受話器の向こうから聞こえてきた言葉に、キョーコはクラリと目眩を覚えた。
『ごめん、最上さん。今朝起きたら左手首が痛くて、病院に行ったら腱鞘炎だって診断されたんだ。ちなみに原因は不明。』
「腱鞘炎?どう言う事ですか。敦賀先生!!」
最上キョーコはLME出版の文芸部に籍を置く一編集者である。去年大学を卒業したばかりのキョーコが、作家の編集者に就く事はまだまだ先だとばかり誰も思っていたのだが、どこをどう間違えたのか日本でも屈指の売れっ子作家『敦賀蓮』の編集者に就いたのはつい半年ほど前の事である。
それだって、元々蓮に就いてた社倖一が他部署に移動する事になり、何故かキョーコに白羽の矢が当たったのである。
『俺だって分らないよ。ともかく、これで原稿を落としたら元も子もないだろう?』
それを言われるとぐうの音も出ない。
蓮は、『敦賀蓮』のペンネームで活躍している超売れっ子作家である。
20代半ばの彼は主に推理小説を執筆しているが、エッセイや時代物や恋愛もの等も書いている。
しかも、ドラマ化や舞台化、果ては映画化になってる作品もある。
キョーコも学生時代、蓮の作品を読んだ事があるが、流暢な文体に所々でクスリと笑わせてくれるユーモアセンスは天下一品である。
が、本人は表舞台に出るのが相当嫌なようで著者近影すら頑なに拒んでいると言う徹底ぶりであるが、蓮を知っているキョーコとしてはそれもさもありなんと思ってしまう。
サラサラの黒髪に190cmと言う日本人とは思えないほどの高身長に、服を着ていても分かる程に程よく鍛えられている筋肉。それらに加えてどこのモデルか俳優かと言いたくなってしまう程の美貌。
そんな彼が表に出ると、本来の仕事が疎かになってしまうのが目に見えている。
キョーコは溜息を吐いた。
「お話は分かりました。ただ、私の一存では決められませんので一度編集長に相談してみます。それから、折り返しお返事差し上げても宜しいですか?」
キョーコの言葉にほっとしたのか、相手は安堵の息を吐いて、『そうしてくれる?それじゃあ、よろしく。』と言って、電話を切った。
編集長のデスクを見ると、編集長である椹がいたので、キョーコは椹の下に近付いて行った。
「あの、編集長。」
キョーコが声を掛けると、椹は原稿から顔を上げてキョーコを見た。
「今、敦賀先生からお電話があったのですが、左手が腱鞘炎になったそうなんです。」
「左手が?どうしてだ?あいつは右利きのはずだろう?今時珍しくPCなんて使わずに原稿を手書きしてるんだから、腱鞘炎になるなら右手のはずだろう?」
「敦賀先生にもよく分らないみたいで。ただ、このままだと原稿を落としかねないって心配もされてて。」
「で?あいつは具体的には何て言って来たんだ?」
「私に口述筆記を頼みたいそうです。」
「口述筆記ねぇ。右手は大丈夫なんだから自分で書けるだろう。」
とぶつぶつ言ってた椹だが、最終的にはキョーコに原稿が上がるまで蓮の家に通うように許可を出したにだが、それがキョーコにとってある種危機的状況になろうとはこの時まだ椹もキョーコも知る由もなかった。
《おわり》
はい。現在、絶賛左手が腱鞘炎になっている、くりくりです。
左手が腱鞘炎になった事を職場で話すと、「なんで、利き手の右手じゃなくて左手が腱鞘炎になるねん!!あまり使わないのに。」と突っ込みが入りましたとも( ̄∀ ̄)
ええ、自分でも不思議でなりませぬ。
今回のは、そんな実話に基づいたお話でした。