払暁…目覚めた汀雨は寝床の中から質素に整えられた彼の部屋の片隅が夜明けの薔薇色に染まりゆくのを眺めていた。

その早春の曙光は曹家の片隅のうら侘びしい荒屋に住まいしていた頃の冷たくピリリとした朝を思い起こさせた。


人の縁とはなんだろう。

宗塾へ通う事がなくなって、一旦縁は切れたかと思っていた。

もう密かに彼女を見守る事は叶わない。

けれど縁は切れてはいなかった。

温情により柳公家の書院へ入門を許された事で縁は逆に繋がっていたのだ。


「師匠、おはようございます!」

その日も早朝から通って来た高新が部屋の火を熾しにやって来た。

汀雨は三日三晩座込みをしたこの側仕えに屋敷への住み込みをまだ認めて居ない。

こじんまりとした屋敷だ。

夜ひっそりとした一人の時間を大切にしたい。

人が多いと煩わしいし身の回りの事は自分で何でもやれるからだ。

けれど高新はへこたれず夜が明けるとやって来る。

そこは感心だ。


高新が入ってゆくと師匠はもう既に洗面を済ませ端然と座わり髪を漉いていた。

白い部屋着に艷やかな黒髪が流れる横顔に高新は見惚れた。

こりゃあ都の女子共がきゃあきゃあと憧れる筈だよなあ。

ごく平凡な面相の高新はひたすらに感じ入り

そんな師匠に師事出来た事を誇らしく思った。

「師匠、朝飯をお持ちしました」

粥と菜の質素な朝食の載った盆を置くと傍に控えた。

「お前も座れ」

「いえっ!厨房でかき込んで来ました」

汀雨は慣れて居ない。

傍に立って仕えられているとやりにくいのだが。

汀雨が黙々と朝食を取っているあいだ、高新は今日の予定について帳面の覚え書きを見ながら喋った。

「師匠、今日は午前薬種問屋の同源堂と打ち合わせがあります」

「分かった」


向かった先の大店同源堂の屋敷は世家さながらの壮麗さだった。

約束の時間に到着すると丁重に客間へ案内された。

主が出迎えて一通りの仕事の運びについて話し合ったその後、お約束のように茶を持った娘が現れた。

当主が汀雨に紹介した。

「先生、当家の二女、百合でございます」

汀雨は娘と目を合わせようとせずただ礼儀正しく頭を下げた。

百合は恥ずかしそうに頬を染めながら手にした菓子盆を汀雨の前に勧めた。

「先生、私の作った菓子です。どうぞお召し上がり下さいませ」

汀雨はそれにも答えず少し頭を下げただけだ。

高新がすかさずあいだに入った。

「実は先生は甘いものが苦手でして」

百合は淑やかな仕草で口に手を当てた。

「まあ存じませんでした…次お越しになる時には辛点心を作りますわ」

汀雨のもっとも苦手な展開になって来た。

何処へ行こうともこうして娘を売りこんで来られて彼は当惑するだけなのだ。

高新はちゃっかりと卒がない。

「折角の御心尽くしですので頂いて帰ります。次回はどうぞお気遣いのなきよう、、」


帰り途の馬車の中で高新はその包みからひとつを取り出してかぶりついた。

「甘い!師匠、甘いですよ」

汀雨は黙想していた。

実際汀雨の心を占めているのは暖々だけなのだ。

他の誰かがその場所を奪うことなど出来ないのだ。

昨日の再会ではっきりした。


その翌日、汀雨は何卿との約束通り吏部尚書府へ出向いた。

その一角で墨を摺り端座していると書記の集まる部屋がざわめいた。

噂の壮元柳愈が彼の元へ一直線に近付いて来たからだ。


「どうぞ」

汀雨は書物机から立ち上がり廻廊へ移動しようと手を延べた。

柳愈の後ろ姿を見ながら汀雨は進んだ。

彼が訪ねて来た理由ははっきりしている。

立ち止まった愈は振り返ると改めて手を組んで挨拶した。

「汀雨殿、突然押し掛けて申し訳ない。一昨日は妻を助けて頂いたそうですね。今日はその礼を言いに来ました」

柳愈は汀雨を観察していた。

都で噂になるのも頷ける。

筆の腕前だけではない。麗しい容貌だ。

汀雨はやや俯き加減で愈の礼を受けた。

彼は落ち着き払った声で応じた。

「とんでもありません。当然の事をしたまでです」

「本当に危ないところを助けて頂いたのです」

汀雨は懸念した。

暖々は何処まで細かく話をしたのだろうか?

不可抗力とは言え抱き上げた事を知れば夫に嫉妬されはしないか?

とりあえず余計な事は言わない方がいい。

「…と言うのも、妻は妊娠しているのです」

汀雨は激しく動揺した。

あの時抱いた身体は一人の身ではなかったのか。

汀雨はひやりとした…もしあのまま階段から堕ちていれば流産の可能性があった筈。

この手が彼女を悲劇から救った。

酷く辛い思いを暖々に味わわせなくて済んだのだ。

汀雨は心底ほっとした。

「そうですか…それは良かった…」

今日会って初めて明るい笑顔を見せた汀雨に柳愈は逆に心をかき乱された。