視線を避けて俯く彼がもどかしい。

王府という敷居が高すぎて引け目を感じるのだろうか

それとも私自身がお嫌い?

いいえそんな筈はない。

絢姫は慌ててその考えを打ち消した。

今日初めてお会いしたと云うのに、好きも嫌いもないわ。この短い時間で私の何が分かると云うの?

「ですから…」

本当を言えば此処に来たのは独断だ。

勝手をしているのは分かっている。でも父上だって調査結果を聞けば一も二もなく彼を書の教師として迎える筈。

宴の夜あれだけ残念がっておられたのだもの。

今更躊躇するようなら私が説得するわ。


避けようとする彼を追いかけるように続けた。

「何もご心配は要りません。書の師匠として王府にお越し頂けますか」

汀雨は頑なに俯いていた。

彼から発せられる空気は一層硬さを増した。

遂に返って来た返答はにべもなかった。

「わざわざお越し頂いて恐縮ですが…私は福王府とは何の縁もない卑賎の身です。書の指導もお引き受け出来ません。どうかもう此処へはいらっしゃらないで下さい」

汀雨は俯いたまま一礼すると馬車に背を向けた。

去ってゆく汀雨の背を公主の声が引き留めようとした。

「待って、待って下さい…」

汀雨は心の中で耳を塞ぐとその声が聞こえないふりをして足早に玄関を潜った。

公主は生まれて初めて人から拒絶されるという痛みを知った。

その公主の肩を背後から抱いたのは姥の冨野だった。

冨野は絢姫がどうしても行くと聞かないので買い物の名目で共に王府を出たのだ。

未婚の公主が男のところへ行くなど赦されない。

冨野は今日此処で初めて汀雨と云う若者を見た。

成る程あの稀な美貌なら公主が執着するのも頷ける。

けれど出自が怪しいだけでなく、今のやり取りを聞けば男にその気がない。公主の気持ちが深まる前に諦めさせなければ。

姥は哀しむ公主の背を撫でた。

「絢姫様…もうあの者は捨て置きなさいませ。絢姫様が声をお掛けになっただけでもあの者にとっては十分過ぎる位栄誉な事です。自ら卑賎の身と認めていたではありませんか。お傍に置く価値のある者ではありませんよ…書の師匠なら他にいくらでも優秀な者が居ります…学士院から推薦させるよう福王様にお願いしてみましょうね…」


こんこんと説く婆やの忠告は絢姫の耳に届かなかった。

いやよ…学士院に彼以上の見目の良い若者がいる?

猿や猪みたいな顔の男に傍に寄られたくない。

ぞっとするわ…

今しがた見た彼はあの夜遠くから眺めた彼ではない。

初めて近くから見た彼の繊細な横顔は想像より遥かに愛おしく慕わしかった。

拒絶された一瞬の傷も忘れ、彼の硬化した態度も身分の違いを考えれば仕方がないのだと思うようになった。

冷たい態度さえ絢姫にとっては好ましい謙譲の美徳と映っていた。

身分の違いを飛び越えて近付く事を

怖れてらっしゃるのよ、あの方は。

世情が恐ろしければ

私が守って差し上げればいい。

絢姫は結局何ひとつ諦めてはいなかった。


書斎に戻って来た汀雨を高新が待ち構えていた。

「師匠…どうでした?」

高新も仕えるうちに汀雨には身に過ぎた出世欲がない事をより知るようになっていた。

「例の件を持ち出されたが断わった」

やっぱり俺の信じた師匠だ。

高新はやっと普段の通りの師匠に戻れると喜んだ。


あれだけ冷たく突き放したのだ。

もうやって来る事はないだろう。

後味は良くないが言う事は言ったという達成感のようなものが彼の心を満たしていた。

汀雨は懐に手を入れると巾着を取り出した。

水滴は冷たくはない。

汀雨の胸に温められて仄かに温もりを感じる。


もしあの人から求められれば自分は一も二もなく参じるだろう。

到底あり得ない夢想をした自分を汀雨は嗤った。