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(仮)アホを自覚し努力を続ける!

アウグスティヌスの格言「己の実力が不充分であることを知る事が己の実力を充実させる」

社会的排除と子どもの貧困
西澤 晃彦 (神戸大学大学院国際文化研究科教授)


社会のなかの子ども

 阿部彩が述べたように、効果を考えれば、経済的な援助の具体化と積極的な教育保障が子どもの貧困対策の中心になることは間違いない。それを核としつつ、より積極的に子どもを社会につなぐ試みが模索されなければならない。子どもが社会化されて大人になっていく上でのモデルとなるのは何も親だけではない。子どもたちともっと多彩な大人との間に接点があれば、自在なモデル設定も可能になるかもしれない。子どもたちが自分なりの重要な他者(「師匠」や「親方」)と出会い社会化されていくのは、かつての学歴社会の周縁では当たり前の「大人になる」方法だった。現在の職業世界はあまりにも殺伐としているので、学歴や就職に限らず趣味のようなものを通じてでもいいと思う。貧しい子どもが、承認を感じ、また「未来」を想像する契機となる大人との接触がたくさんあることがやはり望ましい。そうしたことを述べ直さなければならないほどに、貧しい子どもは社会から隔離され、放置されているのだ。

 たとえ政府による経済的な援助や教育保障が整備されたとしても(その見込みはまだ立たないが)、窮状にある子どもたちに順調に行き渡る訳ではないだろう。なぜならば、社会から遮断された領域に取り残される子どもたちがたくさんいるだろうから。貧しい家族もまた、私たちがそうであるように、あまりにも自己責任論を内面化してしまっており、家族主義的に問題を家族だけで解決してしまおうとする傾向がある。そういう閉じられた家族の中の子どもにアプローチするのは容易ではない。

 貧窮家庭に食材を届けている「NPOフードバンク山梨」の米山けい子理事長は、新聞のインタビューで次のように述べている(『朝日新聞』2013年6月21日、朝刊・東京本社)。

 「生活保護を受けていれば、行政は把握できます。でも、このお宅は生活保護に頼ろうとせず、懸命に仕事を探しておられますから、外からは貧困が見えない。学校給食のない夏休みに、げっそり痩せてしまう子もいるそうです。ふつうに暮らしている子どもたちのなかに、1日に1食しか食べられない子が紛れ込んでいるんですよ。これは「見えない貧困」です。」「地元の南アルプス市と始めました。NPOに個人情報を伝えるわけですから、市は当初、とても慎重でした。それは当然です。でも話し合いを重ね、本当に一歩一歩、信頼関係を築きあげていきました。(中略)私たちの活動を自分で見つけ、直接連絡してきた方は6%にすぎません。あとの94%は公的機関を経由しています。つまり困窮した方の多くは、まず行政にアクセスするわけですが、行政というのは予防的な対策にはなかなか目が向きません。最初に情報が集まる行政と機動力のあるNPOが連携すれば、効果的な措置ができるはず。反対に、そうしなければ生活保護などのセーフティーネットにかからない『見えない貧困』を、行政はどのように把握するというのでしょうか?『生活困窮者を救う』という共通の目標を掲げ、いまこそ協働すべきです。」

 窮状にある人々への網をかけるような対処は難しいのだ。可能な限りメッセージを読み取りながら、積極的に――行政的には「予防的に」――探索するより方法がない、そういうやっかいな課題として子どもの貧困がある。だが、これは、何もかも背負い込む家族に依存して体裁をうまく整えてきた社会と国家が引き受けるべき難題ではないだろうか。16.3%に含まれる子どもの存在を感じ取れるようでありたい。
社会的排除と子どもの貧困
西澤 晃彦(神戸大学大学院国際文化研究科教授)


子どもと貧困

 子どもの貧困は、その子どもの現在と将来にどのような影響を及ぼすのか。(1)世代的な貧困の連鎖と、(2)大人の世界への移行の二つの局面をともに論じなければならない。

 親から子への貧困の連鎖については、生活保護受給者や児童虐待の研究を通じてより詳細に明らかにされつつある。生活保護受給者、とりわけ母子での生活保護受給者において見られる傾向としては、母親に生家での被保護歴がある率が高く、地域・時期によって大きく異なるが、30%台から40%台の数値を示している。また、中卒あるいは高校中退である比率は、5割をこえている(道中 2009、道中2013)。児童養護施設の調査では、児童の母親の中卒比率が顕著に高いことが分かっている(堀場 2013)。児童相談所が把握した虐待家庭の調査においても同様の結果が見られる。つまり、当の子どもの(母)親たちも、子ども時代に良好な教育環境を保証されず、その後も親族からの援助を受けられなかった、孤立した「元貧しい子どもたち」であることが多いのだ(松本編 2010、藤原 2012、池上 2015)。女性であり、かつ学歴が低いことによる労働市場からの排除と、家族的な包摂がなされていないことが重なって、極端に母子世帯に困難が集中していることがみてとれるとともに、そうした排除が貧困を連鎖させていることをうかがわせる。母子世帯の母親には、そもそも貧困家庭に育ったことに加え、低学歴と女性であることの不利が集中している訳だが、もちろん、両親が揃っていたとしても、低学歴と貧困が連鎖しやすいことは間違いないだろう。

 個人の人生における大人の世界への移行についても、学歴と関連する今日的な困難がある。貧しい子どもは、高い学歴を獲得するにはあまりにも不利がある。そして、低い学歴の若者たちの方が、非正規雇用労働者として労働市場に編入されやすく、いったん非正規雇用の労働者として働き出せば安定した職業的地位にたどり着くのは難しい。組織社会の「内部」に入り損ねた人々からなる「外部」は、安価な周縁労働力の草刈り場になっているのが実情である。子どもの貧困と若者の貧困は滑らかに接続されている。

 学歴は、縮小しつつある組織社会にとって、使いやすい排除の指標である。それでも、かつては、社会は、学歴による地位達成とは別のもう一つのルートを用意していた。そうであるから、学歴がなかろうが、「希望」をもつことはできた。中小零細企業の世界には「親方」がいて、労働条件の悪さと引き換えではあっても、温情主義的に「子のように」少年少女と接し、職業人として成長させていく社会的な仕組みがあった。そこでは、少年少女は、一本立ちする、店を出す、そのような「夢」を見ることも許された。しかしながら、余裕をなくした零細企業の世界から「親方」の姿が徐々に消え、自営業の開業率は低水準のまま推移している。代替ルートは機能しなくなり、非正規労働者となった若者たちは、職業的社会化の機縁を欠いたまま、あちこちの職場を流動している。学歴による排除は、それを緩和する包摂の回路が失われることによって、あまりにも明瞭な分断を帰結しつつあるように思われる。
社会的排除と子どもの貧困
西澤 晃彦(神戸大学大学院国際文化研究科教授)


社会的排除と貧困

 子どもの貧困について述べるにあたっても、できるだけ簡潔にそもそも貧困とは何かについて踏まえておいた方がいい。というのは、社会問題のなかにいる子どもは、往々にして細分化された問題に封じ込められて論じられる傾向があるからである。例えば、家庭内暴力、児童虐待、そして少年犯罪・非行等、大小メディアでそうした議論はたえずなされているけれども、そうした現実の背景にある貧困は長らく無視されてきた。悪役を立てやすい物語のかたちに問題は矮小化されてきたのだ。もちろん、それらの問題には固有性があって、それにふさわしいやり方で解かれなければならないことは確かだ。それでも、実際には、貧困というやりきれない文脈を抜きにして考えることができない現実が多すぎるのだ。

 貧困は、存在証明―アイデンティティ―の問題として体験されている。アイデンティティは、自己を呈示し、またそれを承認する他者がいることによって可能になる。近代社会においては、組織の一員になる、家族そして地域社会の一員であることは、アイデンティティの調達を滑らかにする主流の方法だった。その方法が得られない人々は、「一級市民」としての社会的地位を認められず、物質的欠如にも直面しやすかった。社会的排除は、学歴が低い、女性である、外国人である等のカテゴリーへの分類をもって、組織や地域社会から人々が締め出される過程を捉えた概念だが、貧困は、その帰結として捉えることができる。例えば、女性は、労働市場から排除されやすい。ただし、そのこと自体は、貧困を意味しない。なぜなら、女性は、妻あるいは母親として家族に包摂されることによって、貧困を免れてきたからである。しかし、その女性が、婚姻関係の解消とともに、むき出しの排除のもとに置かれ一気に貧困化することがままあるのだ。家族主義的福祉国家体制は、「標準的な家族」を構成していないこの人々に対してまともな制度的対応を準備してこなかった。それが、先に見た、母子世帯の貧困率の高さをもたらした。組織の包摂力が萎縮し、地域社会が弱体化し、そして家族もまた当たり前には構築することができなくなった今日において、組織の外部を生きる、地域社会のよそ者として生きる、家族を維持できないあるいは独り者として生きる、これまで「二級市民」化されてきた人々の領域が膨張しつつある。

 貧困とは、物質的欠如とともに存在の剥奪に晒されている人々の状態のことだ。貧困を論じるとは、社会的排除によって、「豊かさ」や「希望」への資格を奪われたところに生じる、貧しい自己を恥じ入らせて孤立させ、自らの存在を承認してくれる他者を失わせて、ますます自己否定へと追い込ませる、そのような、重くまとわりつく力を把握することである。現在の貧しい子どもたちについても、貧困になんとか抗いながら不器用に承認を欲望する存在として、理解を試みる必要がある。