どうも裏神主です。今回は「禅の源流をたずねて―天台小止観講話」著者松居 桃楼さんの本のご紹介


  柏樹社より、今から39年前に出ていた本で、
  松井桃る(木へんに婁)さんの著作の「禅の源流をたずねて」のご紹介であるが、

  最低ランクの人間のための禅の世界観
  なんか禅の世界観は、インディオやチベット密教や神道とも共通するものがあって、裏神主のすごく好きな世界観のひとつなのだ。

  なにより禅とか天台宗は、裏神主のご先祖さんが慈覚大師の直弟子だっだという伝承があったりするので、なんか親近感が昔からあるのよね。

禅はぜんぜんわかんね
  その世界観は案外難解だったりするのだが、松井さんの解説はすげぇ分かりやすいし、かつ深く熱く教えを解読してくれるのですごく好きな作家なのだ。

  この本では再三、最低ランクの人間のためのとか、ボロ雑巾組のための力の抜けた修業方法とかでてくるので、なんだ俺のための本かと勘違いしてしまうわけだが、ただ、この松井さんずいぶん昔の人だし、超マイナーなのが本当に残念なんだよなあ。

著者は仙人
  松井さんという人は、箱根の仙石原で人目につかずに古今東西の宗教の研究をしてた
  あごひげの長い仙人みたいな人で、
  晩年は友人の中村浩博士のクロレラの研究を助ける意味で、哲学的食糧実験と称して、自分のクロレラウンチで培養したクロレラから作る饅頭のみの食事で生きてたり、ボロボロの古着?確か米袋の再利用だった気がするが、そんな生活するような超変わり者なのだった(究極のリサイクルなのだそうな)。
 う○こ食ってんだか出してるんだかなんだかよくわからないという、ギャグ漫画にでも出てきそうなキャラではあるが、

  この松井さんも、前に紹介した福岡正信さんみたいに、実父の死に触れて「生と死」に対して深く悩み、いろんな学者や宗教者に出会って教えや答えを求めたが、悟りについてはっきりと実体験も含めて教えることができる人に巡り会えないので虚無感にさいなまれ、自殺すらも考えていたが、天台宗上野寛永寺の二宮大僧正に必死に教えをもとめたら、それならばと、天台宗の天台小止観というテキストをポンと渡されたのでした。

  最短で悟りを得ることができるテキスト
  この小止観というテキストは、天台大師という中国のスゲーお坊さんが、西暦570位に悟りへと至る最も合理的で具体的で、
  最短で悟りを得ることができる修行法について説いたものだそうで、禅について書かれている
テキストでは一番早く書かれたもので、また一番詳しく書かれたテキストだとされるのだが、
  天台宗では摩訶止観が有名でこのテキストはドマイナーなのだが、禅のテキストとしてはサイコーなんだそうな。

  ちなみに天台大師だすが、500年代では天才と称された宗教者で、最澄さんがこのテキストに触れた時に感動で涙を流したと伝わることや、
  最澄さんが仏教を真の姿を正確につかんでいたのは天台大師であると確信し、天台の教えを学ぶことを決意したことなどからもスゲ〜人物であったことは間違いないらしいす。

ウフッ」と微笑むさとり方法も。(キモい)

  ちなみにお釈迦様の教えの良い所は、弟子の中でマカカショウという人のみが、拈華微笑(ネンゲミショウ)というお釈迦様が手に持った花を見て「ウフッ」と微笑むという少女チック?な方法により深く伝授を受けていて、
  その直系の達磨大師により、そのウフッが中国のお坊さまに伝わって、
  そのウフッの最も良いところが天台大師に直系で伝わり、天台山というお山で長いあいだ籠って修行したのでウフッとしながら天台大師と言われるようになったのでした。

  わたしの場合は飲みすぎるとウプッとくるくらいが関の山ではあるが、天台宗の本旨は宗教とは何か宇宙とは何かを仏教以外からも全て学ぼうとするもので他宗と対立しないとあるので、我がほうの神道と同じじゃないかぁ!と思ったりした。

科学的とも言えるつくり
  ところで松井さん、二宮さんからポンと渡されたこのテキストをあまり期待しないで読み始めたら、なんか「悟りを得る方法は色々あるけど、最も手っ取り早い近道は止観(禅のことをいう)の修業である」と断言しているし、何か今までの宗教書とは違う科学的とも言えるつくりにハッ!としたといっとる。
  そして、「止観」の
「止」とは感情を波立たないこと
「観」とは思考力を正しく働かせること
であるからこれを体得すれば悟りを開けると断言しているところに強烈に惹きつけられたという。

世界を止めて見る
  この辺ヤキ・インディオのドンファンの
「世界を止めて見る」という世界観とカブる感じなんだよな。
  ひとが生老病死等何か気になって仕方がないのは、感情が波立っているからだとし、
  あれこれ悩むのは思考力が正しく働いていないせいだとする。
  車は二つの輪で走るし、鳥は二枚の羽で飛ぶし、ならば人間も感情を鎮めることと、思考力を正しく働かせることの両方がそろっていなければ転んじゃうよ!だそうな。

  感情のコントロールばかり行って思考力が伴わない行者は愚者であり、学問ばかり夢中になって感情をコントロールできずに批判的になってイライラしている学者は狂者であるとする。
愚と狂は、見かけは違うけど、努力する方法が違うので理想の境地には到達できねぇから同じじゃね?ということらしい。

  感情が静まっていれば動揺しなくて済むし、
思考力が正しく働けば難問も解決できる。
  なによりウフッという力の抜けあんばいや、
のんきな感じや、間合い、呼吸合わせといったところか?

止観ゲットのための修行方法
  ウフッと微笑むことができるにはこの止観が出来ることが大事で、そのポイントとかこの本では、わかりやすく説明してくれているのだが、オメエはやっているのか?と聞かれたらウプッだったら任せとけドン!と自信を持って言えます。

修行法の一例としては
「体をキレイにして、さっぱりとした着物を着て、なるべく気持ちのいい場所で、美しい香りとか花とか準備しておいて、横たわってもいいので全身の力を完全に抜き、心の底からほほえんで、宇宙に自分の体が溶け込む気分になれ!」
というような足がシビれるキツイ座禅とはなんか違うことが書いてあるのだった。

機会があれば是非この本でわかりやすいボロ雑巾組の修業方法について触れてみて欲しいなあ。

「中観」という悟りの境地

  そして止と観のバランスが見事にとれたときには、人は「中観」という悟りの境地にいたるらしい。
  この境地を言葉で説明するのに松井さんが用いるのは、「野暮」か「粋」かという観点であったりするのだが、それは、
  この世の中綺麗事ばかりでは生きられなかったり、うまくいかないことや、病気とか、悲しい身の上もあったりするものだが、野暮な人は嘘が嫌いだし、騙されるのが嫌いなので、小さい事実にこだわったり、見せかけの真実になびいたりして、弱い人間としては至極当然なのかもしれないけれども、自分勝手、ワガママ、卑怯、閉鎖的、折り合いの無さ、などなど不快な態度を取りがちであるけど、
  粋な人は嘘をニコっと見逃す代わりに、手の込んだ真実らしい体制側の嘘には乗せられることがないし、周りとの調和を図りつつ、真実の中心を見逃さず、落とし所のわかるバランスの取れた優しくカッコいい生き方ができるんだよね、これって中観ポクね?という説明をしとる。

ノーバート、ウィナーのサイバネティクス
  そして本の最後で、ノーバート、ウィナーのサイバネティクスの思想と止観の思想が似ているとの指摘が載ってる。 
  大体次のような感じなのだが、
  人間の頭に当たるのがコンピュータのプログラムであるが、このプログラムが不正確ならデタラメな指令を出すことになる。
  そこで、頭の中の観念を徹底的に検討し直す作業が必要になる。
人の記憶、固定観念、遺伝的なもの、地域的歴史的刷り込みの入れ代え(懺悔と言ってる)をせよという。
  とにかく体の力をぬくこととある。

フィードバックが大事よ
  頭のプログラムがよしとなったら、次に入力装置の検討を行う。
  入力装置にあたるのが目耳鼻舌触感の五感で、ここに入ってくる色とか匂いとかの情報が頭に送られる際に、入力装置が正常でなければ(感情が波立てば)情報にエラーが入り、頭に狂いが生じる。

  音に例えれば楽器、楽曲、演奏家の歌曲に心を惑わされずに、欲を捨てて本当の自然で正常な魂を震わせる音が何かを直感することなのだが、
その都度エラーとか欲が入っていないか調べるのが大事で、間違えたと気付いたらすぐにフィードバックすること(呵欲(かよく)という)が大事なのだそうだ。
  とにかく欲を捨てなさいだそうで、この辺が「止」と言われるところだすな。

  このフィードバックが効いてくると誤った情報が頭に入らなくなる。
  このように、頭の中の懺悔と五感の呵欲をコントロール(止)してもなお、頭に誤ったプログラムが残っていたり、故障があれば正確な答えがでてこなかったり、正しい反応ができなかったりする
  そこで、小止観では出力される答えをチェックし、エラーがあったらもう一度考え直しなさい、フィードバックしなさい(棄蓋(きがい)という)と教えている。

  答え及び意思決定が正しいかどうかは、自分の行動に私情が混じっていないかということと、
ほほえみ(ウフッ)ができていたかでチェックして、「ふた」を外しなさいという。
  自分の心をおおいかくす「ふた」である、貪欲、怒り、ボンヤリ、フラフラやクヨクヨする心、疑いという「ふた」を外して思考力を正しく働かせなさいというが、この辺が「観」と言われるところですな。

  頭を整えて、情報をあるがまま自然体でとらえ、答えがウフッとできているかを見れば、
はなかっぱのように頭にキレイなワカランの花が咲くのか?あるいは落語家のようになぞかけで整うのか?キラキラの世界が眼前に現れるのか?
この入出力双方のフィードバックを無限に繰り返すことで、バランスと調和を取り続けるのがポイントらしいし、この辺サイバネティクスの考え方とダブる感じだよねといっとる。

  この、ゼロポイントの行ったり来たりが禅の極意し、神道の天地の気の往来にも通じるのよ。

思考の合気道
  裏神主が昔やってた合気道も、力を抜いて中心を定め、バランスを重視し、コマのように入り身とか転換とかして回りながら、体全体で力の調和を目指すので、動く禅ともよばれるがおんなじだなと思ったりした。
  なにより松井さんが少年時代に植芝盛平(合気道の創始者)さんから可愛がられて、植芝さんから直接自分が宇宙と一体化して金色にキラキラ輝いちゃったよなんて言う話を聞かされたとあり、すげぇうらやましかったりするのだが、植芝さんから「あんたは武道もいいが、将来精神的な修業を励みなさいよ」とアドバイスをうけていたんだとか。今回、読み返して、いまさらながら気づいてビックリした!

  天台大師も、宇宙のあらゆる事象がそのまま真実の姿であることに気づきなさいよといってたり、時間と空間を超越して、永遠に続く全宇宙そのものが自分なのだから、一部分の有限の自我はないのも同じだし宇宙と一体化すればOKじゃね?と諭してくれるのも何か同じじゃないかと思った。

なるべく、神道的
  さて、神道的にも「なるべく笑って陽気に暮らし、なるべくのんきにかまえてのんびりし、なるべく怒らず、なるべく成り行きにまかせて、なるべく先のことで悩まず、なるべく喜び、なるべく姿勢と言葉を正しくすることが、神にいたる道です。」とあるのでなんとなくウフッ感が同じじゃないかと思ったりした。

それではまたの機会に!