龍安寺の石庭の謎について
〜その1

 この度のメリッサ読書会でプレゼンした 
龍安寺石庭のハナシなんだけれども 

 石長比売様を調べていて 
石といったら磐座とか枯山水か?だよな
とかおもい

そーいえば昔
「龍安寺石庭は魔法使いに
なろーとした細川家のお殿様
が魔法陣を仕組んで作った
石庭である」という
トンデモ本があったなー?とかおもいだして

家の中を探したけどだらしないことに
見当たらない。すてちゃったか?

なんだかとても気になって
図書館でも本を探してみたけれども

👆いろいろ諸説が尽きない石庭について
よくまとまっている本があったけど
肝心の魔法陣については
「全くわからない」と書いちゃってる。

まあそんな怪しい本を図書館が置くわけも
ないけれども
魔法陣がどーしたとか言われそーだけど

古神道の神主としてはヒジョーに気になって
しまう。

なので、今回適当に石庭について推理して
みたんだけれども

熱中症がでるよーな猛暑の中でなんとも
浮世離れしたダラダラとした夢遊病のよーな
ダラしないブログで恐縮ですが
よろしければよんでみてください🙏

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龍安寺のはじまり

京都市の北西の衣笠山のフモトにある
龍安寺は白砂の石庭で有名だけど

1994年にユネスコの世界遺産に登録された
お寺だな(全部で17件の神社仏閣のひとつ)

なんかイギリスの女王様が石庭の大ファン
らしく、世界的にも有名で外国の人も
たくさん訪れてるらしい。

イギリスといえば魔法の国だけどまさかね?



ワタシが20年前に龍安寺を訪れた時も
外人さんがたくさんいたし、
ヒトだらけでゆっくり石庭をみれなかったな

龍安寺は細川勝元が1450年に建てた
お寺で、この地は平安時代末に藤原北家の
流れを汲む 
徳大寺家が山荘を建ててた場所なんだけど
そこを細川家で譲り受けたらしい。

ちなみに細川氏は清和源氏の流れをくむ
名門で足利家の支流となる武門の家柄だし

細川勝元は政治的には室町幕府の将軍 
足利義政を補佐するよーな実力者だったし  

勝元は義政の後の将軍を決める問題なんか
をきっかけに応仁の乱(1467~1477年)
を引き起こしたチョーホン人なんだけれど

11年もの間続いた都での戦で、
たくさんの神社仏閣を焼いちゃった
バチあたりなヒトで🔥
この戦で自分で建てた龍安寺ですらも焼失
してしまうのだった🔥

明治生まれの京都人がいう
「先の戦で京の町は焼け野原になった」🔥
という先の戦というのは

この500年前の応仁の乱のコトというのが
有名なハナシだけれども
京都のヒトの時代感覚はびっくりポンだな
 

石庭はいつできたんだろ?

その後、龍安寺は勝元の子の
細川政元によって
1488年(政元29歳の時)に再興された
という説があって、
この時に石庭も一緒に作られたかな?
とゆーのが一般的らしい。

勝元が創建したときに石庭があったかが
わからないらしいけど、
少なくとも勝元の創建のときには
方丈の建物と南庭(必ずしも石庭ではない)
はあったらしい。

石庭が作庭された時期や
作庭した者については
いろんな説があるし

なにしろ龍安寺は1797年の火災で方丈、
仏殿等全て焼失してしまい、
資料も全部焼けてしまったもんだから、
いろんなコトがわからなくなってしまって
いるのだった。

この当時の歴史資料なんかにも
石庭は出てこない。
不思議だなとかいわれてる。

ただ1588年に豊臣秀吉が龍安寺で歌会を
開いていて、歌会のあとで秀吉が
「庭の石取るべからざる事」との禁札を
出しているらしいので、
桃山時代までは遡れるのかな?とか
言われるけどなんだかよくわからない。


枯山水について

ところで龍安寺の石庭は、
枯山水の中では国指定史跡とか特別名勝
とかなってるからスゲー有名だし

枯山水って石や砂だけで構成されるので
庭木や草花の彩りや🌸築山🗻とか
池🔵とかの変化に富んだ風景はないけど 

なんだか静けさ、穏やかさがあるので
心を落ち着かせるための修行の場として
禅寺で好まれて使われた様式だし

枯山水の様式は平安時代には作庭の記録が
あるし

勝元や政元のころの室町時代は禅寺で
特に枯山水が好まれたらしいーし
龍安寺も臨済宗の禅寺なので
なおさら感はある。


石庭を作ったのはだれ?

なので石庭を作ったのが父親の勝元でも
息子の政元でもどちらでも
時代的にはバッチリなんだけども

一般的にいわれるのが
細川政元と龍安寺4世住職の特芳禅傑
方丈と石庭を建立したという説だ。

お寺に伝わるハナシでも室町末期の
特芳禅傑ら(複数)の優れた禅僧によって
作庭されたといわれるのがそれだな。

ほかには般若房鉄船禅師という
漂泊好きの高僧を特芳禅傑が気に入って、
無理やり引き止めて作庭を依頼したという
説もある。

またまた、
同時代の芸術家・相阿弥(1525年没)が
作庭に関係したという説もある。

相阿弥は絵画を軸とした総合芸術家で
単なる作庭家ではないけど

同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる
室町時代に足利将軍家に仕えて

身辺の雑役とか茶の湯や能などの
芸能諸事美術工芸品の鑑定などに従事した
職能者であったらしい。

同朋衆の種別としては
能の観阿弥・世阿弥
作庭の善阿弥
猿楽の音阿弥
水墨画や連歌の能阿弥
書画鑑定や座敷飾りの相阿弥
立花の立(りゅう)阿弥などが知られる。

作庭なら善阿弥じゃないの?という
気もするけどね?

ちなみに石庭の石を運んだのが戦国武将の
織田信定(信長のお爺さん)というよーな
織田家との関係もあるらしい。
 
マホー使いの政元さん

トコロで細川政元というヒトは
非常に偏りのあるものすごく変わった
謎の人物なんだけども

応仁の乱の真っ最中に政元が8歳くらいの
ときに父勝元が亡くなり(暗殺説もある)

小さい時に家督を継いだんだけれども
21才の時にようやく管領に命じられたけど
たった9日で辞職してしまったりする
しくじり加減なのであった。

その後、
政争に巻き込まれたりいろいろあって、

なんだかんだで政元は細川家の全盛期を
築き上げるからそこそこの政治力は
あったらしい。

1493(明応2)年政元34歳の時に
政元が起こしたクーデターのことで、

このクーデターで政元は10代将軍の
足利義植を追放し、
代わって足利義澄を11代将軍として
傀儡で擁立して
実権は政元が握ることになった。

このよーな政権のカタチは
後に三好長慶や織田信長などの戦国武将へ
引き継がれていくから

これを戦国時代の幕開けとする説もあるし
政元は生粋の戦国人であったともいえる。

当の政元の人物像は

なんだろ戦略には長けていたけど
戦乱が嫌いで戦の途中で離脱したり

政治のトップにいながら
きちんと政務を行わずに
突然諸国放浪の旅に出てしまったり

ドーユーわけか宗教が好きだけど
きちんとした教義は学ばずに
空中浮遊の術を得ようとしたり
物の怪を操るよーな怪しげな修行に
熱中したり

女性にモテても良さそーな立場なのに
女性に走らずに生涯女性を近づけずに
独身を通した(衆道(男色)は
好んだ)

スゲー振り幅の大きいバランスの悪い
生き方をしたみたい。

最後は血を分けた子供がいないもんだから
3人の養子を迎え、
これが原因で家督争いを引き起こして、
政元はこの家督争いが引き金となって
42歳の時に暗殺されてしまった。

いったいなんでこーなった?
どーゆー背景でそーなっているんだろな?
細川家の血筋なのか?


石庭の謎を解く鍵🔑

それにしても、なんだか龍安寺の石庭は
ほかの枯山水と比べても

なんとも耽美的というか
変態的なまでのシンプルさとか

作庭したモノの素性が透けて見えるよーな
神秘的な庭なのだ。

🔑1
こういった変態性のある神秘的な風景は
石庭の謎解きの鍵の一つとなる

この変態加減は細川政元が
作庭の細部に関わっている
コトを意味しているよーな気がひどくする⚡️

魔法陣を組んでいるという説もあながち嘘
ではない。

🔑2
歴史好きの有名人に水戸光圀公
(1628年〜1701年)がいるけれども

光圀公が存命の頃は
龍安寺で大火が起こる前だったから、
龍安寺に残されてた資料が沢山あった
だろーし、

光圀公がそれを見逃すワケがないし、
なんらかの政元が書き残した変態的な
魔法の設計図とかを見ているよーな気が
ひどくする⚡️

光圀公が龍安寺に寄贈したという
有名な蹲(ツクバイ)には四つの文字
(吾唯足知)が書かれており


「知足のものは貧しといえども富めり、
不知足のものは富めりといえども貧し」
という禅の格言を図案化したものだという
けど、この
四文字は石庭の謎を解く鍵
🔑として光圀公が残した気がするのだ。

🔑3
魔法陣と仏教の五仏との関わりも
当然に予想されるので、
仏教の知識も石庭の謎を解く鍵🔑
として使える気がしている。

🔑4
石庭に使われている石そのものを
よーくみてみると目
なんらかの意図で設計されているらしいし

なので、
石の種類とか
石の性質とか
石の配置とか
使われている数とか
も謎を解く鍵🔑になるだろーね。

🔑5
あとは魔法陣をどのように使って
どんな修行に役立てよーとしたのかも
謎を解く鍵🔑になるかもしれない。


模型でみえてくるもの

いろいろ気になるコトばかりなのだが
石庭の謎に迫るために、
夏休みで暇だったしテキトーな材料で
三次元モデルを作ってみることにした🔳

まずは龍安寺石庭の寸法の正確な図面?を
調べてみた。

写真もお借りしたコチラのサイトがスゴイ
良かった。


この図面に出てくる石の配置とか
石の大きさとかがスゲー参考になった。


これを元にして、
石のカタチも実際のカタチに近いものを
使ってみて龍安寺石庭の工作を作ってみた

そーしたら
3次元モデルにしてみたら
いろんな角度から見るコトができたし

そのおかげなんだか魔法陣が解けたよーな
気がするのだ!

魔法陣なんかどーでもいいだろ!と
言われればそれまでなんだけれども

いまだ謎を解いたヒトはいないはずなので
もし興味がある方がいらっしゃれば
次回、推論を書くので
良ければ読んでみてください🙏

長々とブログを読んでいただきまして
ありがたいコトこの上ないです。

ご縁⭕️に感謝いたします🙏

それでは、また!👋