日がな恋愛についての意味の無い暴言、邪智暴虐の限りを繰り返し
あまねくラブソングや少女漫画的ラブストーリーに届きもしない泥を投げ続けてきた私が、
バレンタインについての文句を言わないというのは道理に反する気がしたのでボヤいて行こうと思う。
そもそもの人間性が道理に反しているので、
ここは私が支持する反道理に反すると言い換えておこう。
世の中のキラキラに反抗を、世の中のドロドロに安らぎを。
バレンタインといえば私にも思い起こせる記憶がある。
あれはまだ私が捻くれる前のこと。
まだ世間に対して肯定的で、生きることに対しての不平不満恨み辛みエトセトラを抱く前。
振り返ってみれば瞬きのような私純情時代、小学生の事だった。
当時のリトル私には好きな女の子がいた。
仮にMちゃんとしよう。
小学生のくせに何を生意気なという意見もあるだろうが、しかしそれは古い価値観である。
今どきの小学生ともなれば、好きな子が出来て付き合ってチューしちゃうくらい当たり前なのだ。
私の子供時代もそうであった。
純情たる私は身の程も知らず当時クラスでそこそこ上位ランクの可愛い女子Mちゃんに告白した。
私より小さくて可愛く、背の順でも隣同士で席も近かった。
同じ保育園という縁も助けて、私が彼女のことをすきになってしまうのは道理であった。
結果は、どうやらはぐらかされてしまった。
好きであることを伝えたが、返事を貰えなかったのだ。
しかし、その告白の日はバレンタインにほど近かったのだ。
私は期待していた。
きっとこのバレンタインをもってお返事が来るのだろう。ドラマチックな演出じゃないか。
期待と興奮に胸を震わせながら私は、来たる2月14日を待った。
しかし、私は普段と変わらぬ状態で帰宅した。
下駄箱チェックもした。引き出しの中も見た。
普段見ないような引き出しの奥まで見て、クシャクシャになったいつかのプリントだって見つけるくらいに見た。
放課後の教室で少し待ったりもしてみた。
しかし、なんとも普段通りに過ごしてしまった。
後日、何も知らない友達のSくんが自慢げにMちゃんからチョコを貰ったことを私に告げてきた。
Sは頭こそ良くないが、スポーツ万能で学校の野球クラブに所属している。
しかもオヤジはそこの監督というスポーツ一家だった。
思えば人生初の失恋はここだったのかもしれない。
その事をMちゃんに話すと
「忘れてた! 来年渡すね!」
と言ってくれた。
今の私であればこれが優しい嘘であることを看破し
さっぱり諦めその後Mちゃんとは付かず離れずのクラスメイトの関係を築けたであろう。
しかし現実はそうではなかった。
頭の出来が悪かったのか、純新無垢で人を疑わないピュアボーイであったのか
もしくは両方であったのか
とにかく私はその後もMちゃんを好きでい続けてしまったのである。
なんとも間抜けな話じゃないか。
待って待って待ち続けて1年。
その年のバレンタイン。
私はまたも手ぶらでの帰宅をした。
あれ、今年はくれるって言ってたのに、
と落胆していた私であったが、
それもそのはずである。
これは有り体に言って振られたのだ。
事実をゆっくり受け止めた。
コミュニケーションとは必ずしも言葉通りでは無いこと、思いは必ずしも通じないこと、約束とは必ずしも守るためにする訳では無いこと。
今思えばこの辺りから既にひねくれ道への布石は
小さくも確実に打たれていたのかもしれない。
その後中学生になるまで私のバレンタイン無縁生活は続いた。
母親から毎年貰うデパートのチョコレートが一層哀愁をさそった。
小学校ながらも好きだ嫌いだすったもんだしているクラスメイトをよそに、私は秘密基地作りにあけくれた。
チューしてるクラスメイトをみて「みーちゃったみーちゃった♪」
なんて言いながらからかっていたが、
私こそその当事者になりたかったと言うのは言うまでもない。
中学生にもなると友チョコの文化が普及していた。
決して劇的ではないが、しかし私のような人間にも優しい世界。
友チョコを発明した方に国民栄誉章を与えたい。
私が総理大臣になるまでもうしばし待って頂きたい。
ご多分に漏れず私も友チョコを貰った。
チョコというか、それは手作りのクッキーであった。
可愛らしい透明のプリント袋に包まれた1口サイズのクッキー。
真っ白で様々な形をしたクッキーは、まるでひとつとして同じ形の結晶がないという雪のようであった。
季節は冬、まだ凍えるような長野の帰り道を、新雪を踏みしめながらクッキーと一緒に帰った。
さぁ、いよいよ実食である。
家族に見られるのはなんだか恥ずかしかったので、
親がくる前に食べてしまおうという魂胆だ。
袋から取り出して早速、記念すべき初バレンタイン…。
…なんだろうか…これはクッキーか?
いや、形は確かにそうである。
様々な型で抜かれた手作り感溢れるクッキーの形をしている。
しかしなにぶん味がしない。
食感もなんだか、クッキーというよりはシケたせんべいのようで、
ひとたび噛むと形容しがたい臭いとともに壮絶に歯にくっつく。
あえて言おう、まずい。
これはあとから知ることになるのだが、
手作りクッキーというのは存外難しい。
こんなに入れて大丈夫かと心配になるくらい砂糖を入れないと甘くならないし、
かと言って入れ過ぎると今度は焦げやすくなってしまう。
市販のクッキーがいかに高い技術で持って作られていたかと感心しつつ、
私はなんだか腑に落ちないままクッキー(?)を胃の中に押し込んだ。
もちろん作ってくれたクラスメイトには
「美味しかったよ!」と伝えた。
それ以上の何かを当時の私に求めるのは酷なのでご意見は控えていただきたい。
私の初めてのバレンタインは、なんだか甘酸っぱくもなんともない小麦味で幕を閉じた。
とかく、学生時代のバレンタインというのは、
一般的にはキラキラしたものだ。
貰える貰えないのドキドキ、ソワソワ感というものが男子生徒を覆っていたし
それは女生徒側もそうであろう。
裏を返せば、貰える男子こそはこの日を楽しめ、
私のようなブ男はいい引き立て役である。
イチャつく男女の背後でハンカチ噛み締めながらキー!とやるクラスメイトAである。
では社会人はどうか?
これはなかなかどうして、私は肯定的である。
社会人になってからというもの、私は貰えなかった年はなかったと断言出来る。
それはひとえに、バレンタインがシステム化されたに他ならない。
バレンタインに職場でお菓子を配らなければならない
というルールはどこにもない。それはもちろんである。
そんなもの明文化されたって全国民があいさつに困る。
しかしながら、職場には必ずと言っていいほどお菓子を配る人がいる。
パートのおばちゃんであったり、お菓子作りが趣味の女子であったり、イベント好きなハッピーガールだったり
だれか必ず1人は居るものである。居なかったらごめん。
こうなるともう食いっぱぐれることはない。
お菓子無料配布dayである。
むろんご自由にどうぞ的な配布形態であるために、
お返しをしなくてもさしてバレやしない。
もちろん私もなるべくお返しするようにするが、
その人ですら見返りを求めて配っている訳では無いだろう。
そして1番学生時代と違うところ。
格差が目に見えなくなるのである。
社会人というのはとかく交際関係を隠したがる。
いや、開けっぴろげに付き合われても困るが、
とにかくそれこそが学生と違うキモの部分なのだ。
もしかしたら職場内の私の知らない所で誰かが本命を貰っているのかもしれない。
しかし、それが目に見えないのである。
見えなければ無いのも同じなので、
学生時代のように顔面格差に喘ぐこともなく、
またあのみじめな気持ちになることも無いのだ。
たとえ私が無料配布チョコ食べて喜んでる姿を、
「いや、俺はもっと豪華な本命貰ったけどね」なんてほくそ笑んでる同僚が居たとしても
それが表面化することは一切ない。
みんなハッピーなのだ。
いや、そんな同僚が居るかと思うと少しムカついてきたが、
しかし私がいないと思えば居ないので良いのだ。
大人はとてもいい。
チョコの代わりに辛酸を舐めていた学生時代の私に教えてやりたい。
大人はそこまで劇的に大人な訳でもないが、
それでも学生時代よりはちょっぴり平等であると。
学生諸君、今しばらく辛抱するといい。
君は今でこそ敗者かもしれないが、もうしばらくすると戦いそのものがなくなる。
平和はすぐそこである。