素朴でかわいらしいスージークーパー。
かつては夢中で集めていたわ!懐かしい。
と思う方も多いのではないでしょうか?
今見ても十分に可愛らしいデザイン、
流行りの自然体な暮らしにもしっくり来そうですよね。
今回は、その可愛らしい見た目とは裏腹に
女性実業家としても波乱の人生を生きた
スージークーパーについて書いていこうと思います。
そもそも日本でスージークーパーに火がついたのは
1990年代半ば、ノンフィクション作家、英国文化の研究家である
飯塚 恭子さんの著書、
『スージー・クーパーのある暮らし』がきっかけでした。
実はスージーはその頃すでに晩年。
とはいってもウェッジウッドのグループ会社のデザイナーを
86歳で引退した後も、
フリーデザイナーとして筆を握り続けていました。
しかし彼女がなくなった年とこの著書が出版された年は同じ1995年。
彼女自身はおそらく日本でのブームを
知ることは無かったと思うと少し残念ですね。
さて、そんなスージーはどんな人生を歩んできたのか、
日本でも人気のパターンとともに振り返って生きたいと思います。
彼女は1900年代初めに、英国の中でも陶器業が盛んだった
スタッフォードシャーのストーク・オン・トレントという地域で生まれます。
スージーとは関係が無いのですが、
みなさまはクラウンスタッフォードシャー
というメーカーはご存知でしょうか?
アンティークコレクターの中では知られているメーカーなのですが、
その名の通り、この地で古くから陶器業が
営まれていたことが分かります。
またスージークーパーが、
ボーンチャイナを生産する以前から用いていた
クリーム色の素地=アースンウェアは
イギリス国内で採れる土のみを使った陶器として
スタッフォードシャーの地で初めて作られました。
白い陶器が発明されるのはその後のことで、
製造時にできる凹凸や焼ムラに味わいがある見た目は
今でも多くの人に好まれています。
スージーのあたたかい作風というのは
彼女の生まれたスタッフォードシャーの風土に
根ざしたものだったのかもしれません。
話は彼女の生い立ちに戻して、
スージーの父親は地元の名士、複数の会社やお店を経営し、
裁判官もつとめていたようで、比較的裕福な家庭でした。
しかし父親が病弱であったのと、戦争により人手不足のため
通っていた私学校をやめ、家業の手伝わなくてはなりませんでした。
残念ながら父親はスージーが11歳の頃に、
若くして亡くなってしまいます。
家業の手伝いはスージーにとって大変苦痛だったようですが、
15歳になると母親は、
小さい頃から読書やお絵かきが好きだったスージーに
地域の美術教育長であるゴードンフォーサイスが学長をつとめている
アートスクールの夜間部へ通うことを勧めました。
家業手伝いの傍ら、アートスクールへ通うようになったスージーは
17歳の頃には奨学金を受けられるようになり昼間部に転入。
ファッション業界を目指していたスージーは
ロンドンのロイヤルアートオブカレッジへの入学を志望していましたが
彼女が関連業界で働いたことが無かったことから
入学の申し出は拒否されてしまいました。
それを知ったゴードンフォーサイスは
大学入学への条件を満たすためにも
地元の陶器メーカーであるグレイ社で働くべきだと提案しました。
グレイ社でペインターとして働きだしたスージーは
すぐに、ただのペインターではなくデザイナーとして抜擢されます。
当時流行っていた女性デザイナーが
自身の作品にサインを入れていたのを真似して、
スージーがデザインした商品には『DESIGNED BY SUSIE COOPER』
の文字が入れられることになりました。
もちろんスージーの商品は大人気となったのでした。
そしてスージーは若くして独立するのです。
~スージークーパー ~憧れの英国カントリースタイル~2 ~
へ続く