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楽天中古販売 高級食器に人間国宝作品 【くらしのくら】 

~洋食器・和食器・クリスタルグラス 憧れの商品を手の届く価格で販売中~ 

和ものの記事が続きましたが、今回はうって変わって

先日入荷したアンティークのシルバーカトラリーについてです。

 

マッピン&ウェッブ 1930年代 白蝶貝 デザート ナイフ フォーク 全12本セット 44,280円

 

アンティーク 1899年 Josiah Williams & Co スプーン 6本 シュガートングセット 36,720円

 

どちらも細やかな装飾にとても雰囲気があって素敵です。

 

 

まずシルバーカトラリーで気になるのは、

それがスターリングシルバー(純銀)製のものか

 

シルバープレート(銀メッキ加工)のものかという点。

※マッピン&ウェッブのプリンセスプレートは品質の高いシルバープレート

 

ご存知の方も多いかもしれませんが、

各国の純銀製カトラリーにはスターリングやホールマークが刻印されています。

一番有名なのは英国製のものでしょうか。

 

 

~スターリングシルバー 925~

 

理解しておかないと混乱するのは、

純銀製と一口に言っても、その成分構成は100%の銀ではなくても

銀の含有量が92.5%以上であれば構わないということ。

銀100%でアクセサリーやカトラリーを作っても柔らかすぎて不向きなのです。

純銀といっても銅や他の金属を混ぜて強度を上げることが認められており、

(特にイギリスでは)銀の含有量が92.5%以上のものを

純銀(スターリングシルバー)と謳ってよいことになっています。

 

他の国では銀の含有量が80%以上のものにもホールマーク刻印がある場合があり、925(92.5%)のほかに900(90%)や825(82.5%)、800(80%)と

銀の含有量に関する数字の刻印がされていたりします。

イギリス製でも銀の含有量が92.5%以下のものには同じように数字の刻印があることも。

 

92.5%以下にもホールマークを刻印する国の製品で、

含有量刻印がないものは特に注意です。

(個人利用でどうしても純銀製のものだけ集めたいという方でなければ、

そこまで気にすることはないのですけどね。

販売となると、純銀でないものを純銀とうたう事はできないので…)

国によってはデタラメにスターリングや数字の表記があるものもあります。

ここまでくると、輝きや重さ、質感を頼りに自分を信じて判断するしかありません(笑)

 

~スターリングシルバーとホールマーク~

またこちらも関係性を理解しにくいのがスターリングとホールマーク。

イギリス国内で先に定められていたのは

銀92.5%以上+銅7.5%以下の合金をスターリングシルバーとすることですが、

その信憑性を確保するために新たに刻印されるようになったのが

ホールマーク(と後に呼ばれることになった)刻印です。

※ホールマークは国によってマークが変わるので、

イギリス以外だと他のマークが刻印されています。

 

もともと銀貨として使用されていたスターリングシルバーですが、

13世紀エドワード1世は、自国の銀貨と他国の質の悪い銀貨が混ざることを嫌い、

銀貨の国外輸出を禁止します。

それでも密輸が絶えなかったため、

銀貨にヒョウの顔の刻印(=ホールマークの元となるマーク)を押すことに。

無事イギリス銀貨は他国の銀貨と混ざることなく92.5%の銀の含有量を保ちました。

 

以降、銀を溶かして新しく成型したものは加工メーカー内の審査を受け、

銀の含有量が92.5%以上であったものには改めてマークを刻印。

銀貨を器にしても、器が銀貨になってもマークがある限り含有量92.5%は保障されます。

 

※ちなみにヨーロッパの蚤の市などで売られているアンティークのシルバー製品でも、

一度溶かしたり変形させたりしたあとに、

再度刻印がされていないものは販売が禁止されているようです。

真偽のほどはわかりませんが、

シルバーの品質を保つために厳しい規制があることが分かります。

 

14世紀半ばになると、悪質なメーカーが偽のホールマークを刻印するように。

今度はヒョウの顔に加え、各メーカーのメーカーズマークの刻印も義務付けられます。

一番左のマークがメーカズマーク。Charles Stuart Harris社のマーク。

 

一番上のアルファベットが4つ並んだマークがメーカーズマークです。

ここではしかもメーカーズマークを持つことが許されたのは認可を受けたメーカーのみ。

それ以外はシルバー製品を販売してはいけないということ。厳しいですね…

15世紀、メーカーズマークの制度が浸透してくると、偽の刻印はなくなったものの、

メーカー内で銀の純度が低いものでも刻印を押してしまうという

審査員の汚職が広まりました。

ついに各社での審査は信用されなくなり、

メーカーが集まるの集会所(=Goldsmiths’ Hall /ゴールドスミスとは銀加工メーカーのこと)

で監視をされながらの審査が行われることに。

ホールで刻印が押されるのでホールマークと呼ばれることになりました。

 

~少し長くなるのでその2へつづく~

戦争がおわってから、金城さんが39歳のとき1951年に、

東京渋谷東横百貨店で日本民藝協会主催の『第一回琉球民藝展』が開かれます。

国内で唯一戦場となった琉球のちの再興を図る意をこめて、

壷屋焼をはじめとした沖縄の伝統工芸品が展示されます。

 

金城次郎作 魚海老文 抱瓶 183,600円

 

その中でも金城さんの作品の見事が評価され、

展覧会は回を重ねるごとに大評判となっていくのです。

これは沖縄の陶工にとっても東京進出の大きなきっかけとなります。

 

前述の濱田庄司は金城さんと顔を合わせるたびに決まって

『東京に来ても東京を見るな、内地の焼き物の真似はするな』といって、

金城さんもそれを強く守っていました。

濱田庄司は自身が人間国宝に認定された際にも

『私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った』

といっており、前述の新垣栄徳の窯に通って陶作に没頭したとおり

沖縄陶器のありのままの良さを大いに評価していたことが伺えます。

 

 

順調に国展や民藝館賞などの受賞を重ねていた金城さんでしたが

60歳になったころ、壷屋の登り窯から出る煙が公害問題となってしまいます。

他の地域でも公害が問題となっていた流れもあり、

細かな調査よりも規制が先と、壷屋ではすべてがガス窯に切り替えられることとなり、

金城さんは読谷村へ引っ越します。

 

「電気やガスの窯に変えると家の中はきれいだけど、ぬくもりが足りない。

窯の煙がないとむしろ寒い」といった金城さん。

なんでも自然がいいと言い登り窯を好んでいて、

焼き物も登り窯でないとツヤが出すぎて温かみが消えるといいます。

 

引っ越した先は近くに米軍の爆弾処理場がある荒涼とした土地でしたが、

土や蒔が手に入るということで移転を決めてすぐに登り窯の設置にとりかかり、

周囲にはかつての壷屋のように琉球松やガジュマルなどを植えていきました。

その頃には金城さんは沖縄県の重要無形文化財として認定されるようになります。

 

 

それからまだ2年ほどしか経っていない1974年、

日米共同使用となった爆弾処理場での作業ミスにより、

登り窯の屋根が破壊するような事故が重なります。

修復で陶作はできるようになりましたが、これがきっかけか

この時から金城さんはいっそう、不眠不休で陶作に打ち込み、

展覧会や即売会へ精力的に参加するようになります。

 

労働大臣より卓越技能章を受章した翌年の1978年、

長年の付き合いだった濱田庄司が亡くなり、

金城さんも脳血栓で倒れて一命は取り留めたもの右半身が不自由になります。

それでも翌年にはろくろを少しずつ回して陶作をしていました。

 

1981年勲六等瑞宝章を受章、

1985年金城さんが73歳のときに人間国宝に認定されます。

が当の本人は

『陶芸家ではなく単なる陶工。指定を受けようが受けまいが、

ぼくはぼく。先生と呼ばれるのが一番嫌いだ。』

とのこしており、認定にはあまり構っていないようです。

 

そういうところを気にしない性質というのが

本当に生きいきとした焼き物で人々を感動させる、金城さんの良さなのかもしれませんね。

 

 

1997年には、実は引退をしていたことが明らかに。

そして2004年に亡くなっています。

 

金城さんの作品は、骨董やさんやギャラリーなどに行かないと

お目にかかることは出来なさそうですが

是非一度、その生命力を間近でご覧になってくださいませ。

 

 

金城次郎作 海老文 抱瓶 75,600円 ※小さめです

 

人間国宝 富本憲吉 色絵五弁花 帯留め 128,000円

 

人間国宝 島岡達三 象嵌蓋物 75,600円

 

 

 

ここからは金城さんが柳宗悦らに出会ってからのお話。

金城さんが27歳くらいのころです。

 

彼らが沖縄を訪れた目的のうちひとつは、

新婚旅行の際に濱田庄司が長く滞在し陶作に励んだという

壷屋の新垣栄徳の窯を訪れることでした。

 

そして実は金城さん、若いうちから本土の金沢や瀬戸、京都で修行を積んだあと

当時沖縄で名の知られていた、この新垣栄徳に師事しており

濱田庄司が滞在していた際も

金城さんがそばでお手伝いをして、家族ぐるみで付き合いがあったのです。

 

濱田庄司 黒釉指描扁壷 302,400円

 

濱田友緒 柿釉赤絵豆形扁壺

お孫さんの濱田友緒さんの作品も素敵です

※現在すでに販売済み

 

金城さんは後に益子の濱田庄司窯を訪れ、弟子たちと長机に並んで食事をするのを見て、

「ふつう窯場ではそんな習慣ないんだれど、

そんな先生だったから気さくな付き合いをさせてもらったのだ」と語っています。

柳宗悦はとにかく真面目でいつも微笑んで話す方、

河井寛次郎は懐かしい話をするとすぐに涙ぐむ涙もろい方だったそう。

 

その後、雑誌『工藝』では金城さんの作品が紹介され、

河井寛次郎にはろくろや模様を描いたり彫ったりと陶器の仕事でできないことは無い、

素晴らしい職人と称されています。

 

濱田庄司に、笑った魚を描くといわれた線彫りの模様は

「笑っているという人も、泣いているという人も、怒って見えるという人もいる」

「ときには何という魚かと聞く人もいる」が名前はなくて、ただの「沖縄の魚」だそう。

写実的なものではなく、気の向くままに模様として描いているとのこと。

 

私をふくめ、

模様として描いた写実的ではない魚の躍動感、に感動する

というのは不思議でおもしろいですよね。

 

線彫りの技法は手間がかかるもので

元々赤い沖縄の土に白い化粧土をかけ、

それが彫るのにちょうどよい固さになったときに彫って、

その上に色を差し、またうわぐすりをかけるのだそう。

サッと勢い良く引いた「生きた線」は

定規で引くよりもまっすぐに、円もまんまるく見えるという。

道具もご自身で作っていて、

線彫りもはじめは竹の先を削って使っていたそうですが

思うように線が出ず、針金を丸く曲げて使うようにしたそう。

「ずうっと勉強」なので工夫を重ねながら方法も変えつづけていたそうです。

 

魚以外の模様についても、色々練習をかさねたそうで

本を買うお金がなかった頃は図書館から借りた本で

新聞紙などに筆で絵を描いたそう。

中でも李朝の焼き物が好きでよく研究したとか。

包装紙の模様でもいいと思ったものは書きとめておいて

それを寝る前に色んな紙に書いて練習していたとか。

 

 

話は戻って、濱田庄司や柳宗悦らが来沖したのち、

雑誌『工藝』では金城さんの作品が紹介されるようになります。

 

ですが同時に第二次世界大戦の時代へと突入。

沖縄も戦場と化し、壷屋は軍需工場として軍用の食器などを作るようになります。

このとき金城さんは炎天下の中で右目を失明しており、

その後視力が回復することはなく片目で陶作を続けることになります。

 

~長くなるのでその3へ~

 

この方も根強い人気のある九谷焼・須田菁華窯。

初代・須田菁華は明治時代の人で現在は4代目。

 

初代菁華は中国の做古作品を得意としており、とりわけ染付が得意でした。

菁華の名は、かつて中国では染付のことを「青花(菁華)」

といっていたことが由来となっています。

 

須田菁華 染付雲鶴文皿 12,420円 

※以下写真は初代のものではございません

 

初代菁華は若い頃、東京帝国博物館で古画の模写に従事し、

独立前は九谷の陶器会社の画工長をしていまいした。

 

独立後は九谷、明代の古染付、交趾、色絵祥瑞、吸坂手、呉須赤絵、色鍋島、

染付、万暦赤絵、古伊万里など広くに渡り写しの作品を残しており、

その技術は本物に引けをとらない、精緻で素晴らしいものだったといわれています。

 

菁華の写しの技術の高さとともにそのユニークさを伝えるエピソードとして、

写しの原本である鉢が、虫食いで表面の釉薬と素地がうまく接着していなかった際

そのまま虫食いの様子ごと再現してみせたという話があります。

 

〈金継ぎあり〉 須田菁華 吹墨双魚文皿 13,500円

(当店では敢えて金継ぎのあるお品も取り扱っています。

初代菁華が虫食いごと鉢を再現してみせたように

素晴らしいお品ものというのは少し割れたりヒビが入っただけでは

その良さはいきなり損なわれたりするものではないと思うのです。

金継ぎをして大切に使ってきた持ち主のことを思えば

ちょっとした味わいと思うのも悪くありません。

その代わり少しおトクに手に入りますから。

やはり作り手の顔を想像すると、簡単に捨ててしまうのは悲しいですからね)

 

余談ではありますが、現代でこそ模倣品というのは正規品に劣るコピー

というイメージがありますが、菁華のつくった做古作品が評価されていたように、

ヨーロッパの陶磁器でも模倣品をつくる技術の高さは非常に評価されていました。

今でこそ有名なヘレンドも実は、マイセンの写実的な動物の絵付けを、

同じように模倣出来るということで評価されるようになったのです。

 

ヘレンド ロスチャイルドバード サラダボウル 12,960円

(このロスチャイルドバードが評価されたのはマイセンの鳥絵柄作品の

非常に忠実な写しであったからだそうです)

 

話は戻って、初代菁華は北大路 魯山人が陶芸の手ほどきを受けた人物としても知られています。

まだ無名で若かった魯山人は北陸を旅して山代温泉を訪れた際に

その才能を見初められ、地元の旦那衆は温泉街のたくさんの看板や書画を注文することで

魯山人の生活を支えました。旦那衆とは毎日のように美術談義を交わし、

菁華ともその中で出会っています。

 

今でも魯山人が製作した看板は菁華窯の入口を飾っており、

当時その看板の出来の良さに驚いた菁華は窯への出入りを許し、

魯山人はそこではじめて絵付けを体験し陶芸に魅せられ、

一年ほどを山代温泉で過ごしました。

菁華は魯山人に、赤絵、染付、交趾、伊羅保などあらゆる技を教え、

それは後に魯山人の陶作の基礎となったのでした。

 

須田菁華 呉州赤絵赤玉文 急須 28,080円

 

のちに魯山人が東京・赤坂に開いた会員制高級料亭「星岡茶寮」では

魯山人自作の器で料理を出していましたが、

北鎌倉にある魯山人の星岡窯には、菁華から器の白生地が送られていたそうです。

 

気難しく頑固だったことがたたり

ついには「星岡茶寮」を追い出されてしまった魯山人でしたが、

初代菁華の弔辞には

『翁は実に、当代磁器界における第一の異才なり。

美しくして浮華ならず、渋くして枯淡ならず、才あり、情あり、気あり、

而も識高く優に一家の風格を備えたる方に天下独歩の観あり…』

と送ったそう。

菁華の陶作の腕も、人柄もとても評価していたのですね。

 

3代目青華は1981年に亡くなっており

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」

とのこしており、用の美に徹するストイックさを感じます。

 

そのあとを継ぐ4代目の菁華さんは、

古九谷が発祥した江戸前期からの古い絵柄を参考にしつつも、

新しいデザインを多く作り出しています。

 

「向付にお造りはもちろん、

和え物やアイスクリームを盛って楽しんでいただく。

日常の器として手にとり、和洋を問わず今の時代の自由な感覚で、

使っていただきたいのです」とも語っていて、

 

その時代ごとの食にぴったり寄り添っていくというのは

おもしろいことに、一見3代目とは真反対のようにも思えますが、

どちらも異なる方向から『用の美』を追究している結果なのです。

 

 

須田菁華 花小文網手向付け  11,880円

 

 

4代目の

「日常で使う手工芸をつくることを念頭に、

器ばかりが立派で、気にかかるのは本意ではない」

「上手・下手ではなく、その人の人生がどこまで出てくるか、

ここに金彩を入れたら高く売れると考えると下品になる。

そうでない器は品があって生き生きとした元気がある」

 

という言葉。人柄が作品に表れてくるという話は、

なんだか魯山人の弔辞にもつながるところがありますね。

 

個人的にもとても好きな作家さんでありますが、

"気の利いた"という言葉がぴったりの菁華さんの器は

もちろん、あたたかみのある手仕事でしか作られないものではありますが

なんといっても菁華さんの人柄がその良さに表れているのでしょう。

 

ちょっと値の張る品々ではございますが、

みなさまも是非お手にとってその良さを体感してみてくださいませ。

 

はじめまして、東京深沢のアンティーク・ヴィンテージショップ

『くらしのくら』のネット担当スタッフTです。

このブログでは、この店で出会った様々なお品ものを少し掘り下げて、

私感も多少まじえてご紹介していきたいと思います。

 

楽天市場内にもくらしのくら店舗がございますので、

そちらも見ていただけるとおもしろいかもしれません。

 

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さっそくですが、くらしのくらでは洋食器や和食器、

ワレモノ以外にも様々なものに触れる機会があります。

ですがやはり記念すべきはじめの記事は、今まで出会ったなかで

圧倒的にいきいきしていた、金城次郎さんの作品についてお話したいと思います。

 

人間国宝 金城次郎作 壷屋焼 魚文花瓶【中古】

 

みなさんは、人間国宝【金城次郎】をご存知ですか?

タイトルのヤチムンチュクヤーとは焼き物の作り手のこと。

 

民藝に関心がある方にはお馴染みかもしれませんが、

民藝はもちろん和食器の知識がまったく無かった私は、

くらしのくらではじめて出会った氏の作品が、かなり衝撃的、

というのが正しいのか分かりませんが、とにかくその作品にあふれる

「生命力」や「力づよさ」をとても魅力的に感じました。

 

実は彼は少し前までご存命で、

2004年に享年92歳で惜しまれながらもこの世を去っていきました。

 

つい先日も金城さんの作品が入荷されてきたのですが、

小さな花瓶の中には彼を取り上げた新聞記事がいくつか入っており、

一緒に細長く金城さんの命日の新聞の日付の部分だけを切り取ったものも入っていました。数日後に掲載された追悼記事も。

持ち主の方とわたしは顔を合わせることはありませんが、

畏れ多くも金城さんの作品に惹かれる者同士、

とても花瓶を大事にしていたのだろうと思いました。

どのお品も貴重なものなので、ご縁がないとお求めになれないうえ、

そもそも容易に手が出せる金額ではございません…。

やっと手に入れることができた憧れの作品を、

お手元で大切にしてきたのではないでしょうか。

 

話は戻って、金城さんが生まれたのは沖縄県那覇市、

といっても路地をひとつ挟んだ隣は壷屋。

お父さんは窯場で雇われ土を踏む仕事や雑役をしていたため、

子供の金城さんにはそれを続けさせたくないという思いで、

焼き物作りを覚えなさいと教えられていたそう。

金城さん自身も一生懸命焼き物作りの仕事を覚えようと、

先輩がろくろを使わない時間を見つけては遅くまで練習をしていたようです。つくることが腕を磨くこと、作り方や技術は教えてもらえるものではないので自分から覚えていかないと、と。

お子さんも焼き物作りにたずさわる様になってからは、

お子さんたちがつくるものをよく見ることには徹しますが、

敢えて金城さんから教えることはなかったそう。

 

この壷屋という地域は江戸時代(沖縄県になる前、まだ琉球王国だった時代)から、琉球随一の大きな窯場で、壷屋焼とよばれるやきもの(琉球方言でヤチムン)が作られてきました。

ちなみに彼の作品で目にする「抱瓶(だちびん)」ですが、

当時の琉球使節が江戸に上り将軍や幕府へ泡盛を壷屋焼に入れて献上していたそうですから、それがそのまま抱瓶として伝わったのでしょう。

その後、有田焼などの安価な陶磁器が入ってくるようになると、壷屋焼は低迷期を迎えます。

 

人間国宝 金城次郎作 壷屋焼 魚海老文 抱瓶(だちびん)

 

~中略~

 

壷屋焼が有田焼に取って代わられるようになってから50年ほど経ち、

1930年代も終わりの頃、壷屋焼はご存知、

民藝運動を率いた柳宗悦らによって再興されることになります。

柳宗悦は濱田庄司とともに、追って河井寛次郎らも沖縄を訪れました。

 

と、とっても中途半端なところではありますが

ちょっと疲れてしまったので続きはまた今度。お楽しみに(笑)

 

次回もどうぞよろしくお願いします~!