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(仮)アホを自覚し努力を続ける!

アウグスティヌスの格言「己の実力が不充分であることを知る事が己の実力を充実させる」

長期的課題としての「賃上げ政策」を考える
(太田聰一 慶應義塾大学経済学部教授)


長期的な政策としての位置付け

 以上、雇用の社会的余剰を増大させる二つの政策を述べたが、これらは従来から行われてきた労働市場政策と変わるものではない。非正社員の待遇改善、教育訓練の充実、労働市場のマッチング機能の強化は、これまでも労働市場政策の大きな柱であった。ここで強調したかったのは、そうした労働市場政策が賃上げの環境整備としての役割を果たすという点である。そして環境整備が長期的な政策である以上、賃上げ誘導政策もそれに準じた扱いにすべきである。避けるべきは、現時点で賃上げ余力がある企業だけが賃上げを行い、それで終わってしまうという事態だ。また、賃上げだけでなく、雇用の拡大も視野に入れて、労働者全体の所得増大を目指していく必要がある。

 政策当局が留意すべき点としては、今後の物価水準の変化が賃金にどのような影響を及ぼすかをモニターし、場合によっては賃金上昇を誘導していくことが挙げられよう。デフレ時代に突入して以降、日本では毎年の労使交渉による賃金改定において、物価上昇率はほとんど判断基準として用いられてこなかった。また、労使交渉の個別化が進み、賃金はマクロ変数の動向よりも各企業の個別の業績を反映する傾向が強まった。このような状況下で懸念されるのは、実際に物価水準が上昇し始めても、個々の企業で十分な賃金水準の上昇が確保されない可能性である。とくに、政府が明確にデフレ脱却を目指している現在の状況は、将来的なインフレリスクが高いことを意味しているので、労使交渉においてもこれまで以上に物価水準の動向に敏感になる必要がある。労働組合がこうした状況に即応すべく準備を進めるだけでなく、そうした行動を促すような政府の取り組みが求められる。

 今回の安倍政権による企業に対する「賃上げ要請」を契機に、賃金上昇を確保しようという機運が社会にかなり浸透してきたようにも思われる。今求められているのは、それを息の長い社会全体での取り組みに結び付けていくことであろう。その結果として、社会全体のパイが長期的に拡大する中で賃金の上昇と雇用の拡大がもたらされることを期待したい。
長期的課題としての「賃上げ政策」を考える
(太田聰一 慶應義塾大学経済学部教授)


二つの政策

 まず、生産性の向上を取り上げる。生産性が向上すれば、企業と労働者が得ることができる全体のパイは当然拡大し、賃上げもスムーズに進むだろう。もちろん、不況期に企業が実施するような、雇用削減によって生産性の維持や向上をはかる方法では、労働者全体にメリットが行き渡らない。よって、企業の生み出す付加価値全体を上昇させるというルートで生産性向上が実現されるべきである。

 当然ながらこれは容易ではない。人件費の削減なしに企業の生み出す付加価値を上昇させるには、企業の作り出すモノやサービスが現在以上に市場で高く評価され、購入されなければならない。個々の企業は、既にこうした努力は行っているので、追加的に実施可能なことはそれほど多くないかもしれない。では、政府が登場すればうまくいくかというと、そこでも決定打は多くない。政府が主導する成長戦略が奏功すれば日本全体で付加価値の向上が実現するはずだが、新しい産業を生み出すのは基本的に民間の創意工夫に頼らざるを得ない。結局、政府ができることは規制改革などの側面援助が中心となり、ダイレクトに日本経済の成長率を引き上げるような政策を打つのは困難を極める。

 ただし、他の付加価値向上政策として、教育訓練の充実を通じて労働者の生産性を高めることが考えられる。従来の日本企業、とりわけ製造業の強みは、企業内での綿密な教育訓練によって現場レベルの生産性を引き上げ、市場のニーズにマッチした良質な製品を安価に市場に供給したことにあった。ところが、1990年代の長期不況以降、多くの日本企業は人材育成の余力を失い、同時に人件費抑制・雇用の柔軟性確保のために非正社員の比率を高めてきた。そうした中で、個々の労働者が受ける教育訓練が質量ともに停滞し、そのために生産性が伸びず、賃金も向上しないという状況が生じている。

 とくに急を要するのは、増加した非正社員に対して行う教育訓練の策定と実施であろう。現在、賃金アップを最も必要としているのは、こうした非正社員である。例えば、男性非正社員の多くは、30歳くらいになればある程度の賃金が得られる仕事や安定した仕事に移りたいと考えているが、それが実現できるのは全体のうちで少数にとどまる。その結果として未婚率の上昇や出生率の低下といった社会問題の悪化に拍車をかけている。賃上げ政策の中心に据えるべきはそうした人々の賃金であり、したがってキャリアアップの希望をもつ非正社員に対して良質の教育訓練を提供する政策を展開する必要がある。なお、非正社員の賃金向上策としては、勤務地限定正社員などの「多様な正社員」の制度を一層普及させるなど、より安定した雇用形態への移行を支援することを通じて間接的に賃金向上・雇用安定を実現していくルートも模索すべきだろう。

 それと同時に、若年者や高齢者の教育訓練の実施に対して側面から支援することも重要だ。上司と部下のコミュニケーション不足によって生じる若者の離職を抑制したり、若年労働者の能力が発揮しやすい職場環境を整えたりする企業の取り組みに対して、情報面などから援助するような政策は考えうる。また、今後の労働力の高齢化の中で、自社の高齢従業員にスキル陳腐化を抑制するための訓練を施す企業に対して何らかの支援を行うことも考慮に値する。まとめると、企業の付加価値を向上させるような教育訓練政策の実施は、賃金上昇や雇用の拡大のための環境整備の役割を果たすということである。

 もうひとつは、労働市場のマッチング機能の強化である。労働市場は不完全な市場であるため、求職者がなかなか自分の望む求人を見つけることができなかったり、求人側が求める人材を採用することができなかったりする。こうした不完全な労働市場において職業紹介業務の効率化等によって労働市場のマッチング機能が強化されたならば、より多くの求職者が就職することができるようになるので、必然的に経済全体での生産量が増大し、社会的余剰も増大する。求職者の就職可能性が高まることは雇用拡大を意味するので、労働者全体にとって大きな利益になる。もちろん、こうした状況は既存労働者の賃上げにとっても望ましい。マッチング機能の強化がもたらされれば失業率が低下するが、そのときには労働者が企業をやめても新しい就職先を比較的容易に見つけることができるようになる。このことは、賃金交渉を行う労働組合側にとって有利に働くはずである。

 マッチング機能の強化のための政策には様々なものがありうる。例えば、現在検討されているような、ハローワークが保有する求人情報などを地方自治体などに提供し、より分厚い紹介業務を行うことも有力な方法だと思われる。また、仕事や訓練などで培ったスキルが転職市場で通用しやすいようにスキルの標準化をはかることや、ジョブカードの普及に注力することもあろう。さらには、ミスマッチの緩和のためのトライアル雇用制度を拡充することも候補に挙げられる。
長期的課題としての「賃上げ政策」を考える
(太田聰一 慶應義塾大学経済学部教授)


注意すべきポイント


 第一は、要請が実際にどれほど賃金を引き上げる効果をもったかという点である。この点を厳密に検討するにはまだデータが不足しているが、いくつかの調査を見る限り、必ずしも期待通りのものではないように見える。例えば、連合が今年7月3日に発表したプレスリリース「2013春季生活闘争第7回(最終)回答集計結果について」によると、賃金引上げを「平均方式」で取り組んだ労働組合の賃金改定の状況は、昨年と比較が可能な4,181組合で前年比46円増であったものの、率にするとほとんど上昇していない。かろうじて一時金のアップは見られたものの、プレスリリース自体が「・・・今次闘争でも当該労使で真摯な議論を重ねてきたが、全体集計の結果としては、十分な回答を引き出し得たとは言えない状況である」と総括しているとおりであり、要請の効果が春闘の結果に大きな影響を与えたとは言い難い。厚生労働省「毎月勤労統計」を見ても、6月期における事業所5人以上の現金給与総額の上昇率はわずかに0.6%に過ぎず、ボーナスによる押上げ効果がなければ、前年割れの状況であった。これらが意味するのは、中小・零細企業をはじめとして厳しい経営環境に置かれている企業がまだ多数あり、首相の要請を受けたからといって直ちに経済全体で賃金上昇が期待できる段階に至っていないということであろう。

 第二は、賃金アップの「論理」に乱れが生じたために、これを修正する必要が生じた点である。賃金は企業と労働者の双方が生み出した付加価値の分配であるから、本来的には両者が交渉して決める筋合いのものである。ところが、今回は政治と企業との関係の中で賃金アップの話がなされたために、賃金引き上げの理由が曖昧なものになってしまった。例えば、「安倍首相の要請を受けて賃金を引き上げる」とした企業トップは、首相の要請がなければ賃金を引き上げるつもりはなかったのか、という質問に対してどのように回答するであろうか。筆者は、首相の要請があろうがなかろうが、従業員に分配すべきものは分配すべきだと思うが、今回の賃上げ要請によってこの点が曖昧になったことは否めない。今後、一部の労使では今年の賃金アップについて首相の要請があったことによる「特別なもの」と見なすのか、首相の要請がなくても行ったであろう「通常のもの」と見なすのかについて、きちんと合意を得ておく必要があるように感じている。

 第三は、賃上げをどのようなスタンスで実現していくか、という点である。安倍首相の要請は、賃上げをデフレ脱却のためのひとつの方策としてとられていた。また、労働組合も「デフレ脱却には賃上げが必要」というロジックを掲げて賃金交渉に臨んでいた。しかし、先ほど述べたように、本来賃金は企業と労働者が生み出した成果物を分配するものなので、本来は好調な企業業績を背景にした自然な形での賃金上昇や雇用拡大が望ましい。

 この点については、異論があるかもしれない。例えば、労働者が企業によって搾取されていると見る立場からは、少しでも余裕資金のある企業は賃金上昇の形で労働者に還元すべきであり、そうしない企業は社会的責任を果たしていない、という話になりがちである。そうした見地からは、先に述べたような「好調な企業業績を背景にした自然な形の賃金上昇が望ましい」というスタンスは出にくい。

 しかし、全体のパイが小さいままで賃上げを推し進めようとすると、対応できるのは余力のある一部の企業にとどまってしまい、デフレ対策としての賃上げの効果は小さくなる。これがまさに現在生じている状況である。その一方で、余力の少ない企業が無理に賃上げを行えば、企業体力が長期的に低下し、その結果として競争力の喪失、ひいては雇用不安につながって最終的には労働者全体の利益にならない。とくに、日本では職種別の労働市場が成立しておらず、仕事のキャリアが一つの会社で続く傾向が強いので、今働いている会社の雇用が危うくなると、雇用不安を惹起しやすい。よって筆者は、今後スムーズに賃金上昇という果実を経済にもたらすには、政府としても全体のパイを増やすような環境整備が必要になると考えている。

 その環境整備の考え方を以下に述べていきたい。いま経済に存在するすべての企業の利潤とすべての労働者の賃金を合計したものを「(雇用の)社会的余剰」と呼ぼう。つまり、社会的余剰とは、企業と労働者が生産活動において生み出す利益の総計であり、これが増大すれば、企業にとって賃金上昇を受け入れやすく、賃上げ誘導が奏功しやすい。これは、雇用者所得が全体に伸びているときに、格差問題が顕在化しにくいことと似ている。つまり、社会的余剰が大きくなっているときには、企業と労働者の分配問題が緩和されるわけである。ここで注意すべきは、こうした社会的余剰の観点に立てば、既存の労働者に対する賃上げだけでなく、雇用の拡大も労働者全体にとって大きなメリットをもたらすということである。実際、無業の人が就業して賃金を受け取るようになった場合、無業者に対する社会からの給付なども考慮すると、その社会的メリットは既存労働者の賃金アップより大きくなる可能性がある。デフレ対策に即効性があるという理由だけで、既存労働者の賃金を引き上げるという視点に偏りすぎることには注意すべきだ。

 では、社会的余剰を大きくする政策は何であろうか?以下では、生産性向上と労働市場のマッチング機能強化について述べたい。