信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・50(白寿丸が京都御所に忍び込む) | 株式投資家の暮らしと夢

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永禄4年1月。

三河国を進軍する織田軍は、今川・武田連合軍に攻め立てられていた、松平家の長篠城へ向かっていたわけではなかった。

木下秀吉隊を先陣に、織田信長自らも出陣して総勢1万の兵で、今川家の引馬城へ侵攻した。

今川家は、武田家の当主の座を追われて客将として庇護していた武田信虎に兵5000を与え、これを迎え撃った。

また武田家にも救援を要請した。

一方長篠城の松平家は北畠家に救援を要請した。

 

 

 

 

永禄4年1月。

高城城での島津家と竜造寺家の戦いは一進一退を繰り返したが、島津尚久隊がついに神代勝利隊を撤退させ、島津家が城を包囲し攻略した。

 

永禄4年1月の戦力情報。

関東の北条家は石高が230万石で兵力は10万人に達しようとしていた。

また東北の伊達家の兵力は5万を超え、誰が見ても東北の覇者になりつつあった。

九州では島津家の兵力が大友家を大きく上回り始めていた。

 

永禄4年1月の戦力情報の続き。

今川家は当主・義元が死んだ後も比較的多くの兵力を維持していて、松平家より強大だった。

武田家も織田家より強大なために、武田・今川連合軍と織田・松平連合軍の戦いは、武田・今川連合軍が有利だった。

 

永禄4年1月の戦力情報の続き。

かつては強大だった南部家や尼子家は、今では石高が20万石にも満たない小大名になっていた。

しかしそこには数多くの有力な武将がおり、ここを滅ぼし、その武将を配下に加えた大名は、その地域の覇者となるだろうと考えられた。

 

永禄4年1月の戦力情報の続き。

この辺りの大名になると、もはや天下を狙うことは出来そうもなかった。

地域の有力な戦国大名の傘下に入り、生き延びようとする大名もあった。

 

永禄4年1月。

南北通りである東洞院大路と、東西通りである土御門大路との交点にある京都御所に、最上家の嫡男・白寿丸はいた。

すぐそばには室町幕府の花の御所があり、警備の兵も多くいたが、幼い頃より戦の場にいた白寿丸は、夜の深い頃に忍びのように潜り込んでいた。

そして正親町天皇の夢の中へ、こういい放った。

「奥州の地にある最上家より生まれし金が、織田家によって陛下に届けられます。願わくばそれが永遠に行われますように。それは平和の証です。」

白寿丸は自ら対面しては、正親町天皇に恐怖を与えることを知っていたし、矢文を使うことも考えたが、陛下に万が一怪我をさせてもと考え、京都御所に忍び込んでは、皆が寝静まったころに、そう大声で言い放っていた。

さすがに3日目になると、京都御所は警戒されて近づけなかったが、天皇は必ず耳を澄まして御聞きになると考えた白寿丸は、遠くよりまた大声で言い放った。

そして翌朝のことである。

正親町天皇が周囲の者にこの話をし始めた時、織田家より数千両の金が京都御所に届けられた。

これから数日間、正親町天皇は織田家と最上家のことをお調べになり、最上家が伊達家によって滅ぼされようとしていることも知るようになっていった。

 

 

 

 

 

 

永禄4年1月。

伊達家当主・伊達晴宗は山形城がいつまでも攻略出来ないことにいら立ちを隠さなかったが、山形城のみに力を注いだのも誤りだと考え、伊達家において鬼庭左月斎と並び称される猛将の、相馬盛胤に兵4100で鶴ヶ岡城の攻略を命じた。

 

 

永禄4年1月。

伊達晴宗は最上家の山形城以外にも兵を進軍させたが、天童城は攻略したものの、それ以外の城もなかなか落とせない状態が続いた。

山形城包囲戦のように居場所がわからないわけではなかったが、鶴ヶ岡城や真室城でも城外からの襲撃者には手を焼き、兵糧不足に陥った。

山形城が交通の要衝にもなったいたために、その地を押さえないと、補給がままならなかったのだ。

鶴ヶ岡城へ侵攻した第一陣は、すでに兵糧が乏しくなり撤退を始めた。

 

 

永禄4年2月の最上家の評定。

山形城の一揆は依然として続いていたが、九戸政実が寺池城を包囲したという報告は、久しぶりの朗報だった。

また領内にも東禅寺勝正という浪人が訪れ、仕官を求めてきたので登用をした。

最上家の評定の空気が変わろうとしていた。

そんな予感を氏家守棟は感じ始めていた。

だが、当主・義守は変わらずにふさぎ込んだままだった。

氏家守棟は義守に鶴ヶ岡城や真室城の修復の了解をとり、指示を出した。

 

永禄4年2月。

伊達晴宗は山形城攻めの総大将に、新たに穴沢俊光を任命した。

この武将は旧蘆名家の家臣だったが、勇猛果敢で戦上手な男だった。

 

 

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