どうも裏神主です
中通書店でも売ってる本で、筑摩書房から1977年に出ていたペンネーム真木悠介さんの著作の「気流の鳴る音」のご紹介。


  このマキさんであるが、社会学者の見田宗介さんのペンネームであるらしいが、
やたらメキシコ愛にあふれた作風なのだが、メキシコ留学してたのね、この先生。

  紀州のほうじゃない、ヤキインディオのほうのドン・ファンの世界観は、カルロス・カスタネダによって世界に公開されて有名になったけど
  チベット密教や神道や禅の世界観と共通するものがあって、裏神主のものすごく好きな世界観のひとつである。

  マキさん、この本でドン・ファンの世界観をおおむね4つのステージに話を分けて書いてくれているみたい。

ひとつめはタマシイとチチオヤ目線
  ここでは、タマシイと世界とのかかわりについてドン・ファンが語る。

おさんぽしよう!
   呪術者は心ある美しい道を、目をかっぴらいて歩く。
  この道は曲がりくねったりしてて歩くのが大変かもしれないけど、道に従って静かに歩く。
  道の先に理想のゴールがあるのではなく、まわり道をして、さんぽして歩くことに意味があるのだ。
  さんぽがスゲー楽しくてワクワクしているので、財産や地位や名声に振り回されて、
  セコセコしたり最短距離を急ぐことはない。
  子供の頃にタマシイで感じる風景なのかも。この辺、鷲田清一さんのランドネの道に似てるな。

ワガママ者は見聞きできなくなるよ!
  自分のことが世界で一番大事だと思ってると、切り離された自分のマワリしか見えなくなる、真のやさしい世界を本当に見たり理解することはできなくなる。
  小さな花と自分は同等でどちらが大事ということもない。お花にやさしく語りかけることができるか?
  これはお釈迦さんのネンゲミショウ、松居桃楼さんの言う例のウフッと同じか?
  
  カラスは人に場の良し悪しを教えてくれる。
  カラスの声が聞こえるか?
  ドン・ファンがカラスや草花と語るとき、
カラスがカァーと泣いているのを聞くんじゃなく、むしろ花とかカラスとかを分けずに全体の中に自分が溶けていくことで交流するイメージなのだ。
  この心境は神道でも同じでよくわかる。

世界と自分はひとつ。イッツアスモールワールド。
   文明は、自然を科学的に理解し、開発する技術を得たが、自然をモノとして扱い、環境を破壊しまくり、
  人にとって大事な、自然との関わりとか、自然とつながる能力を奪っちまった。
   ヒトは自然の一部分だし、
  世界とヒトのタマシイはつながっているんだ、調和的できるんだ、というのが本当の知恵なんだよといっとる。

卵のなかの8個の黄身?
  人の体は呪術者が見れば輝くたまごで、
なんか8個のセンターがあるらしい。
  理性、意志、話す、見る、感じる、夢見る、トナール、ナワールである。

  ナワールというのは、
  自分がやがて自然に溶け込む時の姿で、
輝く本体で、他者も自然も宇宙とも直接に通じる自身の本源である。タマシイだな。

  トナールというのは、
  自然から自分を守ってくれる守護霊で、
世界をコトバ化したり、ルール化したり、
社会化、秩序化してくれたりする守護者で、
心が広く理解力があり、われわれのタマシイを様々な恐れから守ってくれる。
  が、トナールは周到で、嫉妬深いのでタマシイをがんじがらめにする。
  すると、心が狭く細かく冷たく機械的、都会的に変わる。

なんか左脳的で娘のチチオヤみたいな感じ。
  チチオヤは、タマシイを
社会や、科学みたいな目に見えるものに向けさせ、盲信させる。
  すると、
     チチオヤ=左脳=トナールが、
     ムスメ=タマシイ=ナワールを
圧倒しはじめて、タマシイとの対立が起こり、
口うるさく、常識で、タマシイをしばり、
タマシイの光の感触を失わせる。

  まだ結婚は早い!とか、きちんとしろとか、帰りが遅い!とか
  そこでチチオヤにオトーサン!と物申すハハオヤが第2のステージで登場する。

ふたつめ ハハオヤによる一喝!
  ここでは、世界を止めること、世界からの超越についてドンファンが語る。

コヨーテとハザマで話をしよう
  カスタネダは、厳しいドン・ファンの修行で
  コヨーテと話しができちまった。
  これは、左脳的な言語化する近代文明の一般人のチチオヤ世界から、自然に溶け込む呪術師の
タマシイ世界に入り込むことでコヨーテの話を耳とか頭じゃなく、体で理解できたんだとする。

  世界を止めて見たとき、
  チチオヤは克服され真に物を観ることが可能となったのだ。

  しかし、ここで
    言語化   =チチオヤ=一般社会と、
    タマシイ=ムスメ   =呪術界の
  二つの世界のハザマで、その間で見ることが
大事なのだとする。
  これはハハオヤによる一喝で生じる現象。

  コヨーテの話しに縛られると、生き生きとしたタマシイの呪術師の世界におぼれアホーになり脱け出られなくなる。

  コヨーテの声を聞かないと、チチオヤ、一般社会から脱け出られなくなって、社会の言うなりの冷たいロボットになっちまう。

  大事なのは、チチオヤの口うるささとか常識をいなしながら、タマシイを生き生きとした野生に解放しながらも、そのハザマでやさしく平等に冷静に「見る」こと「世界を止める」ことが大事なんだという。

オカーサンがオトーサンを止める
  わかったフリ、常識、チチオヤ的な、比較する世界を見なおし、ちょっと離れて見てみる。
  オトーサン!いいかげんにしなさい!と
オカーサンが一喝してくれる。

世界を止める
  チチオヤの常識的な、一方的な心配とか、
左脳的なカテゴリー化といったものは、
目に見えること、分かることにこだわるもので、タマシイをお利口さんの世界に閉じ込めるワナだ。

  平凡、理屈、説明可能な世界、常識、
親のシツケ的なチチオヤの世界観は、
  案外生き生きとしたタマシイには良くない、
分け隔てられた、悪意に満ちた奇怪なものであるのだ。
ムスメのカレシにケチをつける感じ。
  このあたり日本神話の大国主とスサノオのくだりを思い出したし、なんか関係がありそうな気がする。
  この常識チチオヤに負けないためには、
知を「見る」だけに使い注意深く考える。

  すると、チチオヤ的な見方は形式やん!
と気づき、チチオヤの押し付けがましさを、
ハハオヤの一喝で止める。

  チチオヤ理性とタマシイ本質の間で
ハハオヤの一喝で止めて見るものは本当の世界を知ることとなる。
  まさにハハオヤのツルの一声でストップするのだ。

ウレシタノシダイスキの世界
  すると、カレシとの楽しい美しい愛おしい世界が現れる。
  チチオヤのワナに気づき、
  タマシイを解放し、
  宇宙にまで通じるような豊潤なエクスタシィとも言える世界にタマシイが帰っていく。

  全てのものを確かで現実のものと見るチチオヤ的見方では世界にあきあきしておしまい。
  現象は不確かで幻想的な愛情のあるものと直感すると、すばらしい神秘的な状態がおとづれる。

一喝のやりかたは?
  ハハオヤ目線で世界を止めるにはどうするか?ドン・ファンが教えてくれる。

A  目をなるべく使わない。
  目に見える説明したがる、チチオヤ世界の使いパシリである目の感覚を解放し、
聞く、嗅ぐ、味わう、触れてみることに意識を移す。
  すると感じ方の奥行きが変わる。
  タマシイがなんか喜び始める。

  合気道でもモノを凝視せずに相手の気を感じてぼやっとみて動くのでおんなじか?
瞑想もおんなじだな。

  目に頼らずに全体のバランスをとる。
  焦点を合わせず見ることで、自由なカマエができて、世界がやわらかになる。
  型にハマりすぎると動きを読まれるという感じ?
  チャンス、幸運、力なんかは、焦点を合わせないで見てると、ポンと目の前に飛び出してくるよという。競馬もそうか?
  それを捕まえられるかが分かれ目。
  忙しすぎたり、無精だったり、惰性で生きているとただ死を待つのみで見逃すぜという。
  間合いみたいなもの?

B  木を見るときに動く葉っぱを見ないで、
葉っぱの影や動かない木全体を見る、空間を見る。

  しないことをする訓練。
  合気道でも目を閉じて立つとバランスがかなり前に動くので、あれ?目にだまされているなと気づくことがあるので同じか?

C〜言語化するスイッチを切るなどなど
  これらは惰性的チチオヤ世界を止めるやり方だ。

3つめは選ばれた愚かさ ボサツさま
  チチオヤの意見もちょっと聞いて和合することについてドン・ファンが語る。

  チチオヤ的な一般社会から解放されるために、 
ハハオヤの一喝で、遠慮なく寝ているフトンをひっぺがす。
  慣れや甘えやボヤットを一蹴する。
  禅の警策でピシッとやるやつみたいに!

  ハハオヤの一喝は、自分を囲い込んだり壁をつくっていた固さに噴出口を開かせる。
   起きろー!遅刻するぞー!とか?

  その一喝は チチオヤ の安全性のある?世界を止めるが、裂け目が大きすぎると、呪術的世界では命に関わるようなリスクを持つ。

  オカーサンの強烈すぎる一撃。
  なんだろ?フトンの上からバケツの水をぶっかけて起こす感じ?

  このハハオヤの強烈な一撃を和らげるため、
  さらに工夫がいるのだ。

  その工夫というのが、
  チチオヤ意見とハハオヤ一喝を和合させるシンボルとしてのボサツさまみたいなシンボルというか、お守りを常日頃からお願いしておくといったもの。
  チチオヤ の意見を少々取り入れ、ハハオヤ一喝力を中和し、力を乗りこなすことが必要なのだ。

  タマシイは永遠であり、チチオヤ的な型は有限のもので、生タマシイがカラダの中に内没し
固まり、死が見えにくくなっちゃっているが、
  呪術師はカラダに裂け目、一喝、を生じさせて、力をタマシイに蘇らせる。

呪術師は死と隣り合わせで能力を得る。
  シャーマンは、トランス状態では実際に死んだり廃人になったりすることもあるのだ。
  タマシイに還りイキイキとした力に触れるのもいいが、案外危険もあるので、
  チチオヤ的一般社会にいつでも帰れるようにする必要がある。
  山できれいな空気をすってたらクマと会っちゃたよ!という感じ?
  陰陽師もこわーい怨霊に会えばただじゃすまないみたいな感じか。
  実際霊的な攻撃を受けてイヤになることが多いし。

 道中のお守り的なボサツ様
   チチオヤをいなしながら、イキイキとした
タマシイに触れる、コントロールする力が、
選ばれた愚かさといわれるもの。ボサツさま。
  裂け目をコントロールするには、 
平和的で、喜びにつながる、自己犠牲的な象徴が必要となる。

  ハハオヤは一喝し、言いたい事を言うと静かになるし、行動に執着も反省も関心もしない自由な愛情だがエネルギーがすごい。

  ボサツさまは、この一喝によるタマシイへの
回帰とチチオヤ的安全性の二つの側面を
コントロールし、この二つの関係をコントロールしてくれる。

  どちらかというと、チベットの歓喜仏と呼ばれる男女が合体しているすがたのボサツさまのイメージかも。

  ハハオヤは最終的な強さと決定力をもつ。
  ムスメを、さあがんばれと一喝し後押ししてくれる。チチオヤから解放してくれる。

  やさしい愛のある世界に向けて、ボサツ様のお力を借りながら、飛び方をコントロールする。
  すると、やさしい、あたたかい、力の抜けた、ゆっくりとした世界が立ち現れるのだ。

4 つめは 心ある道 
  バランスのとれた力の抜けたやさしいサンポのやり方についてドン・ファンが語る。

  人生は、その道自体がサンポ的で充実しているなら、ただ年をとり孤独に死んでいくものとは中身がまるでちがう。

  目に触れるものが驚きであるような感覚、
  子供がカゲを追う感じ
  太古の人々が夜空の星に星座を見る幻想力とかとか。

  人生で成功しようが失敗しようが、心ある道には影響がない。

死刑前に見た輝く景色
  大戦後、死刑判決を受けたA級戦犯が、刑の執行前に「見た」風景が、あまりにも美しいので、
びっくりして手記にしたものがあって、
  それは、ただのありきたりの風景なのに、
空気も太陽も土も花もなにもかが、限りなく生き生きとして美しく懐かしくありがたいものとして確かに実在したのを見た!という手記なのだ。

  逃げられない強制的な人生の終了とか、
死への意識は、ばくぜんと時間が続いていく
チチオヤ意識や意味を、突然止めて
今の今だけに意味を集中するので、
強制的にハハオヤの一喝が発生し、
真に世界を輝きで満たし心ある道を照らしたのだ。

お花畑で見た風景
  前に裏神主がみたビジョンで、ロシア人から
お花畑で絞殺されちゃった、かわいそうな日本人女性の前世が見えたときに、
  それはとても苦しくて悲しい出来事なので、
太陽光のご加護による鎮魂を心から願ったことがあるが、
  その時一面に咲いている小さな花達が、
天国みたいな美しさで、光り輝いていて、かつ、可愛い白とか黄色のお花たちが大地と一体となって一所懸命に女の子をなぐさめてくれている
ビジョンが見えて、ふるえるような感動したのを思い出して、イノチというのは壮絶だけど美しくありがたいものと思ったことがあった。

  今をごまかすことなく、死刑囚のように死の間際にイノチを見るとき、心ある道を人は確かに見る。

道と一体となる
  こころある道と一体となれば、ゴールを目指すのではなく即平和と喜びを得る。
  生き方を迷わず、ゴールに急がず、力を抜いてやさしくゆっくり歩く。

  そこは無心で喜びのある真実の優しい道なのだ。
  心ある道は意味とかじゃない、柔らかさとか密度とか、あたたかさといった数字じゃない調和とかバランスのとれたやさしい世界観で言い表されるもの。

  社会的な成功や失敗や老いなんかは、実は意味も価値もなんにもないものなのだ。
  心ある道のりなら、今もう喜んでいるので、
人生の波風も老いも死にも、別に〜
とか言って影響されない。
  いまが、ワクワクなので悔いはないべ。
    何も変わらないべという悟りの境地。

  文明は、左脳的で人間中心だし、合理的にすぎるし、永遠の神を天国とかに求める。
  外に実在する神を求めることは、
生の根源である大地やタマシイとつながることを
否定する。

  タマシイは、外部の神とではなく、じぶんのなかにあるタマシイをつうじて大地にいま根を降ろすこと。
  
  大地は消費されるモノではなく、
  覚える見つけるトコロであり、友達であり、
助け合うものであり、血の通った場所のことで、フルサトとするところだ。

  自然から大地から切りはなされ、対立することで、文明は栄え、人間同士が壁をつくってきた。

  母なる大地へと飛んでいく翼は一般的な社会的な生活を否定し、社会でのささやかな生活に執着すると翼をあきらめなきゃというジレンマを産んできた。

  自分の存在を支えてくれる母なる大地を力を抜いて愛し、対立しないこと。
   大地への愛を真に理解した時のみ、自由になれるのよ。

 最後に ドンファンはいう。
  生きることは透明であること。
  何も持たないこと。
  全てを静かに愛して無となり世界と一体となること。

  合気道も力を抜いてなんぼの武道だし、
  神道も何にもしなくてもそのままでいいんだよと教えてくれてたり、
  敵ととらえず愛する心で和することが大事だよといってたりするので、青葉神社のK宮司様みたいだなと思ったり、何だ同じじゃないかと思ったりした。

それではまたの機会に。