信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・34(武田信玄の天下取り) | 株式投資家の暮らしと夢

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元禄2年の6月ごろ、長尾家は佐渡金山を手に入れた。

そして北陸での戦いも落ち着き、再び戦を仕掛ける余力が出来ていた。

 

 

永禄2年7月、長尾家は下間頼廉を先陣に、総兵力1万5千もの兵で武田家の葛尾城に進軍した。

葛尾城主の馬場信春は、織田家が侵攻する岩村城へ救援に出ていたが、城代の家臣が即座に狼煙を上げて各地の城に伝達した。

信玄のもとにもこの知らせは届き、自ら葛尾城の救援に向かった。

 

 

 

永禄2年7月、武田家は飛騨の大名である三木良頼と停戦和解し、岩村城救援を要請した。

三木家は総勢1500の兵で救援に赴いた。

しかしその頃には、松平家の先陣である大久保忠世隊は郡上八幡城に到達。

城攻めが始まっていた。

宿敵である長尾家が再び武田家に矛先を向けたことで、武田家は大きな危機に陥った。

 

 

 

永禄2年7月、九州では島津家の本格的な北上が始まりつつあった。

先陣の島津尚久は大友家の高森城へ攻撃を開始した。

大友家は、岩尾城や御船城や隈本城が警戒態勢を敷いた。

また大友家は竜造寺家との停戦に成功し、隈本城の救援を要請した。

永禄2年7月、大友宗麟自ら進軍し、大内義長の籠る櫛崎(くしざき)城を攻略した。

大内義長は城からの脱出には成功し、滅亡は免れた。

 

 

 

永禄2年8月。

葛尾城での長尾家と武田家の戦いは長尾家が兵力で勝っていたが、武田信玄の采配が冴え、ほぼ互角の戦いになっていた。

そして、織田家が岩村城への進軍を止めたという報告が入り、その救援に向かっていた軍勢が戻ってくることがわかると、信玄は勝利を確信した。

 

信玄は考えざるを得なかった。

もし景虎が葛尾城攻めの軍勢を率いていたら、我が家は崩壊していただろう。

もし朝倉が織田を攻めなかったら、上洛の夢は消えていただろう。

信玄は吠えた。

吠えずにはいられなかった。

天下取りへの道が、ついに見えてきたと思った。

信玄は勝利は近いことを兵士たちに伝えた。

葛尾城では勝利を確信した兵士たちの鬨の声が、何度も何度も繰り返され、その声は信濃の山々を越えていった。

 

 

 

永禄2年8月。

武田信玄は朝倉家に手を回し、織田家の長島城への進軍を要請していた。

織田家は岩村城への進軍を取りやめ、長島城の防衛に向かった。

北畠家も織田家側についた。

 

 

永禄2年8月。

武田家の郡上八幡城への松平家と織田家の侵攻も、武田家は粘り、なかなか陥落しなかった。

 

永禄2年8月。

大友家の主力部隊が大内家の櫛崎(くしざき)城攻めに掛かり切りになっている間に、大友家が警戒した通り、島津家は大友家のいくつもの城に忍び寄っていた。

城主・三田井親武の守る高森城を攻めていた島津尚久隊は撤退したものの、その後方からは島津忠将隊兵1500が後詰していた。

大友家の岩尾城には新納忠元隊1500が侵攻し、城主の相良義陽が兵500で迎撃に出た。

城主・長倉祐政の守る御船城は、すでに川上久朗隊兵2500が取り囲み、この月のうちに城は陥落した。

吉岡長増の守る隈本城においては、竜造寺隆信自ら総勢6千を超える軍勢を出して援軍に来たこともあり、島津軍は撤退した。

また大木俊光の守る臼杵城には、島津家の赤池長任隊兵500が進軍し、城からは岡本頼氏隊が1000で出撃し、待ち構えた。

島津家の軍勢は、日向国での戦いから間もなかったので、どれも小勢だったが、大友家は大内家との戦に気を取られたこともあり、その対応が十分に出来ていなかった。

それが島津家の北上をさらに加速させた。

 

 

 

 

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