年金運用の意思決定
(ニッセイ基礎研究所)
この4月から厚生労働省による「厚生年金基金の資産運用関係者の役割及び責任に関するガイドラインについて」(通知)が改正され、その中で、資産運用委員会の構成員に、専門的知識および経験を有する学識経験者や実務経験者を加えることとされた。
この改正は、AIJ事件等を受けて、厚生年金基金のみならず確定給付企業年金等が年金運用の意思決定に際して、従来、総幹事や出入業者などの提案を鵜呑みにして来たのではないかという懸念が高まったことを反映したものであると考えられる。しかし、本質的な問題は、単なる資産運用委員会の構成員の顔触れといった表面的な対応だけで解決されるものではない。
求められているのは、個々の年金による主体的な判断と意思決定である。日本銀行の金融政策決定会合で見られたように、執行部が交代した途端、多くの審議委員が180度反対の意見に変えるような意思決定は、年金運用では望ましくない。制度の加入者に対する受託者責任を考えると、真摯かつ誠実な議論に基づく決断が求められており、政治的判断は必ずしも必要ないだろう。
「歩きスマホ」のリスク社会~あなたも加害者や被害者になるかも・・・
(ニッセイ基礎研究所 社会研究部門 主任研究員 土堤内昭雄)
5月20日の本欄で『携帯を持たない私は、やがて絶滅危惧種になるかもしれない』と書いた。それほど携帯電話やスマートフォン(スマホ)は日本社会に拡がっている。特に、スマホの普及は著しく、最近では歩きながらスマホを使用している「歩きスマホ」も日常的によく見かける。
スマホの場合、携帯電話に比べ画面に注意が集中して周囲の状況が分かりにくい。その結果、自ら躓いたり転倒したり、さらには駅ホームからの転落や自動車との接触など、非常に危険な状況が生じている。その上、他の人にぶつかったり、お年寄りや子どもなど移動弱者に危害を加えたりする可能性も高く、スマホは「歩く凶器」とまで言われることがある。
先日、通勤途上のJR駅の上り階段で、目の前の「歩きスマホ」の女性が急に立ち止まった。私はもう少しで激しくぶつかるところだった。もし、あれが下り階段だったら、私は彼女を転倒させ、転倒した彼女が近くの人たちを巻き込む大きな人身事故の発端になっていたかもしれない。その中に高齢者や妊娠中の女性などが含まれていれば、取り返しのつかない事態となっていたことだろう。
このようにスマホが普及した今日、我々は被害者であり、同時に加害者になるリスクの中で暮らしている。今年4月にヤフージャパンが行った『法律や条令での「歩きスマホ」の規制が必要か』を問うネットアンケート結果では、75%が「必要だと思う」と回答している。アメリカ・ネバダ州では「歩きスマホ規制条例」が昨年成立、違反者には85ドルの罰金が課されるという。
「歩きスマホ」の事故防止のためには、価値観により評価が異なる「マナー」ではなく、路上喫煙禁止条例のように客観的に合意の得られる条例等で「ルール化」することが必要だ。これを「マナー」として対応している以上、法的な責任の所在があいまいになってしまうからである。一方、ハード的にもスマホメーカーは、自動車の追突防止装置のような「歩きスマホ」の安全対策を考えて欲しいものだ。
スマホはその名のとおり、スマート(賢明)な意思疎通のためのツールであり、スマホを使う人は「歩きスマホ」による事故が、自分にとってだけではなく、他者や社会にとって如何に重大な影響を与えるのかを慮ることが必要だ。私は、スマホを持たなくても、「歩きスマホ」の被害者はおろか、加害者にさえなりうることを改めて実感し、最近リスク回避のために駅の階段では十分な「人間距離」をとるようにしている。自動車が普及し利便性を享受してきた一方で、それが「走る凶器」と言われた一昔前を思い起しつつ、「歩きスマホ」のリスク社会をスマートに生きる方法を模索したいと思うのである。
(ニッセイ基礎研究所 社会研究部門 主任研究員 土堤内昭雄)
5月20日の本欄で『携帯を持たない私は、やがて絶滅危惧種になるかもしれない』と書いた。それほど携帯電話やスマートフォン(スマホ)は日本社会に拡がっている。特に、スマホの普及は著しく、最近では歩きながらスマホを使用している「歩きスマホ」も日常的によく見かける。
スマホの場合、携帯電話に比べ画面に注意が集中して周囲の状況が分かりにくい。その結果、自ら躓いたり転倒したり、さらには駅ホームからの転落や自動車との接触など、非常に危険な状況が生じている。その上、他の人にぶつかったり、お年寄りや子どもなど移動弱者に危害を加えたりする可能性も高く、スマホは「歩く凶器」とまで言われることがある。
先日、通勤途上のJR駅の上り階段で、目の前の「歩きスマホ」の女性が急に立ち止まった。私はもう少しで激しくぶつかるところだった。もし、あれが下り階段だったら、私は彼女を転倒させ、転倒した彼女が近くの人たちを巻き込む大きな人身事故の発端になっていたかもしれない。その中に高齢者や妊娠中の女性などが含まれていれば、取り返しのつかない事態となっていたことだろう。
このようにスマホが普及した今日、我々は被害者であり、同時に加害者になるリスクの中で暮らしている。今年4月にヤフージャパンが行った『法律や条令での「歩きスマホ」の規制が必要か』を問うネットアンケート結果では、75%が「必要だと思う」と回答している。アメリカ・ネバダ州では「歩きスマホ規制条例」が昨年成立、違反者には85ドルの罰金が課されるという。
「歩きスマホ」の事故防止のためには、価値観により評価が異なる「マナー」ではなく、路上喫煙禁止条例のように客観的に合意の得られる条例等で「ルール化」することが必要だ。これを「マナー」として対応している以上、法的な責任の所在があいまいになってしまうからである。一方、ハード的にもスマホメーカーは、自動車の追突防止装置のような「歩きスマホ」の安全対策を考えて欲しいものだ。
スマホはその名のとおり、スマート(賢明)な意思疎通のためのツールであり、スマホを使う人は「歩きスマホ」による事故が、自分にとってだけではなく、他者や社会にとって如何に重大な影響を与えるのかを慮ることが必要だ。私は、スマホを持たなくても、「歩きスマホ」の被害者はおろか、加害者にさえなりうることを改めて実感し、最近リスク回避のために駅の階段では十分な「人間距離」をとるようにしている。自動車が普及し利便性を享受してきた一方で、それが「走る凶器」と言われた一昔前を思い起しつつ、「歩きスマホ」のリスク社会をスマートに生きる方法を模索したいと思うのである。
少子化政策めぐる議論への疑問~“待機児童ゼロ”の「子育て」・「子育ち」支援
(ニッセイ基礎研究所 社会研究部門 主任研究員 土堤内昭雄)
安倍政権は「成長戦略」として女性の活躍できる社会を目指し、保育所待機児童の解消や3年育児休業の実現を打ち出している。先日も、首相自ら東京都内の事業所内保育施設や横浜市内の民間企業が運営する認可保育所を視察している。ようやく少子化対策が国の根幹にかかわる施策であることが広く認識されるようになったものの、私はその政策実現をめぐる議論にやや疑問を感じている。
それは少子化政策の対象主体についてである。少子化政策には、子どもを育てる主体(おとな)と、成長・発達する主体(子ども)に対する施策がある。ここでは前者を「子育て」支援、後者を「子育ち」支援と呼ぼう。少子化政策としては、両者が相乗的に機能することが重要だが、最近の少子化をめぐる議論は、「子育て」支援が中心で、「子育ち」支援の視点が希薄であるように思えてならないのだ。
先般も「3年育児休業」に関して多くの政治家や有識者から賛否両論の意見が出ていたが、いずれもその論点は働く親や企業の立場に立つ「子育て」支援としての見解であり、子どもの成長・発達の視点からの「子育ち」支援的発言は少なかった。また、ある自治体で保育所の利用者満足度調査を行ったところ、駅から離れた土の園庭のある保育所は、駅前の園庭のない保育所に比べ、親の評価が低かったそうだ。確かに駅前立地は働く親にとって便利だが、一方で土の園庭の保育所の場合、子どもの服は土で汚れ、日々の限られた時間の中で洗濯に要する労力と時間は、働く親にとって大きな負担になるからだ。
『保育には応えるべきニーズと、応えてはならないニーズがある』と言われるが、保育事業者にはそれを峻別する眼が求められるのだ。横浜市は企業が運営する保育所が増加するなどして“待機児童ゼロ”を達成した。また、政府は今後2年間に20万人の保育所定員増を図る「待機児童解消加速化プラン」を策定した。今後は、“待機児童ゼロ”という目標と共に、保育所運営が本当に“チルドレン・ファースト”で行われているのか、保育の「質」に注視することが必要である。
少子化政策は、「子育て」支援と「子育ち」支援の両輪だ。保育所に子どもを預ける親のニーズに耳を傾けると同時に、子どもの声なきサイレントニーズを置き去りにしてはならない。また、保育士の資質向上や保育スペース・園庭等の保育環境が子どもの成長・発達に与える影響など、「子育ち」支援の視点からの議論が不可欠である。少子化政策を「成長戦略」と位置づけるなら、「子育て」支援はもとより、「子育ち」支援による、目先の効果を超えた国の礎を築くというグランドデザインが必要なのである。
(ニッセイ基礎研究所 社会研究部門 主任研究員 土堤内昭雄)
安倍政権は「成長戦略」として女性の活躍できる社会を目指し、保育所待機児童の解消や3年育児休業の実現を打ち出している。先日も、首相自ら東京都内の事業所内保育施設や横浜市内の民間企業が運営する認可保育所を視察している。ようやく少子化対策が国の根幹にかかわる施策であることが広く認識されるようになったものの、私はその政策実現をめぐる議論にやや疑問を感じている。
それは少子化政策の対象主体についてである。少子化政策には、子どもを育てる主体(おとな)と、成長・発達する主体(子ども)に対する施策がある。ここでは前者を「子育て」支援、後者を「子育ち」支援と呼ぼう。少子化政策としては、両者が相乗的に機能することが重要だが、最近の少子化をめぐる議論は、「子育て」支援が中心で、「子育ち」支援の視点が希薄であるように思えてならないのだ。
先般も「3年育児休業」に関して多くの政治家や有識者から賛否両論の意見が出ていたが、いずれもその論点は働く親や企業の立場に立つ「子育て」支援としての見解であり、子どもの成長・発達の視点からの「子育ち」支援的発言は少なかった。また、ある自治体で保育所の利用者満足度調査を行ったところ、駅から離れた土の園庭のある保育所は、駅前の園庭のない保育所に比べ、親の評価が低かったそうだ。確かに駅前立地は働く親にとって便利だが、一方で土の園庭の保育所の場合、子どもの服は土で汚れ、日々の限られた時間の中で洗濯に要する労力と時間は、働く親にとって大きな負担になるからだ。
『保育には応えるべきニーズと、応えてはならないニーズがある』と言われるが、保育事業者にはそれを峻別する眼が求められるのだ。横浜市は企業が運営する保育所が増加するなどして“待機児童ゼロ”を達成した。また、政府は今後2年間に20万人の保育所定員増を図る「待機児童解消加速化プラン」を策定した。今後は、“待機児童ゼロ”という目標と共に、保育所運営が本当に“チルドレン・ファースト”で行われているのか、保育の「質」に注視することが必要である。
少子化政策は、「子育て」支援と「子育ち」支援の両輪だ。保育所に子どもを預ける親のニーズに耳を傾けると同時に、子どもの声なきサイレントニーズを置き去りにしてはならない。また、保育士の資質向上や保育スペース・園庭等の保育環境が子どもの成長・発達に与える影響など、「子育ち」支援の視点からの議論が不可欠である。少子化政策を「成長戦略」と位置づけるなら、「子育て」支援はもとより、「子育ち」支援による、目先の効果を超えた国の礎を築くというグランドデザインが必要なのである。