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(仮)アホを自覚し努力を続ける!

アウグスティヌスの格言「己の実力が不充分であることを知る事が己の実力を充実させる」

消費者契約と労働契約
(連合総研所長 中城 吉郎)


 株や商品相場が上昇し景気の良い話が巷に聞こえるようになると、怪しげな儲け話が発生して消費者被害が増える傾向がある。消費者庁のホームページ「『ご注意下さい』情報」のコーナーにはそうした悪質な出資案件等が企業名とともに列挙されている。これは、消費者安全法に基づく消費者への注意喚起だが、その根拠は消費者契約法で定める「消費者の利益を不当に害する行為(不実の告知)」が認められたことによる。

 平成12年に成立した消費者契約法は、不当条項を無効にするなど消費者利益の擁護を図る包括的な法律である。この法律の成立前は新しい手口の悪質商法への行政対応は「後追い」を余儀なくされていた。有名なのが昭和60年(1985年)の豊田商事事件である。被害総額は2000億円にも上ったと言われ、主に独居の高齢者が狙われた。また、中坊公平弁護士が破産管財人となり被害者救済に奔走されたことでも知られている。この事件への対応が遅れたのは、「金」を預かるという「現物まがい商法」を直接規制する法律がなかったことが大きい。現物を介する取引のため、出資法は適用できなかった。この事件の後「特定商品等の預託等取引契約に関する法律」(預託法)が策定されクーリングオフが出来るようになった。しかし、預託する商品が新たに次々と出てそれに対応して商品指定が追加されることとなった。最近では安愚楽牧場の和牛預託商法の事件が記憶に新しい。

 こうした後追い対応への反省に立って、民法の特別法として消費者契約全体を対象とする消費者契約法が制定されたのである。

 消費者契約と労働契約はどちらも個人と事業者(使用者)との間の契約である。事実、消費者契約法では消費者契約を「消費者と事業者との間で締結される契約」と定め、「労働契約は適用除外」としている。消費と労働は個人と事業者との取引という点では同じだが、サービスとその対価の流れは正反対である。

 労働者の契約上の地位の確立は消費者よりはるかに歴史がある。労働基準法、最低賃金法等によりそうした労働者の地位が定められてきた。(ただし、契約手続きの成文法としての労働契約法は消費者契約法より遅く平成19年に制定された。)労働契約については、労働の現場というものがあるので、現場を通じてルール形成が労働者と使用者との間で行われてきたと考えられる。一方、消費者にはそうした場がなかったので、消費者団体による運動はあったが、むしろ行政が主導で保護のルールが作られてきた面がある。

 このように消費者契約と労働契約はその沿革も性質も異なるけれども共通した面も少なくない。

 第1に、個人対事業者という交渉力の違う者の間の契約であるから、個人は連帯して対応しなければ対等に交渉することは難しい。その点では消費者も労働者も同じである。

 第2に、個人が事業者に対し適切に対応していくためには、自立した個人としての十分な知識を備えていることが必要となる。この点でどちらも教育の役割が極めて重要となる。消費者教育により消費者の権利を学ぶことと同様に、労働者教育で労働者の権利を知ることが自立への道につながると考えられる。

 第3に、法制度により、交渉力の差を補い、対等な立場となるようにすることが必要である。そして、特に強い立場のものがその立場を濫用ないし悪用できないようにする配慮が重要である。消費者法について、かつてご指導いただいた商法学者の故竹内昭夫東大名誉教授は、消費者取引において悪徳業者が次から次へと発生している状況について、石川五右衛門の「浜の真砂は尽きるとも」の歌を引き合いに出されつつ、消費者取引の立法に当たっては「性悪説に立たざるを得ない」ことを強調されていた。対等でない立場の契約ではそうした濫用や悪用の可能性があればそれを未然に防止する手立てが絶対に必要である。そのことは労働契約でも同じといえる。

 その点で、一定の収入さえあれば労働者が使用者に対して交渉力があるとする考え方は検証が必要であるし、また、勤務時間に上限がなく定額賃金になれば、長時間労働を招き易く、労働者の健康を害する可能性が高まることは明白だろう。

 最近、厚生労働省が長時間労働を繰り返すブラック企業の名前を公表することを決定したという報道があったが、これも2つの契約の共通性を示す一例といえるだろう。

≪学校≫が果たすセーフ ティネット機能と可能性
金井利之 (東京大学法学部教授)


おわりに

 

 以上のように、さまざまな限界を持つ≪学校≫ではあるが、現実に存在する社会的基盤制度として、子どもの貧困対策に転用が可能なのは、≪学校≫に勝るものはない。

 

 とはいえ、学校は、元来は、江戸体制瓦解直後の政府布達の「学制」(1872年)に見られるごとく、教育は本人のためであるとして(個人主義・実学主義)、つまり、国家や社会のために行うのではないとして、それゆえ本人負担の場として、国家が本人や保護者に押し付ける教育=立身出世能力構築施設であった。

 

 学制序文によれば「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず是れ学校の設けあるゆゑん」という。そして、意識改革として、「但従来沿襲の弊、学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄するもの少からず是皆惑へるの甚しきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に従事せしむべき様心得べき事」とされた(傍点筆者)。

 

 これを見る限り、瓦解前の江戸体制においては、≪学校≫(学問所・藩校など)なるものは、学費・衣食の用を官給するものであった。江戸体制での士人以上の天下国家のための学校から、人民悉皆の立身出世のための学校への意識改革をしようとしたのが学制であった。しかし、雇用破壊が進んでいる今日、学問を修めても「一生を自棄」させられかねない。そうであるならば、学力保障による就職と貧困からの離脱という「従来沿襲の弊」を再び意識改革し、子どもの貧困対策のプラットフォームとして、学校制度を再編していくことが肝要であろう。

 

 ≪学校≫と称する新たな時代の0歳から成人までの子育て施設において、切れ目のない衣食住と居場所を、貧困調査をせずに、社会全体の負担によって、ユニバーサル・サービスとして現物支給することが、子どもの貧困対策として期待される。そして、それは、子育て負担の社会化にも繋がり、少子化対策にも寄与するだろう。

 

 逆に、精神論の「子供の未来応援国民運動」(「大綱」「第6施策の推進体制等」「3官公民の連携・共同プロジェクトの推進、国民運動の展開」)や募金・基金は、「赤い羽根共同募金」(社会福祉法第112条以下)のように、焼け石に水になろう。地域福祉の推進を期待される共同募金は、過去最高は1995年の265億円であり、その後は減少している。しかし、今日、社会保障給付費での「福祉その他」で20兆円を超えており、文字通り(三)桁違いである。こうした運動や募金は、為政者・経済人など有力者や一般の人々にとっての気休めと免罪符にはなっても、子どもの貧困対策としては効果がない。「子育ての社会化」のための公費負担による≪学校≫が、子どもの貧困対策には不可欠なのである。

≪学校≫が果たすセーフティネット機能と可能性
金井 利之(東京大学法学部教授)


従来型≪学校≫の限界

 子どもの貧困対策のプラットフォームとして鍵となる≪学校≫であるが、共通基盤としては、現状では限界が大きい。

 第1に、≪学校≫を教育の場であると考える教育関係者が多いことである。世間では、幼稚園と保育所には違いがないが、教育関係者は、幼稚園は教育施設であると考えている(学校教育法第3章)。また、学校施設整備には血眼になる割には、放課後児童クラブは、校庭裏庭の掘立小屋やビルの間借りのこともある。

 しかし、子どもの貧困対策のプラットフォームとしての≪学校≫で重要なことは、教育施設というより、衣食(安)住の場、いわば、「デイ・サービス・センター(通所子育て施設)」という子育て機能を果たすことである。子育て施設とするならば、「デイ・サービス」のメニューのなかに、学習の場があることは望ましいとはいえるが、教育が主目的ではない。学力向上の取組は、競争心と向上心を刺激し、生活する意欲と規律を与え、自尊感情の醸成と居場所の提供という、子育て機能にプラスになるのであれば、行えばよいだけである。

 第2に、従来型の≪学校≫というセーフティネットは、悉皆性の大きいと思われる小中学校でさえ、穴だらけである。教育施設ならば、一定の課業時間が確保されていればよい。しかし、子育て施設は、1年365日24時間の「切れ目のない」(「基本的な方針」2)開所でなければならない。週休二日制の問題は、子育てサービス時間が低下したことである。夏・冬・春などと学校には長期休業が多い。もっとも、中学校では部活などによって、長期休業中や休日も≪学校≫の監護下に置く運用をしていたが、一部教師のボランティア的な負担に委ねられていたに過ぎない。

 第3に、≪学校≫は未就学齢期には、希薄にしか存在しない。小中学校は6歳から15歳までの悉皆把握に過ぎない。0歳から5歳までの悉皆性が欠落している。この間は、家庭あるいは保護者の監護下というブラックホールのなかに、子どもの貧困は押し込められている。幼児教育の無償化は「大綱」でも触れられ、その観点は正しいが、それは悉皆性には程遠く、さらに、「幼児教育」と教育面からとらえる限り、問題は解消しない。

 第4に、学校は15歳以上にとってもセーフティネットになっていない。また、15歳以上の高校は義務教育ではないから、ここでも悉皆把握はなしえない。勿論、高度成長期のように中卒即就職で貧困から脱出できるのであれば問題はないが、今日ではそうではない。すると、高校・大学・専門学校等への進学が、子育てとしては不可欠になっているが、その経済的負担は小さくない。

 かつては、国公立大学の学費は低廉に抑えられ、返済不要の給付奨学金もはるかに充実していた。しかし、長年にわたる「利用者負担」の引き上げにより、現在の学生は、高額の学費と、それを先送りしただけの奨学金返済負担と、しかも、就職しても不安定な非正規職場での乏しい収入により、貧困の蟻地獄に吸い込まれる。「重点施策」4の「経済的支援」は、ユニバーサルな対策ではなく、貧困者に絞った施策であるため、悉皆性が確保できず、為政者の気休め行為に留まるであろう。

 第5に、悉皆性のある居場所(デイ・サービス施設)として期待されている≪学校≫であるが、実際には、「いじめ」「自殺」「非行」「スクール・カースト」「体罰」「学級崩壊」「校内暴力」「管理統制教育」など、安心できる居場所とは限らない。もっとも、老人施設・障害者施設・病院・家庭においても、さまざまな虐待が発生するのであって、≪学校≫が他に比して、特に「生き地獄」であるとは言えないかもしれない。ともあれ、≪学校≫に悉皆性を期待するほど、通所が当然という圧力が強くなり、強制収容所的な閉塞感は強まるだろう。

 第6に、従って、不登校・登校拒否の自由やフリースクールという別の居場所を確保することが、非常に重要な課題であった。その結果、少なくとも、ある程度の離脱の自由は確保された22。しかし、悉皆性のある別のかたちの居場所が、合理的な経済負担で現実的に確保されているかというと、必ずしもそうではない。他方で、入学したら卒業するという悉皆性の箍たがは緩み、中途退学者が増えている。中途退学の先に、就職先を含めて、適切な居場所が確保されれば、≪学校≫に抱え込む必要は悉皆性の観点からもないが、現実にはそうはなっていない。「重点施策」でも課題としては認識されてはいるが、実効的な具体策にまでは成熟していない。