[母・呂姨娘の死]

慈安寺ではその頃永平公・徐家の法事が営まれていた。

僧侶の読経が続く中、副将の臨波が令宣に何事か耳打ちをする。

令宣は弟に目配せをして退くと「母上を頼む」と言い残し表に控えていた官兵たちを連れ何処かへと向かっていった。


捜索中の海賊の頭の弟がこの付近の山中に潜伏しているという情報を掴んだ。
令宣は捕縛した彼らを何者かによって兵営から脱走させられていた。彼らを帰順させ国の混乱を治め閉ざされた海上貿易への道を開いてやりたいのに。それが彼らが生きる道へと繋がるというのに。

呂娘は今にも羅家に見つかりはしないかとはらはらしながら慈安寺への裏道を走るように急いでいた。
途中、冬青からもっとゆっくり歩くよう何度も注意されながら。
慈安寺の山門から降りたところで呂姨娘が突然慌て出した。
十一娘に貰ったばかりの香袋が腰から無くなっていたのだ。屋敷を出た時は確かに着けていた。
来る途中の裏道で落としたのに違いない。
呂姨娘は荷物を冬青に預けるとまた来た道を引き返していった。

十一娘が別の道から追い付いた時には冬青一人が待っていた。
母が引き返した事を知った十一娘はまだ戻ってこない母が心配になり捜しに行こう!と冬青の手を引っ張り山門の階段を駆け登っていった。

そして、裏道を辿って見つけたのは、草むらで既に息絶え変わり果てた母の姿だった。

半時も経っただろうか、草むらに大勢の官兵が取り巻いているその前でまだ温もりの残る母の身体を抱きしめて羅十一娘は泣き続けていた。
官兵は十一娘を説得していた。
「お嬢さん、悲しいのは分かるが遺体を運んで解剖しなければ犯人を探して罰することも出来ない。お母上を我々に任せて下さい」
それでもひしと母を離さない十一娘に役人も困り果てていたところへ令宣が知らせを聞き降りてきた。
令宣はそこで亡くなっている女を抱きしめているのが義妹の十一娘であることに気付き驚く。
面差しが似ていることや年齢やなり服装で亡くなったのは十一娘の母に違いない。
何故ここで殺されたのが羅家の妾夫人なのだ?女だけで何故ここにいる?護衛もつけずに・・疑問が次々と沸いて来る。
それでも彼女の目線にまで腰を下ろし冷静な声で十一娘に語りかけた。
「犯人の捜索が一分遅れれば、犯人は一分遠くへ逃げて行くのだ。それでもいいのか?」
とめどなく涙を流し続けていた十一娘がふと目をあげる。
「よく考えるんだな」
候爵はそう言って立ち上がった。
最後の言葉は冷たいようだが、十一娘の頭を少し冷静にさせる効果があった。
十一娘はようやく母を離し呂娘のなきがらを役人に委ねた。
母の遺体を乗せた担架を十一娘と冬青は身を寄せ合うようにして見送っていた。
その後をさらに令宣達と闘い命を断った海賊の遺体が運ばれていく。
令宣は部下に二人を羅家まで送るよう言い付けると、この羅家夫人の殺人と今し方命を断った海賊との接点について思いを巡らすのだった。

十一娘は慈安寺で母を失い、再び羅家へと連れ戻された。
この顛末について羅家の父は茂国公爵家に嫁がせたくない呂娘が娘を連れだして逃げた挙げ句、事件に巻き込まれたものと考え勝手なことを仕出かしたと亡き呂娘に対して激怒していた。
羅大夫人は呂娘が亡くなったことなど露ほど気にかけてはいない。厄介払いしたとまで内心思っていたほどだ。
が、羅大夫人は見抜いていた。
部屋に篭り悲しみにくれていた十一娘を呼び出し氷の刃のような言葉を突きつける。
「大旦那様はこの度の不始末は呂娘が仕出かしたことだと思っている。だが私には分かっている。この一件はお前が仕組んで主導したのだ。お前が結婚から逃げたくてお前の母を巻き添えにしたに過ぎぬ。お前は女が自力で生きていけると考えているようだが、それは妄想に過ぎぬ。その結果どうなった?母を死なせたのはお前だ。呂娘もあの世で悔いているだろうな。お前のような我が儘で身勝手な娘を産んだことを」

羅大夫人に責められるまでもなく十一娘は激しく後悔していた。
結婚から逃げ出そうと考えたことは仕方なかったのだ。だがこの計画の何処かが間違っていたのだ。そのせいで母を巻き添えにしてしまった。結果的に母を死なせてしまった責任は自分にある。悔いても嘆いてもあの優しい母は戻ってこない。
あの時に戻れるものなら・・。十一娘は暗い思いに墜ちていった。

一方、都の役所ではこの殺人は手配中の海賊が官憲から逃げる途中、何らかの理由で慈安寺に参拝に来た羅家の夫人を襲って殺した、という結論が出されていた。

ややあって急報を聞いた簡師匠が十一娘を訪ねてきた。
簡師匠は十一娘から事のいきさつを洗いざらい聴いた。
「師匠、結局わたしが母を殺したんです」
簡先生は羅家の召し使いに聞かれないよう声を抑えながらも十一娘を力強く励ました。
「いや、違う。あなたがした事とこれとは関係が無い。この件で貴女を責める者は貴女を潰したいだけよ。そうすれば貴女が自分達の思うままになるだろうと考えているのよ。貴女は悪くない、私は何処までも貴女の力になるから決して諦めてはいけないよ」
「師匠、分かりました。決して希望を捨てません」
十一娘は師匠の言葉で涙を拭った。
「あ!それから師匠、母の件でおかしな事があるのです。母を殺したのはあの場で死んだ海賊だと言うことになっています。けれどこれを見て下さい」
臙脂色の絹地に細かい刺繍を施された帯の一部のような布を取りだし師匠に見せた。
「これは母が亡くなったときずっと手に握りしめていたものです。きっと犯人のものに違いありません。しかし、あの時に見た海賊の服装は木綿でこれとは全く違うのです。犯人はあの海賊ではありません。師匠はあらゆる生地を扱っておられるのでこれが何だか分かりますか」
簡先生は十一娘から受け取った布を手に取り仔細に調べていた。
「この生地は知っている。さして高価なものではないね。少し銀子を出せば誰でも手に入れる事が出来るものよ。・・でもこの刺繍のさし方は見たことがないし、この線も非常に珍しい・・」
「そうですか。それならこれを手掛かりに犯人を捜せるかも知れませんね。母はもう帰ってきませんが、わたしは母を殺した本当の犯人に法の裁きを受けさせたいのです」

そう決めて話し出した十一娘の目はもういつもの光を取り戻しつつあった。

[母・呂青桐殺害の犯人探し]
塞ぎ込み嘆いていた十一娘の心は幾分落ち着いてきたが、次に犯人を探し出して法の裁きを受けさせると言う新たな目標は十一娘をまた激しく行動に駆り立てることとなった。
この屋敷に籠もっていては進展はない。
だが事を荒立てたくない大夫人に見つかれば閉じ込められる。
十一娘は冬青に調達させた門番の服を着込み屋敷を抜け出す隙を狙っていた。
その十一娘の前に立ち塞がったのは大夫人から与えられた侍女琥珀だった。
実際には琥珀は十一娘の見張り役だ。
「琥珀、頼むから見逃して頂戴。どうしても出掛けなければ」
「お嬢様のお気持ちはよく分かります。わたしにも生き別れた家族がいます。私にできる事は大夫人への報告を2時間遅らせることだけです」
「ありがとう。なるべく早く戻る」

十一娘の目的は呂母が握りしめていた例の布を持って順天府(警察署)に再捜査を嘆願する事だった。「そんな布切れで再捜査など・、とっとと帰れ!」
しかし、けんもほろろに門前払いされただけの徒労に終わってしまった。

十一娘にとってはこれは大切な「物証」。。
これに「人証」が揃えば順天府も信用するかも知れない・・

十一娘は慈安寺へ駆け出した。
境内にいた僧侶に当日の状況を聞くと「その日は徐家の法要があったので寺に居たのは徐家の方々だけです。他にはおりません」
徐家の人々のみ、、これが事実なら徐家がターゲットになってくる。
しかし、徐令宣は厳しい軍律に従う軍人であり公正な人格者だと思われている。あの日語られた言葉からも冷徹で実直な性質が伺えた。当日部下や徐家に不審な動きがあれば黙ってはいないはず。
時間の迫る中、十一娘が目に留めたのは寺を掃除する見習いの少年僧・清瞑だった。
十一娘が語りかけると清瞑は「貴女がお尋ねになりたいのはあの事件の日のことですか?先ほど兄弟子に聞いていらしたので」
「そうです。あの時殺害されたのは私の母なのです。あの日、変わった事や気づいた事はありませんか?」
「あの日、私は八角亭の傍で薬草取りをしていたのです。そこで見た方が貴女のお母上ではないかと思っています」
「……それから帰りにもう一人女性が八角亭に現れました。永平家の女性だと思います」
「何故そのように?」
「その日は永平家しか受け入れていなかったのでそう思ったのです」
そこまで聴いたところで、向こうから先輩僧侶が「清瞑、読経の時間だぞ」と呼ぶ声が聞こえてきた。
兄弟子と去っていく清瞑の後ろ姿を見て深い想いに囚われていると、琥珀から聞き及んだのか大夫人から十一娘を連れ戻す為に遣わされた羅家の使用人達が門前からわらわらとやって来るのが見えた。

呂青桐は無断で家を出、そこで不可解な死を遂げた。
これは羅家にとって世間に知られたくないスキャンダルだ。それなのに十一娘が母の死の真相を調べるなど到底大夫人の赦せるところではない。
帰宅して大夫人の前に立たされた十一娘は自分の真意は隠した。「ようやく私もお母様の教えは正しいと思い至りました。今日慈安寺に行ったのも心を改めて亡き母の菩提を弔いたかったからです。これからは自分の本分を守りお母様の教えに従います。お母様にご迷惑をおかけしません」
「本音なのね?私だって貴女の為に言ってるの。あなたに良い縁談を結ばせてあげたい、それだけ。呂娘には最上の柩を用意したわ。葬儀もちゃんとする」
「御面倒をおかけします」
「私に遠慮は要らないよ」
「感謝します」
大夫人は機嫌が良かった。
叱り付けて自我を潰し、その後優しくしてやると相手はホロリと自分の軍門に降るものだ。
十一娘が反抗的な態度を改めて下手に出てきたのはこの手が功を奏したから。
どうせどう足掻こうと自分の掌からは逃れられない。これで大人しく茂国公家に嫁いでくれれば安泰だわ。大夫人は笑みを浮かべた。

冬青はぷりぷりと怒っていた。
琥珀が十一娘の家出を大夫人に誤魔化さずに報告したからだ。
「怒らないで。琥珀が居なかったら私は門を出ることすら出来なかったのよ」
「お嬢様、わたしは自分のやるべき事をしただけですから」
琥珀は控え目に微笑みながら仕事に戻っていった。
「冬青、あまり琥珀と争わないで。彼女だって難儀を抱えてるんだから」
「だって琥珀は奥様の手下ですよ。信用すべきじゃないです!」
二人になるなり冬青が尋ねる「それでお嬢様!何か分かりましたか?」
十一娘が自分が調べてきたことを話す。
「なんですって!あの事件は徐家に関わりがあるんですか!?」
「しっ!大きい声を出さないで・・とにかく何とかして徐家に入りこまないと・・」
「でもお嬢様、大奥様はお嬢様をあのろくでなしの茂国公・王に嫁がせるつもりなのに。嫁いでしまったら徐家には近寄れないじゃありませんか」
何とかしなければ・・
十一娘は再び深い思案に沈んでいった。

[端午の節句]
朝、徐令宣は鏡に向かい正装を改めていた。
今日は端午の節句なので羅家の舅に挨拶に行く。
節句には妻が夫に厄除けの香袋を手作りするのが習わしとなっている。
元娘もその朝香袋を夫の腰に結んだ。声は涸れいよいよ体調が優れないのに無理をして妻の役目を果たそうとする元娘が憐れでならなかった。
令宣は挨拶だけではなく羅家の舅が朝廷の職を解かれてから長いことを気にかけていた。
一家の当主が長らく無聊を囲っているのは世間体も悪いので令宣も何とか力になりたいと考えて働きかけはしている。しかしこれには政治的な派閥の力関係が働いていて令宣一人の力では何とも動かない。特に今は舅が属している派閥の長が更迭されたばかり。
難しい局面にあることも正直に伝えなければならないのが辛いと言えば辛い。

羅家に到着して舅に挨拶すると元娘の様子を尋ねられる。
「何とか回復に向かっています」
「そうか、それなら良かった・・」
家族を安心させる為とはいえ嘘をつくのは令宣も心苦しい。
その苦しい胸の内は舅にも伝わっている。
舅は嫡男・振興に向かいお前の書斎で令宣に寛いで貰ってくれと命じた。
幸い、令宣と嫡男の振興は親しい間柄だ。
令宣達は書斎へ続く回廊へと向かった。