竹本知行『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制―大村益次郎とその継承者』(思文閣出版 2014年)読了。
幕末・維新で軍事を学ぼうと思えば必ず登場するのが大村益次郎である。
これまで大村益次郎についてはきちんと調べたことがなかったので、よく知らなかった。
しかし、日本の軍制を学ぶためには大村を知らねばならない。
ということで、タイトルも知りたいテーマにピッタリな本書を読んだ。
さて、本書の感想を若干書いていく。
本書を読んでの大村のイメージは、軍隊の実際の運用よりも、軍の編制というところが得意な分野であった。つまり、軍令ではなく軍政の方が得意だった人物なのだな、というものである。
人により意見が異なるかと思うが、大村の戦略・戦術は必ずしも成功したとは言えないものもある。
戦術的には、第二次幕長戦争での芸州口での戦いである。
石州口では大村自身が直接指揮を執ったこともあり鮮やかな勝利を収めている。しかし、芸州口では、彦根・高田藩兵にこそ完勝したが、長州藩と同じように西洋兵学を修めた紀州藩兵と幕府歩兵隊には大村の戦術が思うように通じなかった。
また、本書では書かれていないが、戊辰戦争における大村の戦争指導にも疑問が残る。
金子常規『図解詳説 幕末・戊辰戦争』(中公文庫 2017年)では、上野戦争や会津戦争においての大村の作戦構想を痛烈に批判している。
要は、正確な情勢分析をして判断すれば、上野も会津・北越ももっと早くカタがついたのではないか、ということを述べている。
金子氏の著書を確認していただければと思うので詳細は割愛するが、いずれにしてもこれらのことから、必ずしも現場で指揮を執るといったことが得意ではなかったような印象を受けた。
しかし、軍令面は多少不得手な面もあったろうが、軍政面は非凡なものがあった。このあたりは、さすがに学者であると思わされる。
さてその軍政面であるが、本書でとりわけ興味深かったのは、兵制の問題である。
大村は、仏式の兵制を志向していた。
これは、仏式は幕府がフランスから軍事顧問団を招聘して本格的な伝習が行われていたから、あるいは長州藩が明治元年から兵式を蘭式から仏式に変更したなど、長州藩の動向が大村の志向に影響を与えた、などの面が強調されがちである。
しかし、大村は「薩長土肥といった戦功著しい諸藩の意向に政府の方針が左右される「尾大の弊」は断固として断ち切られるべき(p117)」であるということを、自らの建軍構想をまとめた『朝廷之兵制永敏愚按』に書いている。
よって、大村が長州藩の意向や幕府が仏式を導入していたから、というような実利主義的な理由によって仏式を推していたというのは、少し無理がある解釈ではないか、と著者は言う。
では大村が仏式を推す積極的な理由とは何か。
仏式の兵制の特徴は、「体力的に丈夫な兵士を養成しておくことを前提とする、本格的な「軽歩兵」の訓練法(p118)」である。
とすれば、仏式の調練においては、兵士の評価は体力や体操の技量に重点が置かれる。
江戸時代を通して「武士階級は戦闘集団から政治エリート集団へと変質していた(p119)」のであり、武士に兵士の訓練を施そうと、その型にはめ込むのは無理があったのである。
この点で、仏式の導入は武士の「軍務専行主義」を否定し、徴兵制による軍隊の建設につながるものであった。
このことから、大村は将来「農兵を募る」ことを念頭に仏式の採用にこだわった、と見るべきなのではないか、ということである。
これはなかなか説得力のある見方なのではないか、と思った。
変に政局などを考えず、純粋に将来のことをしっかりと見据え、理想の軍隊を建設しようと邁進したあたり、戊辰戦争の仇とはいえ、同じく軍制に関心のあるものとしては尊敬に値する。
この他にも、旧征討軍を一旦解散させた上で新たな兵制を確立することを主張した大村と、それに対して旧征討軍をもって建軍すべきと主張した大久保利通の対立、大村の遺訓を受け継いで実現していくことになる山田顕義の話など、まだまだ本書は見どころが多いが、ここではまとめきれないので、とりあえずこの辺で筆を擱くことにする(もっとしっかり読み込んでの感想などは、いずれ別に書くことにしたい)。
最後に。
単純にとても内容が面白いのに加え、今後の研究のためにも非常に参考になる本なので、繰り返し読まねばならない。
いずれにしても、今まで知らなかったことを知ることができた上、非常に勉強になった一冊であった。