子③お気に入り、マグロのクッション
年上女性と別れたあと、母と2人で暮らしていた。
その当時、朝の通勤経路の途中に1件のお豆腐屋さんがあった。
朝その前を通ると、いつも茹でた大豆やオカラの健康的で懐かしい匂いが湯気とともにあたりに立ち込めていた。
中を覗くと、おばあちゃんが一人でお豆腐作りに励んでいた。
スーパーなんかに並べられている大量生産かつ廉価な豆腐に苦戦しているんだろうなあ、それに、冬場でも変わらない朝早くからの水仕事はさぞかし辛いんだろうなあ、そう思いながらお店の前を通り過ぎていた。
ところがある日気が付くと、お店が閉まったままとなっていた。
シャッターを見ると貼り紙がしてあった。
閉店のご挨拶だった。
「46年間お豆腐を作り続けてきましたが、昨年(平成23年)の大晦日に最後のお豆腐を作り終え、閉店いたしました。」というようなことが書かれており、最後に感謝の言葉が綴られていた。
46年間か…
恐らくこのお豆腐屋さんにもいろいろな歴史があったことだろう。
旦那が独立してお豆腐屋さんを開いた。
まだうんと若かったおばあちゃんがお嫁に来た。
夫婦で朝早くから冷水に手を凍えさせながらお豆腐作りに励み、その間に子供も育てあげた。
しかしその後旦那に先立たれ、おばあちゃん一人で暖簾を守っては来たものの、寄る年波には勝てず、遂に平成23年12月31日をもってささやかな歴史に終止符を打った。
ざっとこんな感じだろうか。
12月31日までお豆腐を作り続け、年が明けたらピタッと店を閉める。
律義さが滲み出た、誠に見事な幕引きであった。
当時私は、学生時代から住み始めたある街にずっと住み続けていた。
私はその街で大学を卒業して就職し、就職後一念発起して働きながらある国家試験に挑戦した。
その後年上女性と知り合って一緒に暮らすようになり、女性と別れたあともその街に母を呼び寄せて一緒に暮らしていた。
私がその街に住み始めた頃は、まだまだ商店街に活気があり、ラーメン屋さん定食屋さんは勿論のこと、蒲鉾やさん(ウインナ巻とかシュウマイ巻とかかの練り物を作り売りしていた)やら金魚屋さんやら、果てはエロ本屋さんまで、各種のお店が軒を連ねていた。
よく行った短気なオヤジがやっていたラーメン屋には小学生くらいの女の子が居て、ときどきラーメンのお運びをするなどお店を手伝っていた。
しかしその女の子はいつの間にかお嫁に行き、店のオヤジが孫を抱く姿を見かけるようになった。
気が付くとオヤジは大層老けて店を休みがちとなり、私もいつしかそのラーメン屋には行かなくなった
そしてある日気付くと、ラーメン屋はいつの間にか解体されて、瀟洒なアパートになっていた。
自分の時間だけが止っているような、そんな気分だった。
50近くになって婚活をするようになって、とりわけそのことを痛感した。
その気分は、例えて言えば、自分一人だけが列車に乗り遅れたような、そんな感じだ。
繁華街で飲んでいるなら、終電車に乗り遅れてもタクシーで帰るなり朝まで飲み続けるなりすれば良いが、この列車は仕事や収入、出来不出来に関係なく同世代の全員が乗っている。
しかも乗り遅れたら最後、もう二度と来ない。
亡き父は生前、「わしゃ余り言わんが、おまえ早う(結婚)したほうがええぞ。」とよく言っていた。
「親の言葉と茄子の花は 千にひとつも仇はない」これもよく言っていた。
さいきん、勤務先近くの古いとんかつ屋さんが閉店した。
それを見て、その昔、おばあちゃんが一人でやっていたお豆腐屋さんの閉店に接して色々な思いが頭を去来したことを改めて思い出した。