も近寄らないが、誰かに見られたらと食事も断っていた。
繍櫞がこっそり厨房から食事を載せた盆を運んで来た。
「喬様、こっそり運んで来ましたので大丈夫ですよ」
「下げて。誰かに見られたらおしまいよ」
「奥様だって禁足の時にこっそり抜け出しましたが、大奥様も旦那様も咎めませんでした

「馬鹿っ!それとこれとは違うわよ。まだ分からないの?・・それに十一娘が大人しく軟禁されてたのは私を油断させる為よ。・・もし大奥様と旦那様の疑いを完全に晴らせなかったら恐らくこの徐家に私の居場所はなくなる。早く持って出なさい!」
そう命ずると、再び大袈裟に祈祷し始めた。
「神様仏様、諄様がご無事でありますように!」
[回復]
その頃、ようやく諄の意識が戻った。
「劉太医!諄ちゃんが目覚めました」
「大奥様に知らせて来ます!」陶乳母が飛んで行った。
早速劉太医が訪れて診脈した。
「諄様の目が覚めた以上、もう大丈夫です。後は静養させて下さい」
「ありがとうございます」
「処方箋を書き直して参ります。時間通りに飲ませて下さい」
「はい分かりました。冬青、太医をお送りして」「はい!奥様」
十一娘は目覚めた諄に話しかけた「あや~諄ちゃん、もう大丈夫だよ。太医もそう言ったわ」
「叔母様は毎晩諄の面倒を見てくれたの?」
「どうして知ってるの?」
「叔母様の歌を聴いた。あの歌は母上もよく歌ってくれた・・叔母様、髪がボサボサだよ、酷くて見てられない」
十一娘は恰真と顔を見合わせて笑った。
「もう!この子ったら目覚めた途端出鱈目言って。お父様に言ってお仕置きして貰うわ!」
「母上、ごめんね。父上に言わないで」
「!」
諄が今初めて母上と呼んでくれた・・
十一娘の瞳にキラリとしたものが浮かんだ。恰真も同じように胸の震える思いだった。
「あいよ~諄ちゃん、聞こえてるよ~目が覚めたかね~」
大夫人と令宣が入ってきた。
令宣が脇に座ると諄は布団を上げて顔を隠してしまった。
令宣は諄の小さな手をとって愛おしそうに撫でた。十一娘がそんな令宣を見るのは初めてだ。
十一娘は令宣の肩をちょんちょんと叩いて耳元に囁いた「字(ツ)、習字」
顔を寄せている二人を見て大夫人は顔を背けた。二義姉・恰真はそんな義母に苦笑していた。
「諄の書は上達したな。良くなったぞ」
布団から顔を出した諄が恥ずかしそうに父を見た
「ありがとう、父上」
恰真が義母に「諄ちゃんは目覚めたばかりで静養が必要です。私達は邪魔をせずゆっくり休ませましょう」と言うので大夫人も「恰真の言う通りだ、では・・」と帰ろうとした矢先、
どたばたと繍櫞が転がり込んで、床にはいつくばった。
「大変です!喬姨娘が倒れました!・・喬様は罪の意識に苛まれこの数日仏間に篭って諄様の為に祈祷していました。仏様に誠意を見せる為断食の上、寝ておりません。ひたすら諄様のご無事を祈っていました」
これに即反応したのは大夫人だ。
「蓮房も大変だったな。諄の為にここまでして。繍櫞、お前は姨娘に仕えるのだ。
令宣!蓮房は諄の為に誠心誠意祈願して断食で倒れたんだ。見舞いに行ってやったらどうだ?」
「彼女が母上の寵愛に価すればいいですが」そう言ってゆっくり腰をあげた。
「早く行って!早く!」大夫人は手を振って急かす。
「諄ちゃんの病は蓮房と関係ないと太医も言っただろう」
繍櫞について令宣が出ていくとやっと大夫人は命じた。
「病因も分かった事だ。それに蓮房も倒れた。諄ちゃんの事はお前に任せる」
「はい、義母上」
最後まで十一娘を労う言葉は聞けなかったが、これで当分蓮房は諄に関わる事は出来まい。
蓮房の悪意から諄を救えた事に十一娘は十分満足していた。
大夫人達が出て行き、ほっと一息ついて諄に微笑んだ。
「お腹空いてない?何か食べない?」

[喬姨娘の部屋]
喬蓮房はあまりの空腹に目眩がして寝台に腰掛けていた。
繍櫞の弾んだ声が聞こえる「喬様、旦那様がいらっしゃいました!」
「旦那様!・・鏡台へ」と立ち上がったがふらつく。
もう目の前に令宣が立っていた。
「旦那様、ご挨拶を」
「まだ体が楽ではないだろう、礼などいい」
蓮房はそのままくったりと令宣に倒れかかった。
「大丈夫か?」と令宣は寝台に座らせてやった。
「すみません旦那様」
「諄の為に不眠不休で祈願したらしいな。ご苦労」
「諄様の為、そして旦那様のお役に立てれば全く疲れなど、、」
「だが」令宣の表情は固かった
「断食や祈願で病が治るなら医者は不要だ」
その冷たい言葉は喬蓮房の心中を震えさせた。
「旦那様はまだ私を許していませんか?もし、私が子犬が病をうつすと知っていたら決して諄様に差し上げませんでした。私が悪うございました。もし、私をお許し下さったならどんな罰でも受けます」
そして、令宣の手を取って言った「四お兄様ぁ~」
幼い少女の頃、甘えてそう令宣を呼んでいた。
しかし令宣は蓮房の手首を掴んで自分の手から離した。
「諄はもう無事だからこの事はもう済んだ。私もこれ以上咎めない。しかし母上はずっとお前を信じている。昔からお前を実の娘のように思って来た。もうこれ以上悲しい思いをさせるな。分かったか」
「信じて下さってありがとうございます」
令宣は見当違いな蓮房の言葉を訂正する気にもなれない。
「自重しろ」
そのまま帰りかけたが足を止め尋ねた。
「劉乳母は?」
この悪巧みの片棒を担がせた女の名前が突然令宣の口から飛び出したので蓮房は激しい動揺に見舞われた。
「・・あっ・・彼女は奥様に不敬だったので既に追い出しました・・もう田舎の実家に帰ったそうです」
「田舎の実家?、何処だ」
「山東の人だそうです。詳しくは知りません」
令宣は無言で出て行った。
入れ代わりに張乳母が気色満面で入ってきた。
「喬様、やはり旦那様は喬様の事が大事なのですね!倒れたと聞いて直ぐにいらっしゃいましたよ!」
「張乳母、旦那様が急に劉乳母の事を聞かれて・・まさか何かをお気づきなのか?」
張乳母の表情が一変した。
「ご自分を怖がらせる事はありません。劉乳母は喬様からあれほどの大金を頂いたのでとっくに都を離れましたよ。私でさえ行方を知りませんのに。喬様、ご安心を。誰にもばれませんから」
蓮房は頷いて「私の考え過ぎかも・・」
蓮房の顔色が悪いのは断食のせいばかりではなかった。
[練兵場]
令宣の執務室に臨波が入って来て報告書を手渡す。
「候殿、もう安心出来ますね」臨波も諄の事は心から喜んでいた。
令宣は家族に思いを馳せる眼差しになる「今回の事で諄も強くなれたらいいが」
「私に言わせれば、旦那様の子息である事はこの世で1番の苦行ですよ」
令宣はギロッと臨波を睨む
「それは違うな」
「どこが違いますか?」
「せいぜい二番目の苦行だ」
「では一番目は何ですか?」
「もちろん、私の副将だ」
「はあ~~候殿~すみません!」
「ところで調べさせていた件は全部済んだのか?」
「はい。西山別院の劉乳母ですが、荷運びを理由に犬を箱に入れて喬姨娘に届けました」
令宣は報告書をパタリと閉じた。
「犬が運び込まれると、諄が倒れた。そしてその犬を持って来た劉乳母が消えた。とんだ偶然だな」
「候殿は諄様に病を感染させたのがまさしくその犬で、諄様の病は偶然ではないと・・」
「まだ決めつけてはいない。その犬を送ったのが劉乳母であろうがなかろうが喬姨娘が犬に介癬があって諄に害があると知っている事を証明出来ない」
「では劉乳母は重要な証人ですね」
「だがその証人は行方知れずだ」
「候殿、ご安心を。たとえ地の涯てに隠れても必ず見つけ出して見せますよ!」
そう自信をもって告げると続けて言った。
「候殿、今回の件で感謝すべき人がいますよ。もし奥様が細心の注意を払って病因を見つけ出さなければ諄様は本当に手遅れになっていたかも知れません」
言うまでもなく令宣は十一娘の功労に新妻への認識を新たにしていた。
彼女の思慮深さと行動力がなければ諄は助からなかった。