このように香椎廟から神社になった香椎宮…。
この香椎宮は、創建にまつわる伝承から、半島運営の拠点でしたが、神社としての香椎宮が征伐の直接の舞台として登場したことは一度もありませんでした。
八世紀中頃から新羅との国際関係が悪化し、いわゆる新羅の「無礼」が発生しましたが、それを神功皇后の力によって未然に防ごうと、この「香椎宮」が創建されたようだと考えられています。
ちなみに、神功皇后の出自の息長(おきなが)氏は開化天皇から発していますが、皇后の母の葛城の「高額比賣(たかぬかひめ)」は新羅の「天日矛(あめのひほこ)」の子孫です。
なお、一説によると、香椎宮の主祭神は「息長帯比賣」(神功皇后)ではなく、「大帯比賣」だといいますが、宇佐神宮で「息長帯比賣」(神功皇后)が三大神の1つとして祀られています。
ただし、「大帯比賣」は「息長帯日賣」の別名であるともいわれています。
このあたりがミステリーでもあり、ブラックボックスです。
現在、相殿には応神天皇と住吉大神が祀られています。
つまり、香椎宮は、八幡宮と住吉神社の2つの性格を持っていたことになります。
しかし、調べによると、香椎宮の主祭神は「息長帯比賣」(神功皇后)であったわけで、宇佐神宮に沿った香椎宮の歴史がございます。『香椎宮(2) 』の先述した内容から考えるに、住吉神社の経路は薄いです。