信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・23(長宗我部元親の快進撃!) | 株式投資家の暮らしと夢

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弘治3年4月、南部家の本拠地・石川城はさすがに堅かった。

両軍多くの兵を失っていたが、疲弊した兵力では、石川城を攻略することは出来そうになかった。

城は落ちないと確信した南部晴政は、城門を開いて反撃に出た。

最上家は鮭延貞綱隊が撤退、柏山明吉隊は壊滅し戦死した。

それを見たら、天童頼長隊も撤退するしかなかった。

 

弘治3年5月、最上義守は南部家との戦が佳境に入っていることから、兵力を増強するために新たな施策に出た。

九州地方で流行り始めていた、キリスト教を容認したのだ。

当時は一向宗が強大な力を持っていたのだが、もはや大名が手綱を引ける状態にはなく、宗教心を利用するには、新興の勢力の弱い宗教を利用するしかなかった。

キリスト教は最適だった。

それは同時に、南蛮の武器や戦の仕方も最上家にもたらすことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

弘治3年5月、武田家は松平家の郡上八幡城へ侵攻した。

松平家は三河国より、同盟国の織田家の領地を抜け、救援に向かった。

また松平家の戦力が武田家との戦いに集中したことをみた斉藤義龍は、松平家の大垣城の奪還に動いた。

 

弘治3年5月、本願寺家の杉浦玄任隊は、長尾家の楽巌寺雅方隊や宇佐美定満隊を撃退して、七尾城に迫った。

一方、北上していた長尾景虎の部隊は宅田城を攻略し、別動隊の北条高広隊は松波城を包囲し、この月のうちに攻略した。

北陸の名家・畠山家は滅亡した。

 

弘治3年5月、大除城を攻略した長宗我部家は、続けて河野家の曽根城へ侵攻し、攻略した。

その後、さらに河野家の大洲城へ侵攻した。

 

弘治3年5月、浪岡御所を包囲していた最上家の小野寺輝道隊だったが、南部家の救援隊が到着するとたまらず包囲を解いて退却した。

これにより、最上家の南部家本国への最初の侵攻は、失敗に終わった。

 

弘治3年5月、本願寺家は七尾城攻略まであと一歩のところに迫っていたが、長尾家の甘粕景持隊の救援が間に合い、杉浦玄任隊は撤退した。

 

 

弘治3年6月。

九州地方では大友家が勢力を拡大し、九州統一も見えてきていたが、わずかに残された大国の支配しない南方の領地を、島津家が切り取りに動いていた。

志布志城を北郷忠相隊が攻略し、肝付城を島津義弘隊が包囲し、翌7月に城は陥落し、肝付家は滅亡した。

 

 

 

弘治3年7月、最上義守は筆頭家老の氏家定直の献策を受け、本城の山形城を改修することにした。

南部家との戦で兵力が疲弊する中で、城を強化することで、その兵力の減少を悟られないようにしたのである。

 

 

弘治3年6月、長宗我部元親隊は大洲城を攻略し、翌7月には黒瀬城へ侵攻した。

苦渋の決断を受け入れた後の電光石火の進撃で、長宗我部家は四国で三好家に対抗できるだけの領土を手に入れようとしていた。

 

 

 

 

 

ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html  )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は

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