(前回の続き)
さてそんなわけでモテることについての考察を書いてロジカルに頭使ったらエンジンかかったので、以前出しそびれていて下書きフォルダに入れたままにしてあったメールを出しちゃおうと思って加筆。
とその前に無印良品のご意見パークに細幅の靴をつくってほしいとの嘆願を投稿。
いやほんと、ないのよ、大きくて横幅の細い靴って。
それでもって甲だけ高いからよけいになくてね。
細幅の靴は大抵甲も低いのがセットになってるんだもん。
や、靴のことはいいんだ。
こないだ友人のヨギーN西くんと「思考を使うことをツールにしたお助けサーヴィス」みたいなのが提供できないだろうかって話をしていて。専門分野を定めない、メタ思考そのものを提供する事業。
事の発端は、彼が船出に関わったあるカフェバーの舵取りをしている人が、おそらく大きな指向性を持たずに自身の嗜好性だけでお店を進めていて、その行く末が心配だっていうところ。
何を隠そうわたしも以前にそのお店のチラシを作って、報酬に今回そこで展示をさせてもらうことになっている。
わたしは常々、貨幣による等価交換でなく、贈与をベースとした経済を軸に生きていけないものだろうかと考えているのだけれど、この展示報酬の案もそのひとつだった。
わたしが自身の能力を使って何かを提供する。
相手がそこに価値を見出し返礼の気持ちを感じたらお返しをする。
今回はその返礼を「展示をする権利」にしてもらえないかと提案したのです。
わたしたちは組織に属したり、グローバル資本主義経済の流れに必ずしも乗らなくても、自身の能力で社会にコミットできる可能性を持っている。それを通じて価値交換の持続=流通を作り出すこともできる。
その根底には、蓄えることや荒稼ぎを念頭に置かない、奉仕の精神みたいなものが必要となってくるし(内田センセイは“パスをする”って書いてたな)、それは損得勘定ではなく純粋な精神労働として私たち自身を動かすことに繋がってくる。
@sayuritamakiさんのブログに共感するところがたくさんあって。
「女。MGの日記。|家をもたない生活」
ここでは固定の住処について触れているけど、それってほかのものごとにも当てはまると思うんだよね。
収入のための職業で使ってる能力よりも趣味の知識のほうが深い人なんてザラにいる。彼らはその深い知識を価値換算されないからこそ得ることができたんだろうし、それらは資本とか能力に数えられる類のものだと思う。人によってはそれがひとつじゃないって人もいる。浅く広くいろーんなことに通じてる博識の人もいる。
そういうものを持ち寄って共有しあうライフスタイルは不可能ではないと思う。
贈与の精神の元に。
あー、散歩に出かける前のちょい書きのつもりが長くなっちゃった。
ご飯にするので今日はここまで。
ばいーノシ