香椎宮(2) | Just One of Those Things

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Let's call the whole thing off

香椎宮 』より。


記・紀によれば、天皇崩御の直後、神功皇后が再び神懸りした際、「およそこの国は汝(いまし)命の御腹にます御子の知らさむ国なり」との神託があり、皇后と武内宿禰(たけのうちすくね)が軍を率いて海峡を渡り、神託どおり新羅(しらぎ)・百済(くだら)を服属させています。


つまり、香椎宮は新羅征討の拠点となったわけです。



ちなみに、その軍(いくさ)のとき、皇后の胎内にいたのが応神天皇(八幡の祭神)でそのため胎中天皇とも称されています。



このようにして、香椎宮は、最初は神社ではなかったらしい。具体例から見ても、神亀元年(724年)11月、大宰帥大伴旅人(だざいのそちおおとものたびと)ら官人が香椎宮を参拝したとき、旅人は「いざ児ども香椎の潟(かた)に白細の袖さへぬれて朝菜採みてむ」(『万葉集』巻六・歌謡番号九五七)と詠みましたが、その詞書に「大宰の官人等、香椎の廟を拝み奉り乞(を)へて退(まかり)帰りし時」とあり、その時点では廟と呼ばれていました。


実際、『社伝』によれば、その五年前の養老七年(723年)、神託によって香椎に大廟を造営したのが始まりとされます。もちろん、廟とあるように、中国の死者の霊を祀る廟を模して創始されたのです。


そのために、『延喜式』は「神名帳」にはその名が見えません。しかし。『延喜式』は「民部省の巻」をみると、香椎宮の前身の「橿日廟宮」は天皇陵と同じ待遇を得ていたことがわかります。



その後、平安時代の円融天皇のころ(969~84年)から神社としての扱いを受けるようになり、九州では宇佐神宮に準ずる待遇となり、即位大嘗祭その他、国の大事に際しては奉幣使が派遣されましたが、特に、その遣使を「宇佐使」・「香椎使」と称し、和気氏が任じられました。



つまり、宇佐神宮の三神のうちの1つの廟が香椎宮だったからです。