くらりん☆のふらふらチルアウト日記 -6ページ目

くらりん☆のふらふらチルアウト日記

フラ~っとブラ~っとeverydayチルアウト☆


(前回の続き)

さてそんなわけでモテることについての考察を書いてロジカルに頭使ったらエンジンかかったので、以前出しそびれていて下書きフォルダに入れたままにしてあったメールを出しちゃおうと思って加筆。

とその前に無印良品のご意見パークに細幅の靴をつくってほしいとの嘆願を投稿。
いやほんと、ないのよ、大きくて横幅の細い靴って。
それでもって甲だけ高いからよけいになくてね。
細幅の靴は大抵甲も低いのがセットになってるんだもん。

や、靴のことはいいんだ。


こないだ友人のヨギーN西くんと「思考を使うことをツールにしたお助けサーヴィス」みたいなのが提供できないだろうかって話をしていて。専門分野を定めない、メタ思考そのものを提供する事業。

事の発端は、彼が船出に関わったあるカフェバーの舵取りをしている人が、おそらく大きな指向性を持たずに自身の嗜好性だけでお店を進めていて、その行く末が心配だっていうところ。

何を隠そうわたしも以前にそのお店のチラシを作って、報酬に今回そこで展示をさせてもらうことになっている。

わたしは常々、貨幣による等価交換でなく、贈与をベースとした経済を軸に生きていけないものだろうかと考えているのだけれど、この展示報酬の案もそのひとつだった。
わたしが自身の能力を使って何かを提供する。
相手がそこに価値を見出し返礼の気持ちを感じたらお返しをする。

今回はその返礼を「展示をする権利」にしてもらえないかと提案したのです。

わたしたちは組織に属したり、グローバル資本主義経済の流れに必ずしも乗らなくても、自身の能力で社会にコミットできる可能性を持っている。それを通じて価値交換の持続=流通を作り出すこともできる。

その根底には、蓄えることや荒稼ぎを念頭に置かない、奉仕の精神みたいなものが必要となってくるし(内田センセイは“パスをする”って書いてたな)、それは損得勘定ではなく純粋な精神労働として私たち自身を動かすことに繋がってくる。

@sayuritamakiさんのブログに共感するところがたくさんあって。
「女。MGの日記。|家をもたない生活

ここでは固定の住処について触れているけど、それってほかのものごとにも当てはまると思うんだよね。

収入のための職業で使ってる能力よりも趣味の知識のほうが深い人なんてザラにいる。彼らはその深い知識を価値換算されないからこそ得ることができたんだろうし、それらは資本とか能力に数えられる類のものだと思う。人によってはそれがひとつじゃないって人もいる。浅く広くいろーんなことに通じてる博識の人もいる。

そういうものを持ち寄って共有しあうライフスタイルは不可能ではないと思う。
贈与の精神の元に。


あー、散歩に出かける前のちょい書きのつもりが長くなっちゃった。
ご飯にするので今日はここまで。

ばいーノシ
今日は朝から部屋に篭って文章づいてたから、夕方になったし一日部屋の中とかこれじゃ引きこもりじゃんと思って散歩に出ようとしたのだけど、脳みそがドライブかかっててどうもまだ文章モードなので久しぶりに日記でも書くかとアメブロにアクセスしたら、わたしの更新ゼロっぷりが漂うブログにも細々とアクセスがあることが判明して、やだなにわたし心配されてる?と少し救われた気持ちになりました。

近々写真の展示をするからそれについて考えを巡らせてたさなか、友達からメールがピロリン。


さっき話したひととのテーマ

モテるのにモテナイと 人に言うことに利点はあるのだろうか。

この人モテるだろうなと思う人が皆、自分はモテナイ。と言う。
嘘だ!!と思うのだけど、かたくなにモテナイ。と言う らしい。
本当にモテナイ自分はいつも うぐぐぐぐ・・となるそうな(笑)



これに対して内田樹センセイ的な描写で(わりと)まじめに論じてみた。
以下。

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「モテる」という状態が社会的なもの(自分だけでは成り立たない)である以上、自分がモテるかどうかの自覚は、自分以外の人のモテ度の平均値を参照した上で、そこに自分を当てはめてみて、つまり意識的に比較ができてはじめて認識できる。

自らすすんで比較をしない人にとっては、自分が人以上にモテるということは理解されない。
自分の属する環境を俯瞰して認識しているかどうかが、比較ができる条件となるのである。

「民はその日食べるパンさえないのです」と話す家臣に対し、マリーアントワネットが「あら、じゃあケーキを食べればいいのよ」と言い放った話は有名である。



あるいはその人のこれまでの経験が比較対象になることもある。
34歳になるまで異性からまるで相手にされなかった(つまりはコンプレックスである)人が、あるときにとたんに声を掛けられるようになったとしたら、その内容が異性間の好意によらないものだったとしても、それをモテたと捉えることはありうる。
けれども、これを見た第3者の目にもその現象が「モテている」と映るとは限らない。

これはギャップの問題である。
落差が激しいとき、そこに人は意味を見出したがるのである。

人はものごとの多くを比較と類似とで理解する。
“すでに知っていること” からでないと認識をスタートさせることができない。
そして、理解できないことは不快なので、そのわからないことを“自分が理解できること” を材料にして自己説明し、納得・消化しようとする。


さて、「モテるのにモテナイと 人に言うことに利点はあるのだろうか」という議題に立ち戻ろう。

ここに登場するモテる(とされる)人は、利点がどうのと考えていないから言うのである。
あらゆる問題は、問題視されないと問題とはならない。
自分をモテないと評価している人よ、人との比較で自分の立ち位置を把握することはやめたほうがよい。

そこにこそ利点がないからである。


【追記】
この「自分をモテないと評価している人」の心を捉えているのは自らに対するコンプレックスなので、仮にモテる人がモテることを肯定したとしても、「ち、イヤミな奴めウナギ」と独りごちるのは目に見えている。

問題を生み出すのは常に自分の側である。
外部からもたらされるのではないのだ。


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返事はそれっきり返ってきません。
思考は使う場所選ばないとだめだね。

長いので続きます。
ツイッターにも書いたのだけど、縄文後期にはすでに獣肉と木の実を使ってクッキーを焼いていたという。
驚くことにつなぎも使って、時には発酵で風味と滋味もつけ加えて。

ということで玄米フレークをすり潰して粉末にして、ライ麦と混ぜてパンケーキを焼いた。
どのへんが「ということ」なのか不明だけど、そして縄文人よりも手法がおそまつだけど、まあとにかく焼いた。

粉が粗くてタネがボタボタしてたから、パンケーキというよりもトルティーヤに近いサムシングになった。
おまけに玄米は焦げやすくて、いつもの小麦粉の調子で極弱火で放置してたらあっさりと焦げついてしまった。

この焦げとコーヒーの苦味とが相容れないのが不思議だった。





・・・っていう感覚を作品にアウトプットするにはどうしたらいいんだろう。

同じような知識・体験を持っている人同士はこの感覚をあるいは共有できるのかもしれない。
けれどそれはあくまでニューロンの放電の話であって、言語化できているわけじゃない。
言語化とはツールとなることだ。

バットの芯にボールがミートした感覚を、プロ野球選手はおそらく共有できる。
バットとボールを使って、おそらくとてもシビアなラインで体感できるはずだ。

でも味覚というのはミートの感覚ほど認識しやすく絶対的な指標じゃないし、
なにもトランスレートすることが本来の目的ではないんだけれど。

それにこの場合、わたしがこの感覚を別の形で取り出すわけだから、ちょと話は違うんだけどね。
それでもそれをさらに人の前に提示するというのはさらにむずかしい問題だなぁ。




そういえば以前こんなことがあった。
友達と電車に乗っていたとき、突然ある感覚がフラッシュバックした。
それはわたしが子供の頃から夢の中でときおり体験している感覚で、大人になるにつれて頻度が少なくなってはいたものの、確実に身に覚えのあるものだった。

それがなんの前触れもなくやってきた。
何が引き金になったのかはわからない。とにかくやってきたのだ。
子供の頃には夢の中でだけ体験していたはずのあの感覚が、覚醒している日常で突然起こったのである。

わたしはそのことを傍にいた友達に説明しようとしたが、なにせ自分でも「あの感覚」としか自覚していないものを説明できるはずもなかった。
ええい、感覚の「質」はいい、この事実だけでも!と思ったが、こういった感覚じたいも、それが突然やってくるという事象も彼女には経験がないものあるらしく、まるで飲み込んでもらえなかった。

・・・
それにしてもあの感覚。
ずいぶん久しぶりに感じたのだけれど、わたしが自分で驚いたのは、あの感覚を客観視できているということだった。やってきたときに、一瞬にしてそのことを自覚した。
それはたいそう恍惚的で、なにかこう一瞬で自分が覚えてないくらいの小さい頃から今までの記憶がものすごいスピードで流れるかんじというか、てかこんなこと言ったら「それ死に際じゃない?走馬灯ってさ」とか言われそうだけどとにかくそうだったの。プチトリップ体験。

プルーストが紅茶にマドレーヌを浸したときの香りから記憶がはじけるほどに蘇ったっていう感覚はこういうものだったのかなと思った。



ふといま頭に浮かんだんだけど、『秘伝のタレ』とか『先祖代々受け継いだ味』って、どういう伝えられ方してるのかな?
ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラー」に出てくるおっちゃんがテキサスでNo.1のBBQソースのレシピはたとえ弟にだって教えないって筋があったけどそれは置いといて、あッそんなことない、最後に血が入ったソース舐めて「コレダ!」ってなってたじゃん、そうか血=絆かぁ、やっぱ見えざる大きな力(前日記参照)・・・なんて無理やりだよな。




アウトプットとか置き換えるっていう思考自体がそもそもよくないのかもしれないな。
食はわたしにとってとても自然に付き合えてかつ興味の尽きない対象で、その点においては美術よりも勝ってるわけです。
けれど美術は単品で抽象的にまとめることができても、食はそういうわけにはいかない。
だから流れで語るしかないですね。写真と一緒だ。


まあなんにせよ、やっていることに宇宙があればそれでいいと思ってます。