あー30年生きたな俺!「チベットのモーツァルト」著者 中沢新一の書評だす。


どうも裏神主です。早速の粗評をひとつ。

30年ぶりに再読
  古い本ですが「チベットのモーツァルト」著者中沢新一さんの本の紹介。

  本書は有名なので読んでいる人も多いかな?
  ワタシは初版を30年前くらい前にナナメに読んだけだったし、内容もスカッと忘れてるし、
家の中探したけど本も見あたらないしということで、再度中通書店で買い求めて読んでみたら、

「あー30年生きたな俺!生きていただけで頭退化してね?」
  としみじみと感じたり、懐かしい気分になったりで、存外新しい発見もあったりして当たり感がハンパなくて、良い本だーと叫んだり面白かったりした。
  なんでチベットのモーツァルトのかというと、フランスの哲学者のジュリア・クリステヴァが言った言葉でこれを論文のタイトルにしたからだったわ。

「見る」ために世界と世界の間の入る
  冒頭の「孤独な鳥の条件」という論文で、カルロス・カスタネダのネイティヴアメリカンの世界を論じていて、是非読んで欲しいすごく良い論文なのだ。
  見田氏とのやりとりもあったみたいだけど‥

  自分ネイティヴアメリカンの世界観が大好きなので、少々解説すると、ヤキ・インディオのいう世界を止めて見るというテクニックは、
  天台宗の修行法の止観に通じるもんがあるけれども、
  ある時カスタネダが瞑想の修行中に意識が体から抜けて空を飛んだ時に、カラスの意識に入り込み、カラスの体を銀色と認識したが、
  どうもカラス自身は自分の体を黒ではなく銀色だと認識しているらしく、他の鳥もカラスをギンギラ銀に輝くマッチの様なヤツとして認識して近づかないらしい、という鳥目(トリメ)目線になったためで、 
  夜は飛べねぇーとなったかはわからないが、
  この体感にカスタネダは興奮し酔ったが、
  ドンファン師匠はそんなのはお遊びだ!アホか!ドン!!
  とアベさんみたいに忖度せずに一笑に伏して、今やってる瞑想修行の目的は、世界に対する誤った解釈や固定観念的な見方を変えるコト。
  ただそれだけアルよとし、アンタの今感じている所が「世界を止める」というコトあるよといった。

  これは、社会的な枠組みで常識的な考え方をする、分析する、やり慣れたことを続ける惰性的生き方をするという、儲けようとする、というような一般人の考え方を止めることで、神秘的な世界の扉を開くコトを意味するらしい。
  
  なぬー競馬で儲けてはいかんのか?競馬の神の扉は開かんのか?
  このように、世界を止めることができたなら、人はくだらない存在ではなく、神秘的な存在となり、コヨーテもカブトムシも人も等しくその内部に同じ光を持つものとなり、神秘的な合一の体験において、カスタネダはコヨーテの話す言葉を聞きはじめたが、
  この時、コヨーテの足がカスタネダに触れてコヨーテの体が虹色に輝きはじめ、暖かみや幸福感で体の感覚や思考が止まった。
  そして、この状態のまま太陽を観じたら、何百万もの光の束と一体となるという、ダイナミックな流動性のある新鮮さと神秘的な一体感にあふれる呪術師の世界が出現し、それをカスタネダは確かに「見た」。

  神道でも太陽凝視の法があるが、なんか似ているな!
  空海や合気道の植芝盛平が感得した様な光と一体となる感動的な光景なのか?
  しかしここで大事なのは、人間の常識と惰性の世界と呪術師の世界のあいだに入り込み、二つの中間にいる時にしか世界は止まらないし
「見る」ということも起きないというコトあるよと、ドン・ファン師匠はいう。

  呪術師の領域に釘付けられたら、幻覚に溺れ現実を見ずに正常さを欠き、キチンと「見る」ことができない。
  
  神秘的一体感を否定すれば現実や惰性の領域に釘付けられてこれまた「見る」ことができない。
  
  なので、「世界を止める」ため、社会的現実や、誤った解釈や、惰性の意識を内部で崩し、日頃眺めている世界を解体し、意識の原初の状態、光の束の世界を実体験する。
  その上で、人の世界と呪術の世界は、両方とも平等な現実であることを知り、
  同時に二つの現実を生き、原初の意識状態・
光の束が形を変えて世界も夢も幻影もできているコトを「見る」コトで実体験する。

「見る」ことで、現実が夢や幻影と同じ出来上がり方をしていることを実体験する。

  すると現実が光とともに歩み始め、生き方の襟を正し始める。
  ダイナミックなのに流されない絶妙なバランス感覚をもとめられるのよ。
  合気道みたいだなぁ。正に修行あるのみ。

魂の修行をするのだ
  中沢さんも実際に密教修行の経験のある人で、密教って実際のところ実践、修行が伴わなければ意味がわからなくね?
なんておもうこともあったけど、
  人の生き方もまた修行だし、皆がそれぞれ悩みなんか抱えて生きているし、社会通念や自己本位的な生き方の世界観を止めてみて、生き方を、光や善の方向に向けて歩みながら、ダイナミックで流されない絶妙な生命感を実感できる様な方向に持っていけたら、いい魂の修行になるし、
  良い人生になるはずだし、実際にそんなヒントを本書は与えてくれるハズ。

言語学ってやつ
  くだんの表題の「チベットのモーツァルト」の論文は、言語学ってヤツで、なんかポンポン飛ぶ様な天才的な文体で、正直裏神主的には馴染まず、とっつきにくくてむずかしくて、
クリステヴァにしても中沢さんにしても、
言語の学問なら言語でわかりやすく解説してもいっぽくネ?というヒガミ的な感想で一杯であるが、無理クリ感想を書くなら・・・

  言語学的に突き詰めてみて、空間や言語の生成される基盤や起源にまで遡ってみたら、そこは原初の場で一体性のある空間だった。
  そこにネジれや句切りや呼びかけが現れる時に「東洋の笑い」とか「別の笑い」とか言われる点、場が発生するという。

東洋とか禅とかS元教授とか
  東洋の笑いの例題として、中国の禅僧が夜中に山のてっぺんでひとりで雲の間から月が覗いたいたことで大笑いするという話をのっけてるが、
このジイさんが狂ったわけではなく、
  連続した調和の中で自然に現れた句切り(雲から月が覗いた)に対して、無邪気に笑ったのだという。

  M1見せたら笑い死ぬんじゃね?という感想だが、今立っている心境が悟りの境地だからこそ腹の底からでてくる骨太の笑いなんだろうなあ。
 
  なにやら先のテーマの、「一体性からの見るコト」とのリンクが見られて面白くもあり、なお世間の評価も高い論文らしいが、いかんせん、あ〜難しい。
  中通書店に時々現れるS元教授に解説して欲しいなあ。

力作、極楽論
  続く「極楽論」の論文は、自身が力作と言ってる論文らしく、地獄極楽の論文で、なんか音楽的な、軽やかな論文です。

  少々解説するなら、
  存在の真の姿は不滅のもので、空性の輝きを持ち、自然と一体化しているが、この中に軽々と戯れの様に光の輝きで作り出される空間が発生し、その上に輪廻する現象界が出てくるけど、仏性は暖かみのある慈悲力そのものであり二元ではなく、とどまらず、無際限であるよ、と書かれていて、これまた世界を止めて見るところに通じるモノがあるなと思った。

  性的タントリズムについても論じられていて、真のタントリズムとは、空性の中で男女の行為を重んじるのではなく、行為を超えた不ニの状態の中で軽々と光が立ち上る瞬間の中で大楽を体験することに意味があるのであり、大楽とは、一切の存在は究極的に不ニの状態にあり、初めから清浄であり穏やかでさ澄んだものであり、二元論を超えた境地のことであるとする。

実は昔ちょっと研究してた、密教僧ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダ
「風の卵」の論文では、昔S元教授のもとで研究してたドイツ人のチベット密教僧ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダの名前を見つけて懐かしくなった。

  風の行者と言われるチベットの瞑想歩行術の話が載ってて、周囲の世界を夢を見ているような精神状態で見て、体の感覚も切り離された感覚で、トランス状態で矢のように異常な身軽さと速さで飛び跳ねながら進む行法のことだそうで、
  ゴヴィンダ自身もこの境地に至ったらしく、
  内部の対話を止める、世界の考え方を変える手段として有効な修行法なのだそうだ。

  これに続くタントラ仏教の論文では、連続する不ニの場から自然に立ち上る微細な滴があり、
これは微妙な力であるが、これを胸のあたりで軽く感じる瞑想をすることで、空性の連続体から飛び出したこの微細な滴を体感することが出来て、これにより悟りに近づくとする。
この粒には香りも風味も色も魅力もある、つやのある、不連続の粒状のものでマンダラに配置されるものだとする。

  まーこの辺はやってみねーとよくわからん。
  え?やれんのか?

暴力と表現されていいもの
「病のゼロロジック」の論文が、一番力が入っているのかな?

  コトバとか世界の解釈が表現される瞬間から、捉えられなくなるもの、構造や体系からこぼれちゃうモノ、異和とされるモノものがあり、
  社会はこれらの違和感のあるこぼれ組を排除して組織体系を強化する方向性を持ち、それらは暴力と表現されていいもの。

  そういった暴力から逃げる仕組みを詳しく解説しているが、この論文も少々紹介するが、まあ難しい。
  密教では、一切の存在や運動力が存在する意識の原初の状態が、深い瞑想により、自然発生的に光のたわむれとして立ち現れるが、その光は二元論的な潜在力や歪んだ意識により生は輪廻の現象意識の魔に捕らわれる。

  生や自我への執着は、身体に対する愛着から起こるものであり、だからこそ、死というものを、意識が身体の物質性から解き放たれるとてもめでたいコトだとしている。
  なので幻影としての身体が引き裂かれ大地に撒かれるイメージの瞑想をおこなうが、
  これを見たダキニ女神がみて、心の底から笑いだすという表現をとる。
  自我の幻影を徹底的に根っこから切断するというイメージ。
  これにより一切の禍事を生む「魔」=二元論的な潜在する力を無力化させるといっとるけど、まーこれもよく分からん。

そして、野良学者へ
  中通書店において、民間歴史学者の豊島先生と野良学者さんとで、「石碑で盛り上がる会」が偶発的に開催され、おじさん同士で石で妙竹林な盛り上がりをしていた訳だが、
  本書中の「丸石の教え」の論文で石神様を取り上げていたり、石神様の研究を中沢新一のお父さんがやってたと野良学者さんから教えてもらったりして、本書とのシンクロも見られて楽しかった。

  ちなみに、日本の民族学はその出発に当たり石を選んだとあり、日本人は、幻想や、歴史意識を定着させ刻みつけるメディアとして石を好んだらしく、そのため石の伝承や信仰には社会の奥深い質の様なものが保存されているとあり、
  なんだ野良学者やるじゃないかとおもったりした。

  石やら草やらを研究して生き方が変わるかは私もわからないが、野山に自分の身を置いてみて実践するのもまた修行かもと思ったりした。
  
  この丸石神は通常の石碑や道祖神と異なり、
宇宙のリズムや、息や、空虚感、無意味性、二元論を超える存在として、価値のある、非文化的な、権力に寄らない、他の神様を否定する様な、ユニークな存在であるとしている。
  秋田にも県北にあるよとの野良学者の談。

  興味のある人は中通書店に行って野良学者に日本酒で罠をかけとけば、引っかかるかも?

最後は神道的に
  さて、神道的にも「太古より続く神とのつながりであるムスビカタメの法は、人に先行する神の法であり、善因善果を信じて、光に向かいながら毎日踏み行く道を照らして善の修行を行うことを人生の至宝とし、理窟を離れて、実地に実行を積むカムナガラの道でこれに歩み近づく」とあるので、なんとなく同じじゃねえかと思った。

それではまたの機会に。