2月3日(日)の記事の続きです。
12:30
足柄万葉公園を抜けて、一旦車道に出ます。
ここには足柄峠のバス停があります。
車道を6、7分歩くと、静岡県小山町に入ります。
脇道に不思議な紅白の鳥居が見えたので行ってみましょう。
『足柄明神』です。
作法通り、茅の輪くぐりをします。左足から入って左の輪をくぐり、右足から入って右の輪をくぐり、まだ左の輪をくぐって、最後に正面から入ります。
この祠は、足柄明神跡です。
案内版によると…
足柄明神は『古事記』に記述があり、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国征伐に向かった時、足柄峠で足柄明神は白鹿の姿で現れ、倭建命によって蒜(ひる)で打ち殺されたことで東国が平定されたとあります。
足柄明神は、天慶三(940)年に創建されたとされ、のちに矢倉岳に遍座し、矢倉明神という名前になり、その後、昭和十四年に足柄神社になりました。
現在ある石祠は明治六年(1873)年に足柄明神を祀るために建てたものです。
とのことですが、白鹿と蒜の話、
御岳山の武蔵御嶽神社でも読んだような記憶があります。
さらにOgit☾さんのヘブンスそのはらの近くにある昼神温泉にも
同様の伝説があるようです。
12:50
そのまま進んで、足柄峠(759m)に出ました。
足柄峠は、その昔、足柄坂と呼ばれ、ここから東を『坂東』というのだそうです。
この辺りは、足柄城(後北条氏の城で、秀吉の小田原攻めで落とされた)跡でもあります。
「あづまはや」というのは
古事記によれば、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の命令を受け、相模から上総に向かう途中、船が大海原にさしかかった時、海が神の怒りにふれ、平穏な海は一瞬にして 怒涛さかまく荒海に変わりました。この時、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)は、荒狂う波間に身を投じ、神をなだめ海を静めたのです。 無事、上総へ辿り着き、東征を果たした帰路、倭建命は足柄峠の頂に立ち、東の海をながめ、自分のために犠牲になった妻を思い「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と 嘆き悲しんだのだそうです。
これが、東を『あずま』と呼ぶようになった語源だそうです。
『日本書紀』では、舞台は碓氷峠になっています。
足柄関所跡があります。
この関所の門は、黒沢映画『乱』で使われたものだそうです。
さらにその前には金太郎と熊の顔出しセットが…
もーさんと入ろうかと思いましたが、撮ってくれる人がいないのでやめておきます。
足柄の関は、平安時代、足柄坂に出没する強盗団取り締まるために設けられた。関の通行には、相模国の国司の発行する通行手形が必要だった。この峠道の歴史は古く、 鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。 また、歌枕として関・峠とともに、多くの歌に詠まれている。(案内版要約)
これは、おじぎ石。旅人がこの石に手をついておじぎをし、
手形を差し出したそうです。
関所を破って処刑された人たちの塚などもありましたが、
さすがに撮りませんでした。
これは一里塚跡。
一里塚とは、1604年に江戸幕府が日本橋を起点として一里ごとに塚を盛り上げ、榎の木を植えたもの。道中の里程と、旅人たちが駕篭かきや馬方と運賃を決める手段として使った。(案内板より)
あとは足柄古道を歩いてゴールの地蔵堂まで下ります。
古道はこんな感じ。東海道の箱根越えを思い出します。
九十九折になって緩やかに下って行く舗装道路を
ショートカットするように古道は真っ直ぐ下って行きます。
こんなふうに何度も舗装道路に出るんです。
古道に入ったところ
雪があったり、ハコネダケのトンネルがあったり…
最後は舗道歩きです。
本当におにぎりそっくりな矢倉岳!!
鳥が鳴いていました。
ウソです!!
思わずカメラを向けたのですが、まともな写真がない!!
これはなんでしょう?シイタケ栽培かと思いましたが…
途中から、ゴールの地蔵堂にある『万葉うどん』を食べることで
頭がいっぱいになってきました。
頭の中…うどんコールが鳴り響いていました。
13:50 目的の地に到着。矢倉岳が見えますね。
カレーうどんが人気だそうです。
確かにとってもおいしかったです。
でも翌日はずっと胃痛が…。実はカレーに弱い胃袋なんです…
これが地蔵堂。
このあと、もーさんの車で夕日の滝を見に行きました。
よくよく思い出したら、
ここは昔、金時山の帰りに下山してきた場所でした。
その時、たしか万葉うどんにも寄りました。
もう10年以上前の話だと思います。
登山+歴史散策のなかなかいいコースです。
他にもたくさんのハイキングコースが周囲にあるようなので、また花のきれいな時期にでも、ゆっくり歩いてみてもいいな…と思います。
お近くの方は是非。