賀大監は応接間に入って来た汀雨を立ち上がって出迎えた。

「早朝より押し掛けまして誠に恐縮です」

「恐れ入ります…わざわざ朝餉をお持ち下さったとか」

大監は朝の光の中に現れた汀雨を惚れ惚れと眺めた。

改めて見る日常着姿の汀雨は昨夜の貴公子然とした姿とは見違える無垢で清潔な美しさがある。

なるほどこれ程の美形なら姫君方が執心するのも無理もないわいと思えた。

寝込みを襲われたのだから仕方がないだろう。

彼の繊細な表情からは警戒心が仄見えた。

その警戒心を解きほぐそうと

大監はにこやかに傍らの手提げ箱を差した。

「昨夜はあまりお召し上がりにならなかったのを福王様がご心配なされ、消化の良いものを召し上がって頂くようにと下賜されました」

汀雨は益々気分が重くなって来た。

「ご親切痛み入ります…感謝します…ですが私は大丈夫ですので何卒ご心配頂かぬよう福王殿下にお伝え下さい」

「はい、畏まりました。そのようにお伝えします…それとそのぅ…」

「まだ何か?」

大監は言いにくそうに言葉を探っていたが思い切ったように口を開いた。

「そもそも…と申しますか…昨夜の膳がお気に召さなかった事については当方の手落ちであると阿雅公主からお叱りを頂いたのでございます」

「阿雅公主?」

「福王殿下ご長女の絢姫様です。大層汀雨様を気遣っておいででございました」

その時汀雨は気付いた。

福王ともあろう方が一介の書生もどきの自分にここまで配慮するとは思えず違和感があった。

この膳はその公主が言い付けたに違いない。

「ちょっとお待ち下さい。誤解があるようです」

「と、申されますと?」

「御膳を頂かなかったのは私の身体の調子が悪かったせいです。決して王府の膳のせいではありません」

「左様でございましたか…帰りましたら公主にお伝えし誤解を解いておきます」

汀雨の声は一段と冷たくなった。

「そうして下さい」


大監を見送った後

苦虫を噛みつぶしたような顔の汀雨の横で、高新が早速重箱の蓋を開けた。

「うお…凄いです。なんすかこれ…噂に聞く高麗人参と燕の巣の汁物すか?粥も猿の腰掛けつうんすか?あ、霊芝?が入ってますよ…師匠、早速頂いたらどうですか?」

呑気そうな高新の声を聞き

汀雨は声を荒げた。

「要らぬ…お前が食べろ」

汀雨は

権力者とその娘に翻弄されるのが腹立だしかった。

「え?そんなぁ…折角師匠に下さったものを…」

「じゃあ、捨てろ」

にべもない汀雨の言葉に高新は蓋を閉めた。

なんと勿体ない。食べ物に罪はないだろう。

昼に温めて食べればいい。

高新は重箱を下げがてら師匠にいつもの食膳を出すように婆さんに頼んだ。

「師匠〜なんでそんなに頑なになるんですか?」

「借りを作りたくないんだ」

徐羅夫人の言葉からは徐家が福王派とは距離を置いている事が伺われた。

徐家の嫡男が娶った内室が謹習書院の主宰者姜家の嫡女である事も何とはなく聞いている。

姜家も政治の派閥からは遠ざかっている一族だ。

何があっても家族を政争の具にされないよう中立でおれるよう考え抜いている。

自分は政争に巻き込まれるような立場にないとは言え、絶対に巻き込まれないとも言い切れない。

あの大監が恐縮したように公主の名を出した事も引っ掛かっていた。

汀雨の気持ちは塞いだ。

そこへ厨房からいつもの温かい粥と菜が届いたので考えは中断した。

高新が戯けた声を出した。

「お、婆さん。今朝は卵粥にしたんだ!福王府の薬膳粥に対抗心を煽られたんすかね?」

「やっと裏の鶏が卵を産むようになったんだろう」

賄いの邱婆さんは暇にあかして裏庭で野菜を作っていたが、鶏を飼えば肥料代も安くついて一石二鳥だとか言い出し、先ごろ市場で家職の爺さんと二人掛かりで雛を仕入れて来たのだ。

鶏の柵は汀雨が拵えた。

「師匠は何でも作れるんですねぇ」

と高新が感心して言ったものだ。

温かい素朴な粥の湯気を前にすると昂ぶっていた気持ちが薄らいでゆく。

何時ものように黙々と朝餉を平らげていた汀雨は箸を置くと自分で膳を返しに厨房へ行った。

「邱さん、ご馳走様…いつもの粥も美味しいけれど今日の卵粥も美味かった」

「坊ちゃま、そりゃあようございました…また明日も卵を産んでましたら卵粥に致しましょうね」

いつも彼の事を坊ちゃまと呼ぶ婆さんに苦笑しながら汀雨は厨房を出た。