ウクライナとロシアとの深い因縁 | kazuの徒然ブログ

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・ウクライナとロシアとの深い因縁

ウクライナはコサックと呼ばれた人達が居た処です。

ウクライナとコサックは重なっていると云うか同じと云うかまあ同じと考えて下さい。

コサックダンスと騎馬兵とコサック帽で有名です。

昔、北海道では爺さん達はコサック帽をしていたなぁ。


・コサック帽(ロシア帽)

日露戦争時はコサック騎馬兵と日本軍騎馬兵が戦いました。

詳しくは司馬遼太郎の『陽のあたる坂道』を読んで下さいね。


第二次世界大戦時、コサックは共産主義のソビエトのレーニン側に付かず英国側に付いた。

しかし、英国は最終的に計算高くレーニンに付いた。
要するにソビエト(共産主義)を認めた。

英国に裏切られたコサック達はソビエトに家族全員処刑されたり土地をうばわれたりシベリア収容所に収容されたりして殺された。

ロシアとウクライナにはそんな深い血に塗られた歴史と因縁があるのです。


・コサックの髪型と民族衣装

(ウィキペディアより)

1917年にロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、ウクライナ、ドン、クバーニにおいてコサック三国が独立を宣言した。

三国はロシア白軍およびシベリアのコサック諸軍と共にロシアの共産党とその赤軍に抵抗したが、敗北した。

1918年から1920年にかけてコサック階級は排除され、コサック諸軍は廃軍となった。

内戦後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による苛烈な弾圧の対象となった。

ソビエト政府はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑もしくは流刑し、ホロドモールによって餓死させた。

そのため第二次世界大戦においてコサックの残党はドイツ軍に味方し、ソ連軍と戦った。ドイツの敗北とともに、コサックは共同体としての姿を消した。

ソビエト連邦の崩壊後、ウクライナやロシアの市民団体はコサックの復帰運動を行っている。

現在、ウクライナ、ロシア、カザフスタン、アメリカなどにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。

組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。

なお、国のレベルでコサックの遺産を受け継いでいるのはウクライナである。

ウクライナの国歌でも繰り返して歌われる最後の部分で「我らがコサックの氏族であることを示そう」と歌われる。

・コサックギツネ




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