一人暮らしを始めて早幾年。

寝てるだけで出てくるご飯も、

脱ぎ散らかしただけで洗濯されている靴下も、

勝手に沸いてるお風呂も、

食休みの間に消えてる食器も遠く昔の記憶である。

 

思えば子供というのはなんと贅沢なものであろうか。

親とはなんとも甲斐甲斐しい生き物であろうか。

 

私はそんなことができるだろうかと、

この冬の寒空を眺めて思うのである。

 

まあ良いか。

 

さて、家事というのはとかくクリエイティブさに欠けるというのはどこかで聞いた話である。

洗濯も掃除も洗い物も、全てはマイナスを0に戻す行為であり、

0から1を作る行為ではない。

家事の中で唯一クリエイティブなのが料理なのである。

 

それだけあってやはり、料理というのは楽しい。

私もそこそこ料理を好いている…とはいえ趣味としての料理であるが。

 

料理には2種類あるというのが、私の論であり、

献立を考え、家計を考慮し、その中で最高の美味しいものを作る“生活としての料理”

もう1つが、コスト度外視、調理時間度外視、とにかく食べたい作りたいものを作る“趣味としての料理”である。

前者は女性の方が上手であり、後者は男性に多い印象が強い。

そして私は御多分に洩れず後者である。

 

私に言わせればどんな料理も店で食べた方がコスパがいい。

当たり前である。

 

大量発注ゆえに食材1つに対するコストは当たり前のように低くなり、

訓練された料理人や洗礼されたレシピ、家庭用ではない調理設備によって、

家庭ではおおよそ再現不可能な味になる。

クオリティを加味するのであれば、断然店の方がいいのだ。

 

材料費だけをリストアップして原価率だのコスパだの宣っている人間は、

己の視野の狭さと狭量さ、味覚の貧しさを恥じて舌を噛み切るとよい。

いくら安くても素人とプロでは埋められない差というものがある。

 

さて、手作り至上主義に対するアンチテーゼというか、

もはやただの言いがかりを声高らかに宣言したところで、

本校の趣旨である。

 

私はだとした上で、飯を作ることを勧めるのである。

それがなぜか?

1つには店ではなかなか食えないものが、この現代においてもあるからである。

例えば私が愛してやまないブラジル料理。

小学生の折、友人のホームパーティで食べたあのフェジョアーダが、

中学生の折、先輩の誕生会で食べたあのコシーニャが、

高校生の折、地元の祭りで食べたあのパステウが、

また…食べたいのである。

いや、どんだけブラジルにゆかりのある幼少時代過ごしてるんだ私は。

 

銀座にシュラスコを食わせてくれる店はあれど、

おいそれと銀座に行って良い風貌をしているわけではなく、

また、そんな店にひょいひょい行っていたら破産は免れない。

 

ここで手作りである。

家飯である。

 

食べたいものを食べたいだけ作るとよろしい。

それが家飯の魅力である。

苦手なものは入れなくていい。

しかも、店ではできないような“下品”ができるのである。

 

家で作るハンバーグ。

お店なら玉ねぎやつなぎなんかを使って、

牛100%だったとしても肉が100%なわけではないものが出てくるだろう…。

しかし、家飯は違う。

あなたが料理長なのだ。

 

牛肉を荒く刻んで、つなぎは一切なし!

胡椒とクミンをたっぷり入れた、ジューシーでスパイシーなハンバーグが作れる!

もちろんつなぎが無いので、形は崩れやすい!

しかし食べるのはあなただけなのである!

誰が見た目を気にしようか!

 

皿のソースを舐めたって怒られない!

冷や飯に味噌汁をぶっかけて食っても引かれない!

レタスやトマトが入っていない品性下劣なハンバーガーを作っても、

誰からも咎められないのである!!

 

餃子の中身を肉多めにしちゃおう!

生春巻きを切らずに一本食いしてしまおう!

ポテトサラダにリンゴ入れ放題、

酢豚にパイナップルだって入れ放題だ!

だし巻き卵は味の素と醤油でうんと塩辛く!

釜玉うどんに七味唐辛子をひっくり返したって、

ここではあなたが正義である!

 

誰に作るわけでもない。

お前のお前によるお前のための飯を作ってみるのは案外楽しいものだ。