倉山満『保守とネトウヨの近現代史』(扶桑社新書 2020年)読了。
塾長の新刊である。
いつもは読んでいて気になった箇所を中心に感想を述べていっているが、今回は特に気になった箇所について述べるのではなく、本書を読み終えて思ったこと・考えたことなどを述べていこうと思う。
本書を読んでまず思ったのは、塾長がこれまでの著書でも度々述べている上下左右の四分割の話である。
これで最近特に強く思うのは、左右を問わず「下」の人達というのは、自分達の主義・主張“だけ”が正しい、唯一の正解だと信じ込んでおり、自分の頭で考えるということをせず、耳障りのいいことだけを聞き、それ以外の主張や意見には耳を貸さず、思考停止している人達なのだ、ということだ。
皮肉が効いているようだが、
「保守」「ネトウヨ」というのは、無垢な人たちなのである。(p204)
とは、こういうことなのであろうか。
それともう一つ。
「「自分の言いたいことを言って飯が食えるなら、それでありがたい」なのである。「自分の言論によって社会を善導しよう」などと使命感で言論を行っている者など、ごく少数である。」(p168)
「左派言論全盛期に、社会で逼塞して生きるのに精いっぱいだった「保守」が、世の中を良くしようなどと考えるはずがない」(p169)
昔の自分は、このような連中の言説を鵜呑みにして信じていた。
何と愚かなことであったか。
「この人達は“いいこと”を言っているのに、何故一向に世の中が良くならないのだろうか。」
と思い、半ば「日本は永遠にこのままなのだろう」などと思い、自暴自棄になっていた時期もあった。
本当は自分たちが本気で学び、行動を起こせば世の中を変えることは決して不可能なことではないのに。
しかし、「保守」言論人の言うことを信じていた私は、何かおかしいと漠然とどこかで思いつつも、そこまで思い至ることはなかった。
今の自分があるためには、「保守」「ネトウヨ」の言説に塗れているという期間も必要だったといえばそれまでだが、やはりもっと早く気づきたかった…。
さて、かような人達に常識など通じるはずもない。
また、自分の頭で考えるということをしないということは、本を読んだりして自分の見識を高めようなどとは思わないのであろう。
とすれば、当然教養などあるはずもない。
このような人達に、勝谷誠彦さんが言ったように、
「保守とは教養である」
などと言っても何も感じないことであろう。
なにせ、教養など持ち合わせているような人達ではないのだから…
皇室と国民の絆(=国体)を守るという精神=保守
ということが本文にもあったが、
皇室と国民の絆を守るためにはどうすればいいか、ということを考えるときには、当然教養や常識というものも必要になるだろう。
しかし、「保守」「ネトウヨ」は、自分がただ気持ちよくなりたいだけ、自分の言いたいことを言うだけでおまんまを食っていけるのなら、それでいいというような連中である。
教養を身につけようとか、見識を深めようとか、常識を大事にしようとか、思うわけがない。本気で世の中を良くしようなどと考え、行動するわけがないのだ。
生活する上でほとんど特にはならないでしょうから。
全くもって卑怯な連中である。
口では「保守」と言いながら、その実皇室に対して弓を引く言動をする。
聖書ではないが、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
とでも言いたくなる。
やはり「保守」「ネトウヨ」とは、「下」の人達なのだなぁ…
ということを、本書を読んで改めて再確認することができた。
一人でも多くの人を、このような人間にしないようにしなければならない。
そう思った。