チベット密教の名僧
多田等観さんのご紹介
〜その2
秋田出身の
チベット密教僧の
多田等観さんについて
最近なんだか
気になって
おっかけてまして
本日おこなわれた
メリッサ読書会でも
さらっと紹介してましたが
ちなみに
等観さんのご実家は
秋田市土崎にある
西船寺とゆー
お寺さんなんだけれども
🟦土崎図書館に
等観さんの資料が
あるとゆーので
本を借りがてら
同じ地区なので
西船寺さんに行ってみたら
🟦とても良く
等観さんのコトが
伝えられているお寺さんで
図書館にもない
とても良い資料を
快く見せてくれて📕
ホントーに
感動しましたが✨
土崎図書館で
お借りした本を
返却しがてら📕
また等観さんに
ご挨拶にうかがいたいなー🙏
ともおもうし
この次にブログにしたいな
と思っているところですが
🟦等観さんの人生は
【転換点】の連続で
その途中のプロセス
はあまり重要ではなくて
そこから学んだ
わらしべ長者ルール
が大事だったよーで
そのルールを
よーく見れば
等観さんの教えが
見えてくるらしーので
さっそく時代を追って
みていきたいのですが
よろしければご拝読ください🙏
転換点7 チベット密教入門
🟦等観さんの
生き様を
本で読むと📕
まー
1912年前後の
その当時の時代背景や
お国事情なども
あったろーけれども
🟥等観さんの
インドからのチベット行き
を阻むよーに
イギリスの諜報機関から
生命を狙われたり🔫
(MI6?カッコイー?)
🟥一番楽な
インドからのチベット行き
をあきらめて
ブータンからの
とても辛いチベット行き
を目指して
現地人になりすまして
チベットに行くことになった
等観さんだったけども
🟥ブータン行きですら
MI 6?の追手を巻くのに
苦労したみたいで
本によると
現地のインド人女性の
MI6のスパイが
等観さんを
助けてくれたみたい
🟥やっとのおもいで
ブータン入りして
現地のマーケットで
買い物をしよーとしたら
店の主人が
お金を奪おうとして
刃物で襲ってきたり🔪(ヒエー)
🟥ブータンの山間部では
致死性の高い毒矢を
吹きかけられたり🏹(シヌー)
🟥ブータンからの
ヒマラヤ越えでも⛰️
山から落ちて
生命を落としかけたり
(ダメダー)
🟥お金があるのをみせると
生命を取られるから
一ヶ月以上も
ろくすか食べられずに
(ハラへったー)
🟥心身ともに
特に足をボロボロに
しながら🦶(痛いー)
🟥一言では言えないよーな
生死に関わる転換点の
連続で
🟥チベット行きだけで
小説になるよーな
艱難辛苦を乗り越えて
やっとチベット入り
したことがわかるので
等観さんの
バイタリティには
驚嘆するものがあるなー
🟦この艱難辛苦から
等観さんが学んだのは
そーゆー転換点が
大事なのではなくて
その起こった事案からの
機転や
偶然や
導きや
生命力のすべてを
活かして
真ん中で
スポンとぬける
よーな🌀
ホントーの幸い✨
を見出すコトが大事
とゆーアタリらしー
🟦さて
首都のラサに到着して
ダライ・ラマに
謁見できたときには
やったー!
というおもいが
あったろーけれども
🟦ワタシも
チベット密教の
マンダラ感とかは
☀️🌈🔵#️⃣
特別なものだなー
と常々おもっているので
ネイティブのチベットで
学べていいなあー
とか気楽な感じでおもうのは
はなはだ失礼なことだとは
思うところはありますが
🟦ダライ・ラマは
等観さんに
チベット密教を
マスターさせるべく
さっそく
ゲルク派(ダライ・ラマの流派)の
でかいお寺のセラ寺で
ロブサン・シェラブ師の
元でキチンとした修行を
させてくれたとゆーから
等観さんには
かなり期待していた
とおもうけれども
🟦この当時、外国人が
チベット密教を学ぶ
とゆーのは異例だったろーし
なんとゆー
ラッキーさなんだろー
とかおもったし
🟦てゆーか
チベット密教は🌀🔺
七回くらい輪廻転生して
学ぶべき縁が作られている
とか言われているし👇
その昔、丸メガネをかけて
赤い布を巻いてるチベット密教僧が
背景にいる人を見たことあったから
そーゆー人が日本にも
いるのかもなー
🟦実際に
修行の中でしか
得られないよーな
内的な体験の
よーなものとか🔺🌀
🟦口伝でしか伝えられない
よーな精妙なものとか✨
🟦五感を超えるよーな
バランス感覚
とかは🌀🔺✨
やはりキチンとした
師匠から伝えられるべきもの
であろーから👄
🟦チベット密教の修行に🌀🔺
触れられたこと自体が
奇跡であり✨
🟦等観さん流の
生き方では必然
であったろーし
くるものこばまずで
ただ受け入れるだけ
なのかもしれないなー
🟦チベット密教については
等観さんの本からは
密教の真髄に
ふれたであろー✨
ことはわかるけど
🟦密教の内容とか
秘伝が絡むよーなことは
口からだしてはいかん
だろーから
その内容が
語られていないのは
まー当たり前
かもしれないけども
🟦お孫さんによれば
等観さんは
印も結べたし
チベット語のマントラも
挙げていたとゆーから
まーホンモノの
チベット密教僧
なんだよなー
🟦それにしても
キチンとしたゲルク派の
サイコーの密教の修行に🌀🔺
入ることができたから
等観さんにとっては
ものすごく大きな転換点
だったとおもうなー
🟦なので
転換点7は
セラ寺で密教修行を
はじめちゃったよ卍🌀🔺
とゆーアタリかなー?
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳⇒👑❤️⇒👣🏁⇒卍🌀🔺
転換点8 10年でゲシェー
🟦チベットでの
等観さんの
立ち位置としては
1️⃣ダライ・ラマ13世に対する
国際情勢の説明役とか🎙️
2️⃣ラサのポタラ宮殿に
自由に出入りできた
特別待遇とか
3️⃣仏教を学ぶうえで
好待遇を受けるコトが
できたとか🔺🌀
4️⃣西本願寺からの
財政的なバックアップによる
資金源的な立場
もあったのかなー?💰
5️⃣なにより
チベットの仏教文化の
日本への還元
とゆー役割が
大きかったとは思うけど
🟦それにしても
日常的な会話は
ある程度できたけれども👄
仏教上のコトバでは👄
大変苦労したみたいで
🟦チベット密教の
テキストを読んでも📕
象徴的な作りで
チンプンカンプンで
サッパリわからないし
🟦よくわからないコトバ
であるうえに
さらに輪をかけて
よくわからないテキスト📕
に触れた等観さんは
全然わからない!
と悲鳴を上げてしまったみたい
🟥ある意味
チベット行きの生死をかけた
ヒマラヤ越えとおなじくらいの⛰️
知的な障壁があった
のかもしれないけれども⛰️
🟦最初の頃は
ダライ・ラマから気合いを
入れてもらったりしたみたい
🟦よくわからないとゆーのもまた
大変な苦労だったろーなー
とホントーにおもった
🟦そんでもって
紙が貴重だったため
メモを取ることはできないし
🟦テキスト自体も
そもそも📕
部数がなかったから
みんなで使い回す必要があり
🟦まるまる暗記するのが
フツーだったりして
アタマの良さを
求められたし🧮
🟦異国人なので
地域の人からは
やっかみとか
排除するよーな
向きもあったろーから
🟦修行は
スムーズにすすむとは
行かなかったろーけれども
🟦寡黙で
真面目なスタイルで
かまわずにすすむコトで
そのうち
なんとか
ゲルク派の修行に
なじんだよーで
🟦この当時は
ゲルク派の死者の書や
百字真言なんかにも
触れていたんだろーなー
🟦セラ寺では
様々な修行を
すごいスピードで
納めることができて🏎️
天才的に
チベットの仏教文化を
マスターしていったみたいで
すごいなー
とかおもったし
ホントーに
わらしべ長者のよーだな
とかおもったな
🟫このころ
等観さんとは違い
仏教ではなく
市井の
チベット文化を調査していた
青木文教とゆー
やはり西本願寺からの
使者がいたことを
(この人もダライ・ラマから
トゥプテンの字をもらってたみたい!)
🟫土崎の西船寺さんで
資料をみせていただいて
はじめて知ったけれども
🟫この人が
チベット留学生を日本に
連れてきたみたいで
等観さんの本では
触れられていないのは
文教さんは
等観さんの
上役みたいなもので
住む世界が違っていたから
なのかなー?
🟥1913年頃
だとおもうけど
西本願寺の法主の
大谷光瑞が
仏教史跡の探検や
発掘調査などで
お寺の放漫経営を行ったため
🟥お寺が財政破綻して
責任を負って辞任した
もんだから
🟥パトロンがいなくなって
財政的にも
政治的にも
後ろ盾がいなくなり
チベットにおける
等観さんの立ち位置は
危ういものになったけど
🟥いろいろ
後ろ盾がなくなって
だいぶご実家のお寺などにも
お金で苦労かけたみたい
だけども
🟦それでも
1923年まで
セラ寺で
10年近く修行して
🟦暗い中で
バターを燃やす🔥
小さな光の元で
さまざまな資料をみていたので
片目を失明してしまった
みたい👀
🟦そーゆー
苦労をして
チベット密教における
ゲシェー(仏教哲学博士)という
最高学位の資格を
もらうくらい
様々な知識や
常人ばなれした行法を
マスターしたみたいで
🟦フツーは10年では
ゲシェーになるコトは
できないらしーし
(30年はかかるらしーし
そもそも諦めてしまう人が多い)
🟦この頃に
現地の人からは
常人ばなれした聖人🎅
といういみで
ニョン🎅とか
ニョンバ
とかよばれていたらしー
🟦そーゆー意味では
パズルのピースが
埋まるよーな
なんとも
奇跡的なタイミングで
チベット密教に
触れることができた
等観さんだったとおもうけど
🟦この10年の修行期間も
等観さんにとっては
とても大きな転換点
だったとおもうので
🟦転換点8は
10年で
聖人になっちゃったよ🎅🔟
とゆーアタリかな?
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳⇒👑❤️⇒👣🏁⇒卍🌀🔺⇒🎅🔟
転換点9 わらしべ長者だ!
🟦等観さん的には
ゲシェーになったから
仏教的には達成した感が
あったろーし
🟥財政的に
かなり逼迫していて
チベット滞在も
むずかしー状態だったし
🟥西本願寺への
学問的なフィードバック
の必要性とかも感じていた
だろーし
🟦そもそも
はなから
長らくチベットに
滞在する気はなかった
みたいだったから
🟦日本に帰りたい気は
満々だったので
🟦親が高齢のためとか
テキトーな理由で
日本に帰国したいことを
ダライ・ラマに伝えた
等観さんだったけれども
🟩なかなか
ダライ・ラマからは
帰国許可が下りなかった
みたい
🟦とゆーのも
等観さんが
国際情勢の説明役だったり
日本経由で入ってくる
国際情勢の情報も欲しかった
のもあるし
そもそも
等観さんの人柄を
気に入っていて
手放したくなかったみたい
🟦しかし、まー
帰国許可するコトになったん
だけれども
その背景には
お孫さんの
佐藤伝さんの本によれば
将来のチベットの動乱を
ダライ・ラマが予見して
仏教のお宝を保全する意味で
真面目な等観さんに
託したくなったから
とゆー理由だったみたい
🟩ダライ・ラマ13世とは
等観さんが帰国する前の晩に
枕を並べて寝て
泣いて惜しまれるくらいの
お友達となっていたよーだし
🟦そんなもんだから
とんでもないお宝を
たくさん託されたんだろーし
ホントーに
ダライ・ラマから
好かれていたんだろーなー
とかおもったけど
🟦その世界的な
お宝の一部が
今回の多田等観展では
拝観できるから👀
なんて
ワタシもラッキーなんだろー✨
とかおもったけれども
🟦その世界に誇るお宝
とゆーのは
チベットのデルゲ地方で印刷された
チベット大蔵経の全巻とか📜
現在は花巻市博物館が
保管しているのかな?
このお経は
今では現地インドでは
散逸してしまった
後期密教の経典の翻訳などが
含まれるから
世界的にも
仏教の研究のためには
かかせないお宝とされる
経典群で
実際に研究家が
このテキストを元に📕
研究に当たっているとゆーし
🟦等観さんが
ラサにおいて
大蔵経の編纂作業を
行なっていたから
貴重な宝物のよーな仏典を
託された
とゆーのもあったろーし
🟩このほかにも
デルゲ版のチベット医学に関する
世に出てこない資料であるとか
🟩貴重な
チベット密教のお経や
🟩釈尊絵伝全25幅は
ダライ・ラマが最後まで
等観さんにあげるか
迷った名品らしく
(花巻の博物館で7月7日まで
見るコトができる!)
🟦そーゆー
仏教絵画などなどが🖼️
等観さんに託されたみたい
🟩これだけのお宝が
焼かれたり🔥
散逸するコトは
ダライ・ラマ的には
どーしても
避けたかったんだろーなー
🟦等観さんに託された
テキストは
全部で
24,279部にも
なったとゆーし📕
日本に帰国するときには🇯🇵
経典類と仏像と仏画など
を積んだロバが🫏
延々と80頭も
つづいたので
あとにもさきにも
こんなことはなかった
ので
チベットでは
まるで三蔵法師のよーだ
といわれたみたい
🟦ものすごい
お宝に埋もれて📜🖼️
帰国するコトになったことも
等観さんにとっては
大きな転換点
になったとおもった
なので転換点9は
ホントーに
お宝をゲット
しちゃったよ!📜🖼️
とゆーアタリかなー?
このアタリになると
ホントーに
わらしべ長者の
よーなハナシ
になってるなー!
とワタシはおもった!
🙏⇒卍✨⇒👄⇒🚢🇮🇳⇒👑❤️⇒👣🏁⇒卍🌀🔺⇒📜🖼️
以上のよーな
わらしべ長者のよーな
生き方の等観さんについては
また次回続きを書きますので
よろしければご拝読ください🙏
それでは!また👋