信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・54(最上家VS南部家、再び開戦!) | 株式投資家の暮らしと夢

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九州地方での島津家と大友・竜造寺連合軍の戦いは、島津家が優勢で戦が進んだ

島津家の勢いはとどまることを知らなかった。

 

 

永禄4年4月。

島津家の土持親成隊らは竜造寺隆信の籠る大村城を包囲していた。

大友家からの救援部隊が三々五々に到着していたが、土持親成はこれを各個撃破していった。

 

 

 

永禄4年4月。

最上家は南部家と交戦状態に入った。

最上家の花輪親行隊は戦力的な振りはわかっていたので、開戦を確認するとすぐに撤退を指示し、損害を最小限にとどめるよう努力した。

 

永禄4年4月。

最上家は天童頼長を総大将に、南部家の野辺地城に向けて、総勢8000近い兵で侵攻を開始した。

 

永禄4年4月の尼子家。

かつては中国地方の覇者とまで言われた名門・尼子家も、今では石高13万石で、八橋城と高田城を支配する小大名となっていた。

経久亡き後、尼子家の大黒柱として活躍した一門の尼子国久も、齢70となり、病気がちな状態になっていた。

この尼子家の惨状を、虎視眈々と眺めていた男がいた。

新興の勢力ながら、今や中国地方最大の領土を持つ、戦国大名・毛利元就である。

 

 

 

 

永禄4年4月の三好家。

その石高は200万石にも達し、関東地方の覇者・北条家に次ぐ大大名であった。

その家臣団も優れた武将が多く、十河一存を失った後も、一門には優秀な三好義賢がいたり、軍事部門には猛将・島左近がいた。

しかし、下剋上でのし上がった三好長慶は見抜けなかった。

優秀な家臣の一人だった松永久秀という男は、長慶にも劣らない優れた能力を持っていたが、誰よりも激しい野心をもっていたことを、長慶は見抜けなかった。

 

 

 

 

永禄4年4月の最上家だが、伊達家に領土を散々に蹂躙された後だったが、失った領土はほとんどなく、また戦も主戦が山形城の籠城戦だったために、兵力の損傷もあまりなかった。

停戦した伊達家との戦力差は大きなものだったが、南部家との戦力差はそれ以上に大きかった。

当主である最上義光がこの機会を逃すはずはなかった。

院政を敷く義守の指示を待つことなく、義光自ら義守のいる角館城に南部家との開戦の指示を出した(この時は義守は徳山館に立ち寄っていたようだが)

 

 

 

 

 

最上家の新しい当主・最上義光の能力は高かった。

戦においては天童頼長には劣り、政治力に関しては安東愛季よりは劣ったが、武将としての知力はとても高く、家臣たちは暗愚とも揶揄された義守に抱いたものとは違う、前向きな忠誠心を感じ始めていた。

 

 

永禄4年4月。

野辺地城を巡る最上家と南部家の戦いは、安東愛季隊兵2300と石川高信隊兵1700との間で、両家に忠誠を尽くす国人衆を交えて、戦いが開始された。

永禄4年5月の最上家の評定では、野辺地城を巡る戦の報告がなされ、安東愛季より当方優勢との伝令が伝えられた。

本国の徳山館では池田盛周が内政を担当し、着実に石高を増大させた。

また徳山館の商業区画では三斎市の建設が進められた。

一方で長尾家が伊達家と同盟を締結したとの報告もあり、最上家を巡る情勢は決して楽観できるものではなかった。

 

永禄4年5月。

松平家の吉田城は、今川家の部隊が攻略した。

 

 

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