信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・32(甲斐宗運の策略) | 株式投資家の暮らしと夢

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当主が武田信玄と改名した武田家。

南方の今川家、東方の北条家と三国軍事同盟を結んだことにより、目指すところは京の都となっていた。

 

 

 

 

 

そしてその力は十分にあった。

武田家には天下一ともいえる家臣団が出来ていたのだ。

 

 

西進する武田家の前には、弱体化した斉藤家と、昨今急激に勢力を拡大しつつある織田家があった。

織田家は西進時に立ちはだかった松平家の同盟国であったために、何度か矛を交えてはいたが、本格的な戦も避けらないという空気は、両家に満ちてきていた。

永禄2年2月、織田信長は本願寺家の長島城を攻略した。

これにより信長の支配する尾張の国を脅かす敵はなくなった。

東の松平家、南西の北畠家、北西の浅井家とは同盟を結び、北の斉藤家はすでに弱体化していたからだ。

 

 

 

 

永禄2年3月、北関東で北条家の影響下で生き延びてきた佐野家の当主・豊綱が死去し、弟の昌綱が跡を継いだ。

 

永禄2年3月、石川城を奪われた南部晴政は、三戸城へと逃げた。

 

かつては伊達家か南部家かと奥州の覇者の座を狙える大大名であったが、今ではその兵力は総勢でも1万に満たない一大名に落ちぶれていた。

 

そこで長年の宿敵だった蠣崎家と同盟を結び、最上家と対峙した。

 

一方の最上家は、蠣崎家に対しては交戦状態を継続するために、北方に出陣していた当主・義守自らが、度々津軽海峡を渡って蝦夷地へ攻撃を加えようとした。

また南部家に対しては、鮭延貞綱隊兵1400で、野辺地城攻略を目指した。

 

 

永禄2年3月、武田家は斉藤家の稲葉山城へ侵攻を開始した。

 

永禄2年3月、島津家は島津義弘を総大将に、総勢1万を超える兵で、大友家の縣(あがた)城へ向けて進軍を開始した。

縣(あがた)城は、大友家にとっても本国に近いことからも取られるわけにはいかず、立花道雪を総大将にして、近隣の城から兵を募り、こちらも1万を超える兵力でこの救援に向かわせた。

天下一の戦上手とまで言われ始めていた名将・立花道雪がいたことから、大友宗麟は勝利を疑わなかった。

 

 

 

 

永禄2年4月、最上家ではキリスト教の布教許可をしていたが、それは本城の山形城内にとどまらず、最上領内各地で広まりを見せていた。

当主・義守はこれを支持し、領内各地に教会の建設を許可した。

 

永禄2年4月、大友家は島津家との大戦が開戦していたが、関門海峡をの先にある、中国地方の櫛崎(くしざき)城に向けても軍を進めた。

九州地方で長年の宿敵だった大内家を完全に滅ぼすことを最優先にしたのだ。

もっともそれは、名将・立花道雪を対島津家に向かわせているので、負けることはないと確信していたからだった。

 

 

永禄2年5月、野辺地城攻略を目指した最上家の鮭延貞綱隊だったが、兵1400しかないところに、南部晴政や石川高信が総勢3200もの兵で、ゆく手を阻むように出陣してきたことから、兵の損傷を避けるために、戦わずして退却した。

石川城を落とし、勢いづく最上家にあっても、冷静に戦況を見極めて対処する鮭延貞綱のこの判断を、義守は褒めた。

 

永禄2年5月。

斉藤家の本城・稲葉山城は天下に聞こえた堅城であった。

さすがの武田信玄もこれを単独で攻略するのは不可能とみて、今川家に支援を要請していた。

しかしこれは今川家に城を横取りされる恐れのある、諸刃の剣でもあった。

ただ城内に籠る斉藤家にはそのような武田信玄の懸念など関係なく、度重なる強襲に怯え、次第に城内の士気は落ちていった。

 

 

 

永禄2年6月、大友家の縣(あがた)城は島津家の手に落ちた。

大友軍は西方と南方から進軍する島津家の挟撃を受け、ほぼ壊滅した。

この報告を聞いて、大友宗麟は絶句した。

なぜ、天下一の名将・立花道雪がいながら負けるのだと。

これに対し、敗戦の報を伝えた兵士は、大友宗麟にさらに言葉を失う衝撃の事態を告げた。

立花道雪は、今回の戦には参陣いないというのだ。

確かに、宗麟からその指示はしなかった。

これは軍事行動を立花道雪に完全にゆだねていたし、道雪独自の判断で当然対処すると考えていたからだ。

だが、道雪出陣の情報は当然つかんでいた。

なぜだ。

 

大友宗麟の放っていた間者が立花道雪の姿と勘違いし確認していたのは、何と島津家の新納忠元の姿だった。

確かにその風貌は似ていたが・・・。

宗麟はこれは自分の失態だと恥じた。

またこの戦場から、「我らの役目は病床にある道雪様に敗戦の事実をお伝し、追撃を防ぐこと」と張りのある大声で号令し、ろくに戦わずして撤退する大友家の部隊があった。

大友家によって滅ぼされた阿蘇家の旧臣・甲斐宗運隊である。

甲斐宗運は優れた武将として、立花道雪からも好かれ、この時病床で動けなかった道雪の代理として軍を指揮していた。

新納忠元に寝返りの計略をし、大友家の旗を与えて道雪の姿をして参陣するように指示していたのも、実は甲斐宗運だった。

このことを道雪は知らず、敗戦の報告とともに聞いた。

新納忠元は島津家の猛攻で縣(あがた)城が早々に落城したので寝返りを止めたと、甲斐宗運は道雪に詫びて報告した。

道雪は、確かに悪くない策略だと、甲斐宗運を許した。

しかし道雪は、新納忠元が大友軍への攻撃の手を緩めなかったことを後に確認した。

元々、甲斐宗運は大友家の家臣ではない。

そう、道雪は警戒せざるを得なかった。

 

大友家は破竹の勢いで領土を拡大し、今や関門海峡を越えて中国地方に侵攻開始していてが、その歯車はどこかできしみ始めていた。

それを誰よりも早く感じたのは、当主の大友宗麟でもなく、また名将の立花道雪でもなかった。

その者は、旧宗主を滅ぼされ、大友家の破滅を誰よりも願っていた、甲斐宗運だった。

 

 

 

 

永禄2年5月、櫛崎(くしざき)城での戦いは、大友家総勢8000、大内家総勢8000という大戦に発展していた。

大内家としても、当主・大内義長の籠る櫛崎(くしざき)城を落とされるわけにはいかなかった。

 

 

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