[気の重い役割―蓮房]
庭園を進んでゆくと
蓮房が池の真ん中の四阿屋で歌詞を口ずさみながら琴を奏でている。美しく化粧し流行りの髪型に結い上げ薄紅色の衣に身を包んだほっそりした姿が庭園に映える。

傍目には優美な姿なのに近づいて行くのが煩わしいなどと思う自分はどうかしているのかも知れない。

けれどそれが偽らざる自分の正直な気持ちなのだ。


「旦那様!」
令宣の指が琴の弦に触れる。
「琴音が高雅だな」
歌詞の続きを唄うかのように蓮房の声は続ける

「ある君子に出会えてから余念取れず、一日会わないと乱心する・・旦那様は覚えていらっしゃらないかも知れませんが蓮房は初めて旦那様に出会ったのが此処です。旦那様があの時弾いていらしたのもこの曲でした。音の高妙さに惹かれました。あの日から蓮房は旦那様でなければと心に決めました。旦那様の琴音は力強く、蓮房は悠揚切々、相性が良いです。これを機に一曲合奏するのはいかがでしょう?」

返答がないので蓮房は食い下がった。

「今日ご都合が悪ければ後日蓮房をご指導して頂けませんか?」

「・・・」
「何を考えていらっしゃるのですか?」
「公務の事ばかりだ」
「蓮房は旦那様と分かち合いたいのです」

「戦に出ている時はお前が母に仕えてくれていた。礼を言う」

「蓮房は旦那様の側女です。当然のことです。蓮房は他に求めるものなどなく、ただ旦那様が時間のある時に蓮房に会いに来て下さればそれで満足です」
蓮房は反応を探るように令宣の目を見たが
令宣は僅かに頷くと「分かった・・」その一言だけでくるりと行ってしまった。
「旦那様・・」
見送るしかない蓮房の顔にはそれでも何故か微笑みが浮かんでいた。
今の切ない訴えが旦那様に届かないはずがない。
(大丈夫、旦那様はきっと来てくれる)

「旦那様、お帰りなさい」
令宣はそのまま半月彡半に戻ると出迎えた照影に命じた。
「そこの書棚に赤い表紙の楽譜があるから探しておいてくれ。見つかればそれを喬に届けてやって欲しい」
「はっ」

その夜、蓮房は上機嫌で鏡を覗き込んでいた。
色んな角度から顔を映し髷に手を添えて整えた。
更には後ろに控える侍女に尋ねた。
「どう?今日の化粧は?綺麗?」
「喬様は花のように綺麗ですから化粧がなくても他人はとても及ばないです。姨娘、ご安心ください」
「口が上手いわね!」

「喬姨娘」
前振れもなく声がして照影が入って来た。
蓮房はバネ仕掛けのように立ち上がって照影の後ろを見た。
「旦那様は?」
「喬姨娘、旦那様は公務がある為今夜も半月畔です。これを姨娘にお渡しするようにと言付かって来ました」
照影が差し出したのは赤い表紙の琴の楽譜だった。
用件が済むと照影は挨拶してさっさと帰っていった。
喬姨娘も繍櫞も啞然としていた。
「旦那様も分からない人ですね」侍女繍緣は呆れていた「喬様のお気持ちが台無しです
蓮房は天を仰ぐと楽譜を床に投げ落とした。

[気の重い役割―文姨娘]
翌日、昼を前に文姨娘は料理を運ぶ使用人にあれこれと指図していた。
「随分と沢山準備されましたね」侍女が感嘆した。
「旦那様が来るからねえ。先夫人が亡くなって喬姨娘が一番にならないかと随分心配したけど、まさか私達と同じくこの一年間旦那様と同寝出来ずだもの。新夫人も寵愛を失くしたしね、この好機を掴まないと」
「文様のお心遣い、きっと旦那様にも伝わるはずです」
「確かに我が文家は繁盛してる。でもそれも旦那様と徐家の名前があるから・・だから私のする事はすべて家の繁栄に繋がるのよ」
「文家は徐家にとっても功労者ですよ。文様は旦那様にとってもきっと他の人とは違います」
「それもそうね!」
令宣が入って来た。「旦那様、いらっしゃいませ!」
「旦那様、早くお掛けになって、旦那様はいつも公務にお忙しいです。だからお身体の為にわざわざ参鶏湯を作らせました」
(わざわざ・・)
「さ、どうぞ熱いうちにお召し上がりください」
「ありがとう」
「旦那様、この参鶏湯の人参は普通の人参ではありません。百年参といって兄が長白山へ商いに行った時に銀二十両も出して購入しましたの。それをわざわざ人を頼んでここまで運ばせました」
令宣は仰天した。
「「この湯(タン)は二十両もするのか!?」」
「二十両だけじゃありませんよ。この中に椎茸や鹿茸も入ってます。全部合わせたらかなり高価ですよ。旦那様が喜んで下さるならどれほど銀子を遣っても構いません」
「・・まだ未処理の公務を思い出した。ゆっくり食べてくれ。では」
「旦那様!もう帰られるのですか!?まだ料理の味見もされてませんのに・、せめて、この湯を飲んでからにしてください」
「これ程の高価なもの私には勿体ない。諭に飲ませてやれ。成長期だから」
「旦那様・・」
文姨娘は部屋を出ていく令宣の後ろ姿を呆気にとられて見送るしかなかった。

[気の重い役割―秦姨娘]
薄暮が迫る前、令宣が訪れたのは秦姨娘の部屋だった。
突然の訪問に茶の用意をする姨娘達の側で令宣は立ったまま壁の掛け軸を鑑賞していた。
茶の支度が整ったので侍女は気を利かせて下がる。
「旦那様、今年の新茶です。よろしければ・・」
掛け軸を観るのに没頭しているのか返事がない。
「それは大奥様から先日頂いた絵です。そこに掛けているのですが、そこで良かったのでしょうか」
「竹が青々として桂花は鮮やかで美しい。しかも翡翠が生き生きと描かれている。
この窓と相まってなかなか風情がある。これは、もしかして林椿の桂竹翡翠図か?」
「・・・」
振り向くと秦姨娘が困ったような顔をしていた。
「・・そのようです」
(秦姨娘はさほど文物に詳しくないな。余計な事を聞いてしまった)
それ以上会話が続かず、令宣の視線が彷徨って部屋の片隅に置かれた木箱に止まった。
でんでん太鼓や小さな動物の玩具がはみ出ていた。
秦姨娘が慌ててその箱を仕舞いながら言い訳した「昔の物を片付けていましたら出てきたのです」
随分古い物だとすぐに分かる。
「・・傷心しているのは分かる。しかし、もうあれから何年も経った。ずっと自分を閉じ込めないで・・」
「私はもう子供を産めなくなりました。どう忘れろと仰るのですか」
令宣は黙った
姨娘は涙を拭い「すみません、そんなつもりでは」
「分かっている・・すまない、公務がまだ残っている。日々自分の身体に気をつけて・・」
「・・旦那様」
去っていく令宣の後ろ姿を見て秦姨娘は詫びしい気持ちだけが募った。
そんな励ましのような言葉を聞きたいのではない。同じ哀しみを分かち合いたかっただけなのに。
最後の訪れから余りにも長い年月が過ぎ自分にとり令宣は随分遠い存在になってしまった。
いや、最初から遠かったのだ、と秦姨娘は思い直した。

[夢の後で]
令宣は悪夢を見ていた。もう何度も見ている昔の悪夢を。
徐家の屋敷は大勢の官兵に取り囲まれ、逃げ惑う使用人達と引き立てられる家族で混乱を極めていた。
大旦那様と世子の二兄が、援軍の約束を破った区家に陥れられ孤軍奮闘籠城の末、討ち死。
そしてその大敗の責任を取らされた上に敵と通じていたという讒言をする者が現れ朝敵という濡れ衣まで着せられた。激怒した陛下が二人の死後、遺された家族にも連座という重い罪を課そうとした為に一時期徐家全員が投獄される憂き目に合う。
[永平候爵と世子の監査不足と敵情判断の誤りにより我が軍は全滅に及び、多数の兵の傷亡、腹立だしい限り、連座に処する]

この時、羅家初め永平候の朋友だった多くの忠臣の嘆願と諌言がなければとうに徐家は全滅していたのだった。
また若き令宣が一兵士として前線に従軍し、死ぬ程の大怪我を負いながら大功を立て大将軍の地位にまで上りつめなければ徐家の名誉回復と復興は無かった。

この重い夢から醒めた令宣は起き上がって上着を着込んだ。
眠れず頭は重い。
書斎を出て回廊から真夜中の庭園へと足を向けた。
夜の冷たい空気に触れてみたかった。

彼が目指した庭園の東屋。そこには先客が居た。
令宣は十一娘が手を組んだ姿で一人月明かりに照らされて居るのを見た。