
蕭佑は急に喉の渇きを覚えた。
「ば…馬鹿な…」
出た声は掠れて力なく上擦った。
魚蝶はチラと蕭佑を見るとふぅっとため息をついた。
「旦那さんも意気地がないねぇ…」
その通りなので一言もない。
「女がさ…自分から勇気出して通ってるっつうに」
「しかし…」
「しかしも案山子もないよ…歳の差が何だって言うのさ…英俊を見習いなさいよ」
魚蝶に掛かれば倅も呼び捨てである。
言いたい放題の魚蝶に反論もままならず蕭佑は項垂れた。
項垂れつつも蕭佑の鼓動は高まったままだ。
そして小庸の気持ちに想いを馳せた。
思えば彼女は茶席の日から時を置かず私の元へとやって来てくれた。
魚蝶の言う通り小庸も多少は私を気に入ってくれてるのかも知れない。
けれど若い子にありがちな気紛れや気の迷いと言う疑いもある。
唯一思い当たる事と言えば彼女は父親の温かみを知らない事だ。
私に父親への憧れを投影しているのではないか。
いや、待てよ。
生前の薛卿ほど年寄りではないぞ、俺は。
思えば薛卿はとんでもない年寄りだよな。
俺達武官を見下し学者然としてお高く止まっていたくせに、孫ほどの娘を孕ませたんだからな。
良くやるよ、
歳は取っても房事は別って事か。
は!大した老爺だ…。
しみじみ考え込んでいると
「ちょっと〜旦那っ、旦那ってば…何一人で考えに耽ってるのさ?」
魚蝶の声に蕭佑はハッとして我に返った。
「魚蝶…あ、まだ居たのか?」
魚蝶は飽きれてあんぐりと口を開けた。
「はあ?…まだ居たのかって?!引き止めたのは旦那じゃないか。全くもう変なオヤジだよ!」
魚蝶はプッと頬を膨らませて手拭いを勢いよく肩にかけるとスタスタと裏口へと去って行った。
蕭佑はその後ろ姿をぼーっと眺めていた。
魚蝶の言う事にも一理ある。
誰が相手になるにせよゆくゆく小庸は嫁がなければならない。
母親の綺眉は後添えであり、薛家は卿の弟の一家が跡を取り仕切っていると聞く。
小庸は何時までも実家にとどまる訳にはいかないのだ。
その午後訪ねて来た小庸は手遊びの裁縫道具を持参していた。
自分の傍らで裁縫をする彼女の姿を思って蕭佑は微笑んだ。
小庸は腰掛けると蕭佑の身なりに目を走らせた。
「伯父様の香袋、随分と馴染んでらっしゃいますね」
蕭佑は腰に着けた香袋を手に取った。
あちこち痛んで綻びている。
古びた物を思い気遣ってくれたのだろう。
蕭佑は香袋に視線を落としたまま言った。
「確かに痛んでいるな。家内の形見だ…英俊が成人する随分と前に亡くなった…」
小庸はおし黙ると真面目な表情で香袋と蕭佑を交互に見た。
もしかして私の妻の事が気になるのだろうか…。
「気にするな…去る者は日々に疎し…だ」
まさに今は小庸と居る。
「伯父様、その香袋を修繕させて頂けませんか?」
「これを?」
「はい…私で良ければ…そのちょっと…穴があきそうになっているんですもの…奥様の思い出の品ですから大切になさらないと…」
蕭佑は腰帯から袋を外して小庸に手渡した。
その紐さえ今にも解けそうに弱々しい。
いったん紐が切れてしまえばもう結ぶ事も叶わない。
近頃は雑事にかまけて亡き妻を偲ぶ事も少なくなっていた。
忘れかけていた薄情な自分を蕭佑は心の裡で嗤った。
考え込む表情になっていたのだろうか。
小庸が痛ましそうな面持ちで自分の顔を覗き込んでいるのに気が付いた。
「伯父様…この香袋はお預け下さいますか?」
「あ…いいとも」
小庸はそれを聞くとあっさりと立ち上がった。
「ではこれで失礼します」
蕭佑は驚いて尋ねた。
「今来たばかりじゃないか…どうしたんだ急に…何か気に触ったのか?」
蕭佑は針仕事をしながら側に居てくれる彼女と温かい刻を過ごせるとばかり思い込んでいた。
それなのに…
何故突然帰るなどと言い出したのか。
小庸は戸惑う蕭佑の顔をじっと見詰めた。
「伯父様が大切な奥様の事を思っておいでなのが分かりました。…私がお傍に居ては思い出に浸れません」
小庸の表情は硬く言葉はかつてない冷たさと隔たりを感じさせた。
私を拒絶するのか。
「しょ…小庸」
「…失礼します」
蕭佑は立ち上がると出てゆこうとした小庸の前に回り込んでその手を取った。
「伯父様…!」
「帰るな」
驚いて蕭佑を見上げた小庸の瞳は小刻みに揺れていた。
「伯父様…」
「言うな…帰らないで居てくれ」
彼女をこのまま失いたくない。
蕭佑は取り憑かれたような焦りに駆られて
気が付くと彼女を抱き締めていた。