その日

仙綾閣へ礼部からの書状が届いた。

今年も天覧会が開催されるので出展するようにと勧める内容だ。

陛下が選んだ題目があり

今年は主題に沿った詩歌を配置するようにとある。

簡師匠が眉を顰めた。

「困ったわねぇ…期限が短か過ぎるわ」

十一娘も頷いた。

「それに瑩山先生は今ご病気でお頼みするのは無理です」

このところ仙綾閣は書家の瑩山に依頼をかけていたが高齢の為病勝ちになり床に伏している。

令宣は書なら私が書いてやると鼻を膨らませていたが火急の任務とかで西山営に行ったきりでいつ戻るとも知れない。

肝心の時に旦那様ったら…。

都の著名な書家はきっと取り合いになる。

「そうだわ師匠、瑩山先生にどなたかを推薦して頂いてはいかがでしょう」

「それもそうね。時間がないわ。お見舞いがてら早速伺ってくるわ」


戻って来た簡師匠の顔は明るかった。

「十一娘、朗報よ。瑩山先生が新進気鋭の書家を紹介して下さったの。内容も古典を使えば他店と競合する恐れがあるから不利だけど、その方なら詩文も創作なさるそうなの。先生の推薦なら間違いないわ」

十一娘も幸運に目を輝かせた。

「まあ…願ったり叶ったりですね」


「師匠、瑩山先生からの遣いがこれを」

高新から手渡された文を読んで、汀雨の表情がキリリと引き締まった。

「師匠、何ですか?」

「仙綾閣から作品の依頼だ」

「仙綾閣って、あの有名な刺繍屋ですか?」

「そうだ」

師匠には色々なところから引き合いがあったが刺繍工房の分野は初めてだ。

様子も分からないので少し心配になった。

「師匠、今仕事が立て込んでますが大丈夫ですか?」

「大丈夫でなくてもやる…高新、急ぎの仕事が来たら断われ」

高新は絶句した。

瑩山先生の頼みだからなのか?

だとしても他所を断わってまで引き受ける理由が分からない。

こんなに前のめりな師匠は初めてだ。

「大層急ぐ用件だ。今日仙綾閣へ行く」

そうさっさと決めると「着替える」と言って書斎を出て行ってしまった。

高新は確信した。

仙綾閣…きっとある。何かある。


汀雨は鏡に向かって髪を整えると真新しい羽織りに着換えた。

そして暖々から貰った白い足袋に足を入れた。

刺繍の世界に縁がなかった汀雨が

仙綾閣が暖々の母親・徐羅夫人の経営である事を知ったのは最近の事だ。

大通りにあるその繍房の前を通り掛かる度に彼はそっとその玄関に目を走らせた。

気持の奥にもしかすると此処に彼女が訪れて来るのでは…と期待する気持があった。

淡い期待はその度に裏切られ、見知らぬ人々が集っている店先を遠まきに見るだけだった。

けれどそこに彼女に繋がる場所があると思うだけで彼は温かい気持になれるのだ。

ただ多少懐に余裕が出来た今になるも華やかな場所は苦手だから気後れがして足を踏み入れる気にはならなかった。

今回は違う。

仕事で行くのだ。堂々と胸を張って行ける。


仙綾閣の店内で新来の男は静かな波紋を拡げた。

女客の目は供を伴い静かに入って来た品の良い若者の姿に吸い寄せられた。

男客や男性店員は称賛と嫉妬の入り混じった視線を浴びせた。

皆の視線が交錯する中、汀雨は店員に名刺を渡した。

店長が知らせた。

「簡師匠、羅先生。汀雨先生がお見えです」

「お通しして」

二人は同時に立ち上がって汀雨を出迎えた。

汀雨は静かに頭を下げた。

「瑩山先生からご紹介を受けました汀雨と申します。」

……

初めて会った暖々の母は若々しく温かい微笑を湛えて汀雨を出迎えた。

夫人は賢く善良で尚且つ威厳を備えた女性だった。

それにしても

人を安心させる微笑みは暖々とよく似ている。

汀雨は心を解きほぐされるような安心感を得た。

彼は人前では滅多に見せない笑顔になり

勧められるままに彼女達の前に座った。


師匠の傍に控えていた高新は驚きで目をパチクリしていた。

師匠の前に座る羅先生と呼ばれた女性は

あの人とそっくりじゃないか。

あの人…師匠が助けた

柳公家の若奥様と…。