倉山満『検証 検察庁の近現代史』(光文社新書 2018年)再読。
前回読んでからだいぶ経ってしまっていたが、「黒川騒動」もあり、いい機会と思い再度読み直した。
読み直して、改めて政治による検察への介入など日常茶飯事であることがよくわかった。
また、政治家の汚職もさることながら、検察のやることもかなり問題が多い(尊属殺重罰規定違憲判決を受けての法解釈の誤り、ロッキード事件における「暗黒裁判」、村木事件における証拠の捏造と隠滅、田母神事件、などなど)ということもよくわかった。
明治以降に起こった重大な事件の概要も分かるので、とても興味深く読むことができるのだが、本書で大事だと思ったのは、やはり「おわりに」での倉山先生の記述である。以下、少し長いが引用する。
「近年特に強調しているのが、「人間の評価に百点も零点も無い」「組織ではなく個人で評価せよ」である。「財務省」「日本銀行」などという人間はいない。いかなる場合も、そこに所属する人間により、組織の意思は決まる。
検察庁もまた、然り。」(p361)
「検察は正義を実現する組織だ。善悪が価値観だ。そもそも社会は経済活動で出来上がっている。損得で動く。その中で許せない悪をえぐりだし、裁判にかける。ただし、あらゆる悪を摘発しては、社会は動かない。自らの正義をふりかざして暴走することを、昔は「検察ファッショ」と呼んだ。かといって、「お目こぼし」は巨悪を眠らせる。
検察は宿命的に、どこまでも矛盾の存在なのだ。この意味で、大きな正義を実現できないのはやむを得ない。
だからこそ、小さな正義をかなぐり捨てて、何の存在価値があろうや。個々の事件と向き合うことこそが、小さな正義である。」(p362~363)
「弱者を泣き寝入りさせない、悪を逃さない、そして過ちは改める。」(p364)
検察官も国民が納めた税金で飯を食っているのだから、そして国民に最も密着した権力である司法権を実質的に握っているのだから、小さな正義を実現し、国民のためにしっかりと働いてもらわなければならない。
大きな正義を実現すれば、確かに国民から喝采を浴びることもあるだろうし、自分たちの「実績」となるだろう。しかし、庶民には大きな疑獄事件などは感覚的に「雲の上の話」だろう。むしろ、庶民に身近な個々の事件に真摯に向き合い、解決することで小さな正義を実現するということを積み重ねないと、国民からの信頼を得ることができないのではないか。
そして、検察官が国民のためになるように働くように、我々国民がもっと賢くなって検察の動きをしっかり見ていくということも大事になってくるだろう。