くらりん☆のふらふらチルアウト日記 -36ページ目

くらりん☆のふらふらチルアウト日記

フラ~っとブラ~っとeverydayチルアウト☆

おはようごじゃります。
最近早起き習慣を始めたくらりんです。
早起きって気持ちがいいね!
東の窓から登ってきた太陽の熱にうなされることもないしさ!


さて、世界最大の花を咲かせる「ショクダイオオコンニャク」の開花が、小石川植物園でもうすぐ見られます。


開花時には強烈な腐臭を漂わせるということで、花の大きさもあいまって
ラフレシアがよく引き合いに出されてます。

ラフレシアも見てみたいけど、やっぱショクダイオオコンニャクだよね!
$くらりん☆のふらふらチルアウト日記-ショクダイオオコンニャク
※これはWikiの写真。小石川のはここまでデカくないと思われます。

なんでもこいつらの開花は七年に一度、しかも二日間限定というレアぶり。
開花時期に当たるかもしれないということで本来園の振り替え休日である7/21(火)も特別開館する熱の入れようです。

小石川植物園のサイトでは経過報告を毎日朝夕とやっていて、昨日の夕方の写真を見るとたしかにそろそろ咲きそうな予感!

でもさ、朝夕二回の記録でしかもどうせ職員がデジカメで写真撮ってアップするんでしょ。
東大の付属施設だし、ああいう機関の機動性が低いのは目に見えてるので、
ひょっとしたら夜中のうちに咲いて、朝それを発見してアップするのはお昼頃、
サイトを見て急いで向かったとしても(その日に行けるとは限らないし。しかも入館は午後4時まで)
ぎりぎりセーフな可能性大なわけです。

首都高ですらむやみにライブカメラ中継とかやってんだしさ、それくらいの気効かそうよ。で交代制で見張りしとけよ!
「咲いた!咲きました!!キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!」て職員がリアルタイムツィートするくらいの盛り上がり見せようよ。


でもわたしはなんとしても行くお!
ハエがたかる(かどうかは知らない)腐臭漂う奴を見にさ☆
病院のベンチで会計を待っていたら、
ほっそりとした美人のお姉さんがやってきた。
すれ違った誰もが振り返るほどのはっとするほど美人ってわけではないのだけど、
そのすっきりとした顔立ちにはどことなく翳があって、
どことなく触れたら切れちゃいそうなとげとげしい雰囲気を併せ持っていた。

安良城紅さんの目を眠そうにしてそばかす散らせてもう少しアジアンに振ったかんじ、
とでも言えばいいかしら。

その危なげな憂いを持った表情をわたしは一目で気に入った。
彼女はわたしより少し年上のようだった。


何かいやなことでもあったのか、それとも病院に来るのが嫌いなのか彼女はすっごく不機嫌で、
ベンチのところに来るなり左手に持っていたハンドバッグを無造作にその上に放り投げ、
その不機嫌さをまわりに示すかのように音を立てて勢いよく腰を下ろした。

わたしが驚いて音の方向を振り返ると、彼女は刺さりそうに冷ややかな視線で一瞥をくれ、すぐに視線を床に落とした。



わたしは病院の会計を済ませた後、処方箋を持って薬局に向かった。
カウンターには「ただいまお渡しまでにお一人さま30分ほどいただいております」という札が掲げてあった。
「お待ちの間外に出られていたお客様は、お戻りになられましたら一言お声かけください。薬が用意できている場合があります。」

座って待っていると、ほどなくしてさっきのお姉さんがやってきた。
彼女はそこには来慣れているらしく、処方箋をさっと出して薬剤師に手渡すと、スカートを翻して外に出て行った。右手に日傘を差して、病院で見たときとはうって変わったご機嫌な表情と足取りで彼女は歩いていった。


なんだかわたしは彼女が少しうらやましくなった。
わたしもあんなふうに奔放に振舞いたい。
彼女と同じように機嫌が悪いときはどすんとベンチに座って、気をよくすると微笑みを携えて軽い足取りで日傘を差して歩くの。


ひとつひとつの行動に感情を投影して、その都度ストレスを外に放り出すの。


でも現実は、そんなのを見かけても「ふーん」といった様子で何もなかったかのようにもくもくと自転車を漕ぐ自分がいるのです。


どうしたら奔放になれるのだろうか。
そばかすかなぁ。
最近は夜なかなか寝付けないことが多いので、本棚から文庫本を引っ張り出して読むことが多い。
昨夜何気なく手に取ったのは村上春樹の翻訳したフィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」だった。

数年前にたしかに自分でこれを買い求めて読んだ記憶はあるのだけれど、どんな話だったかページを繰るまでまったく思い出せなかった。ぼんやりと覚えているのは、それがずいぶん春樹ナイズドされた文章で、どことなく私には鼻についたということだけだった。

10代の頃に読んだサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」は当時の私にとってとても印象的で、ページを繰らなくともその冒頭部分や結末を簡単に頭に思い描くことができた。今でもできる。サリンジャーは今年のはじめに没した。


「マイ・ロスト・シティー」はフィッツジェラルドの短編集で、(おそらく)村上春樹氏が自分の好みに合わせて選んだであろういくつかの短編とひとつのエッセイが収められていた。

訳者は冒頭に寄せて、フィッツジェラルドの文学は時間を経て読み直してみて初めて素晴らしさがわかる類のものだ、かのアーネスト・ヘミングウェイも当時(彼らは同時代の作家だ)同じ評をしている、とあった。


私は最初のページから読み始めた。




何編かを読み終えて、私は春樹氏やヘミングウェイの指摘が確かなものだとの思いを抱いた。読んだ当時はそれほど心惹かれなかったのが、今はその文章は驚くほど色鮮やかに躍動して感じられる。



「残り火」の冒頭は見事だった。

たしかにそこには派手さが目に付いた。
言葉選びはいささか華美に過ぎたし、技巧的な言い回しは誇大な広告が踊る雑誌の紙面を思わせ、私に若干の胸焼けをもたらせた。ちょうど10代の私をそうしたように。
けれど読み進めるうちに言葉たちはとても上手にダンスを踊っているように見えてきた。習慣的に身に付けられた誇張された笑顔を振りまき、少々大げさな振り付けではあるにせよ、その踊りは言葉たちにぴったりとフィットして、まるでそれが生まれたときからずっとやってきているしぐさであるかのように見えた。感心するくらい上手く演じられるそれは演技には見えないものなのだ。そして上等な踊りはやはり上等なものに変わりはない。


とまあ私の語調もハルキナイズドされてきましたが、まあとにかくそれくらい何かこうある種の兆しが迫り来るのがわかるドラマティックなオープニングだったわけです。

余談だけど春樹氏って言葉運びは巧みだけど独善的で極端な物言いするよなー。
まあいいや。


私は「残り火」を読み終わると続く「氷の城」にとりかかりました。読む前はまるっきり想像が沸かなかったと先ほど書きましたが、この短編は読み始めると思い出してきました。そうそう、そうだった、サリー・キャロル。けだるそうだけど奔放な南部の娘サリー・キャロル。そして瞬くうちに私の脳裏には小説の情景がありありと映し出されていきました。それは夢でも見ていると思えるくらいリアリティーを持って私の脳を刺激しました。ほこりっぽく舞う砂塵の砂粒から照りつける南部の太陽、骨董品なみのフォードのバンパーに反射するその光までもが質感を伴った感覚(ヴィジョンだけではなく、手触りや熱やにおいさえも)として私を捉えたのです。アメリカはジョージア州なんて行ったこともないのだけど。

わたしはどきどきしました。別になんてことのない情景で特に意味のあるシーンというわけでもないのに、とてもどきどきしたのです。子どもの頃に町の小さな映画館で上映の幕が上がると同時に感じたあの感じ。

そんな調子でフィッツジェラルドの短編は私を魅了し、短時間の間に貪るようにして私はその本を読みました。途中、仕事帰りの友人がうちを訪れましたが、そんなことはおかまいなしに私は読み続けました。(お茶は出しました)

友人はコンビニ弁当をもそもそと食べ、少しばかりの間ラップトップをカタカタ
といじって帰りました。悪いことしたな、ごめんね、Hちゃん。

まだ読み終わってないので、今夜も多分読みます。