私の母はとかく奇想天外な人物である。
絵に描いたような母親像とは全く異なり、
日本における母親の愛を描いた作品に対して私が共感することは、
今日に至るまで皆無であった。
私の母は、いわゆる元ヤンである。
そう気がついたのはずいぶんあとになってからのことではあったが、
しかし、母親の昔の写真を見るにずいぶんとやんちゃをしていたようだ。
例えば、今では信じられない話であるが、
当時のヤンキー界ではビールを頭からかぶると髪を金色に染色できると信じられていた。
もちろん真っ赤な嘘である。
しかし、私の阿呆の血の元であるところの母親はそれを地で試し、
そして見事に酒臭いずぶ濡れ女になったらしい。
そのあとも母親の快進撃は続く。
やっとの事で髪を染めた母であったが、
それを祖母(母からすれば母親)に見つかりそれを咎められると、
部屋の蛍光灯の反射でそう見えるというなんとも苦しい文句で切り抜けたという。
いや誰が騙されるのだとツッコミたくもなるが、
しかし祖母は騙されたのだから阿呆の血は脈々と受け継がれているのだろう。
さて、ヤンキーママといえば数年前から問題になっている話が、
いわゆるDQNネームである。
悪魔ちゃん事件を発端とし世間に波及し、
今尚その被害はなくなることはない。
しかし、私の名前は至って平凡である。
親世代では聞かない名前だが、私世代ではとても多く、
私の名前に関しては小中高専門と同じクラスに同じ名前が必ず一人いるという誰得現象が起き、
私の下の名前を呼ぶ友人は皆無である。
ある日、私の名前の由来を聞いたことがある。
すると母親から意外な答えが返って来た。
「お父さんの実家が決めた」
なんと。
かかあ天下である我が家では、てっきり母親が決めるものだと思っていた。
なんでも私の名前は父親の実家の祖父が、
由緒あるお寺の和尚さんに「どんな名前が良いか?」と聞きに行き
いくつかもらった候補の中から選んだのだという。
じゅげむか私は。
しかし、そんな霊験あらたかな名前なのだ。
名前に見合うように居住まいを正そう…と思い直した矢先
「お母さんは大宝(ダイヤ)にしようとしてたんだけどね」
と驚愕の話を聞かされた。
よかった、母が父の実家に弱くて本当によかった。
もしパワーバランスが違っていたらいじめまっしぐらである。
母親に関するエピソードは絶えない。
母はとにかく飯がマズいのである。
炊飯器で炊いているはずなのにご飯はカピカピ、
味はどれも大味で、食感に至ってはその全てが死んでいる。
およそ褒めるべきところのない料理を作る。
一度とても美味しい味噌汁が食卓に出て来たので、
私が目をキラキラさせて母を褒めちぎると
「あ、それインスタントのやつ。」
と答えられてしまった。
なんてことだ…ついに母の味はお湯入れるだけの味噌汁にすら負けてしまった。
これにより私の食への執着と料理スキルが育てられたと言っていい。
反面教師というのはこういうのを言うのだろう。
さて、これほどまでに面白おかしく母をいじってきた私だが、
しかし私は母を尊敬している。
無論、今の自分の性格やらが自分で気に入っていて、
その人格形成を大きくになったという側面もあるのだが、
しかし、一つ母を尊敬するに値するエピソードというものがある。
先述の通り、母親は元ヤンである。
私を21で産んでいるので、おそらくデキ婚であろう。
そんな母が私が生まれる前、
学生時代にこんなことを堂々と言っていたそうだ。
「障害者とかありえない、自分の子供がそんなだったら絶対捨てるわ。」
今こんなことを言おうものならそれこそ大炎上であろうが、
しかし、当時の時代背景を考慮し、最後まで話を聞いてほしい。
さて、その発言から数年後、長男として生まれた私は、
障害をもって生まれた。
難病というわけではなく、そこまで症例が少ないわけではない。
心室中隔欠損、水腎症、喘息、気管支炎、アトピー、各種アレルギー。
これが私が生まれながらに授かった病気だ。
水腎症というのは腎機能が何らかの影響で落ち込んでしまい、
本来なら尿として排出されるはずの水分が腎臓にたまってしまい、
水風船よろしく膨れてしまう病気だ。
喘息と気管支炎はわかりやすい、
喉と器官が腫れ上がり、咳が止まらなくなる発作をよく起こす。
アトピーは肌が弱いアレだ。
アレルギーはそば、キュウイ、桃、卵、花粉、ハウスダストなどなど…。
ちなみにアレルギーに関しては蕎麦とキュウイはまだ残っている。
極め付け厄介だったのが、心室中隔欠損だ。
心室というのはいわゆる心臓、
その中隔の弁が欠損…穴が空いているという。
私は心臓に穴が空いて生まれてきた。
人間は胎児の時にはそもそも誰しも心臓に穴が空いているのだという。
しかし大抵は体組織が完成していくにつれふさがり、
健康な状態で生まれてくる。
私はそれができずに生まれてきたのだ。
こうなると自然に塞がることはないらしい。
当時の医師の診断では、持って十年。
成人することはないと言われたそうだ。
この時の母の気持ちは察するに余りある。
何を考えただろうか。
絶望したであろうか。
泣いてくれたのだろうか。
それとも捨てたいという気持ちを少しは抱いたのだろうか。
しかし、気持ちというのは行動になってあらわれる。
行動というのは言葉よりも本心を語る。
母はありったけの時間と持てる金、人脈を全て注ぎ込んだ。
家から一山超えた先の大きな子供病院に私を入院させ、
毎日私のためと働きながら見舞いに通った。
同じ心室中隔欠損の子供達が集められた病室にいる私を毎日見舞ってくれたらしい。
同室の子供の母親の乳の出が悪く、その子供に分け与えたこともあったそうだ。
しかし、心室中隔欠損の子供は長く生きられない。
血液を循環させる器官が欠損しているからだ。
同室の子供が私の入院中に息を引き取ったらしい。
どれだけ怖かっただろう。
どれだけ悲しかったろう。
しかし母は私を見捨てたりは決してしなかった。
当時21の女性、今の私より年下の母は、
私よりはるかにつよい精神力を持っていた。
いや、これこそが母の愛というものだろうか。
心室中隔欠損が死亡率が高いのは、
その手術の難しさにある。
先天性の病気だが、
生まれたばかりの子供を開胸して心臓を弄り回すわけにはいかない。
しかもその手術中は、一度心臓を止めなければならないのである。
一定の体重に達しないと施術すらできない。
そして私は未熟児である。
いつ動かなくなるかわからない心臓を抱えながら私は三年の月日を過ごした。
この頃のことを母はあまり語らないが、
きっと辛い日々であったのは想像に難くない。
そして運命の日がやってきた。
手術ができるかどうかの審判の日である。
前日の測定では基準の体重に満たなかった。
今日の測定で体重が基準値に満たなければ、
チャンスはまたしばらく後になってしまう。
そして私にはしばらくを生きながらえる保証はなかった。
母はこの日のことを今でも私に語って聞かせる。
その日の測定、私は奇跡的に基準値に到達した。
手術中できることは何もない。
完全な無菌状態にし開胸。
心臓の管を機械につなぎ、心臓を止める。
鉄の心臓が私の血液を循環させている間に、
欠損した部位を別のもので代用する。
嘘か誠か定かでないが、
私の心臓の一部は馬の心臓が使われているらしい。
これは実に丈夫そうである。
結果から言って、というか私がこの文をかけているので当然ではあるが、
成功した。
ちなみに、麻酔から目覚めた私の第一声は
「りんごじゅーちゅ飲みたい」
だったそうだ。何とも能天気なもんである。
他にも色々私の体は大変だったようだ。
水腎症は悪化の一途を辿り、
一時期ではお腹の半分が膨れた腎臓で占められていたそうだ。
この時は東京の医者と設備でないと聞くや、
すぐさま田舎の病院から東京へ入院させ、母は私に連れ添ったらしい。
今でも私の体には開胸した時と水腎症の時、合わせて二つの手術痕が胸と脇腹にある。
しかし、これがどうにも愛おしく誇らしい。
これは母の愛の結晶なのだ。
10歳まで生きられないとまで言われた私を、
死なせまい、不自由させまいと必死になった母の愛の証なのだ。
自意識が芽生えた頃には、みんなにないものがあるのが不思議であったが、
今日に至るまで、これを煩わしいとも、消してしまいたいとも思ったことはない。
18歳を迎えた折、ついに医師から完治したとの診断が下された。
腎機能にやや偏りはあるものの、心臓に問題なし、
喘息の発作もここいく年か見られず、
アトピーはほんの少し肌が弱い程度に。
卵も桃も乳製品も食べられるようになった。
この時、母の気持ちを聞いて見たくなったが、
何だか気恥ずかしかったのでやめておいた。
良いのである。
言葉を交わさずともわかることもある。
母のこれまでの行動が、全てを雄弁に語っている。
母は偉大なり、私にとって母親以上に尊敬する者はなく、
感謝を伝えるにはまず母を置いて他にないのだ。
私は母をこれからも面白おかしく話題にあげるが、
私以外に母を侮辱することは決して許さない。
これほど立派な母親を私は他に知らないし、
この母の元に生まれた私は、この上ない幸せ者である。