どうも、私である。
引きこもり大帝こと私である。
私の引きこもり力というのはそれはそれは特筆に価する。
とかく必要な用事がなければ家から出ないのはもちろんであるし、
なんなら必要な用事があっても家から出ないこともしばしばである。
家の中をいかに快適にするかを人生の主眼に置いており、
空気清浄機、加湿器、除湿機、電気ストーブ、扇風機、エアコン、換気扇が
それぞれの季節に合わせて絶えずくるくる回っている。
食料備蓄は密林からダンボールで直接届き、
玄関で最低限の受け渡しをするだけで人生を謳歌している。
孤独に対する強い耐性を持ち、
太陽の光を浴びずとも
オタクカルチャーを浴びることでセロトニンを活性化させることに成功した私にとって、
もはや外界は危険なだけでメリットを見出すことの方が難しい環境になってきた。
世界が緊急時代宣言でロックダウンで蔓延防止策で騒ぎだして2年が経過するが、
ここに至るまで特に生活に変化はなかった。
むしろ、外に出て運動して健康になって、休日は友人とショッピングに興じるべきという、
マジョリティー的圧力がなくなったことによって、
私が世間からなんとなく受けていた抑圧的な感情が解放され、
それまでカースト上位を占めていたアクティブな人間に対してはほくそ笑んでみたものだ。
頭を垂れて引きこもり方の教えを請うなら教えてやってやらんでもない。
我こそは引きこもり大帝。
外界に通じぬ部屋の中をいかに楽しむかを20と数年突き詰めた引きこもりの王なり。
そう大ボラを吹いていた私も徐々に最近翳りが見えてきた。
食えないのである。
好きなものを好きな時に食う。
これができることが幸せであるというのは、
どこぞのとんかつ定食理論が示す通りである。
私もそれくらいの生活はできているつもりであったし、
こここそが私の人生におけるまあまあな回答であると信じてきた。
しかしどうだろうか、今の有様は。
私はここ数年回る寿司屋に行けていない、
焼肉屋で肉も焼いて居ないのである。
飲食店がすぐに閉まってしまうが故に、
帰りに一人で食べに行くのができないのである。
こうなってくると話は別である。
好きなものを帰りに食べられるからこそ私は今まで外出という、
頼まれなければやらないようなことをしてきたのだ。
というより、素直に寿司が食いたい。
もちろん、宅配や持ち帰りでもいい。
だが、リソースがほぼ無限である店内と有限である持ち帰りでは話が違う。
例えば、回転寿司に行く。
私はエンゲル係数が低い家庭に生まれたのでサーモンを美味しく感じる貧乏舌だ。
当然サーモン、焼きサーモン、とろサーモンなどを一通り食べる。
一周した後にまた食べたくなれば好きな時にサーモンの皿を取るし、
一方でこんな値段で食べていいのかカニミソなんて軍艦も食べてしまう。
油の乗ったエンガワなんかもつけて醤油皿に油を浮かべほくそ笑んだりもする。
苦手なマグロの赤身は食べなくていいし、
親の仇こと甘い卵焼きを口にする必要もない。
「食べたくない」は「食べなくていい」し
「もっと食べたい」は「もっと食べられる」
それが店に行くメリットである。
一方、持ち帰りや宅配の寿司といえば
猫も杓子もセット販売である。
サーモンは一貫しかついてこないし、炙りやとろサーモンには対応してくれない。
食べたくもないマグロ赤身や甘い卵焼きも強引に押し付けてくるし、
かにみそ軍艦なんてつけちゃくれない。
それにまだ食べられるからあとちょっとなんてことも許してくれないのである。
これ美味しかったからもう一個ができない回転寿司になんの意義があろうか。
そもそも宅配の時点で回転寿司ではないではないか。
そう思ったら店舗ですら回転してないではないか。
回転寿司各社は名前を改めていただきたい。
閑話休題。
とにかく、今あるもので満足しなければならないというのが、
食いしん坊引きこもりたる私にとっては苦痛なのである。
ブルーハーツが心の師である私にとって、
あれもこれももっともっともっと欲しくなってしまうのである。
店舗に行けば追加注文ができるが、自宅では限られたリソースでやりくりするしかない。
もちろんそれが嫌なわけではないが、
リソースを気にせず食い散らかしたいタイミングというのが必ず存在する。
そして現状はその欲求を満たす場がないのである。
なんと嘆かわしい。
次に気になる店に行けないのである。
私は生来の無精者であり、かつ小心者であるので、
お洒落な行ったことない店に行くのは、
誰かしらを犠牲にし、自らの食事に付き合わせることが課題になってくる。
そして、これに関してはシンプルに憚られるというのが現状である。
そもそも普段行かない場所には極力行くべきではなく、
また普段会わない人と会うべきではない昨今において、
これだけリスキーなことがあるだろうか。
この情報化社会、どんなに引きこもっていても
様々な情報が入ってくるものだ。
その中には美味しそうなご飯を提供しているものもあり、
やはり食いしん坊たる私はそういうところには足を伸ばしてみたくなるものなのだ。
しかし時勢はそれを許さない。
世の中には様々な主義主張があり、
それは概ね尊重されるべきという平和主義的な考えの私にとって、
誰かがどこかに遊びにくことを止めたりはしないが、
私自身はそんなことはできないと考えてしまうのである。
例えばどこかで菌をもらってきた末に周囲の環境をめちゃくちゃにしてしまった時私は責任が取れないし、
例えば私が知らずに保菌していて、遊びに行った先にばらまいてしまっても、やはり責任が取れない。
責任が取れないことをしたくないという保守的な性格であるが故に、遊びに行けないのである。
しかし、こうなってみると不思議である。
私は引きこもりこそが最大の喜びであり、
家にいる時こそが唯一自分らしくあれると、
あの8畳程度の空間こそが唯一私のエデンであると信じて疑わなかったが、
それはいつでも外に行って、好きなことができるという選択肢が確保されて居たからこそ思えていたことなのかもしれない。
情けないことであるが、今や私は回転寿司に行きたいし、
友人と銀座や池袋にあるちょっとおしゃれでどう考えても美味しそうな店にちょっと背伸びして行きたいだけの、
普通の人間となってしまった。
いつか私が選択的引きこもり大帝に返り咲ける日が来ることを切に願ってやまない今日なのであった。