最近は夜なかなか寝付けないことが多いので、本棚から文庫本を引っ張り出して読むことが多い。
昨夜何気なく手に取ったのは村上春樹の翻訳したフィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」だった。
数年前にたしかに自分でこれを買い求めて読んだ記憶はあるのだけれど、どんな話だったかページを繰るまでまったく思い出せなかった。ぼんやりと覚えているのは、それがずいぶん春樹ナイズドされた文章で、どことなく私には鼻についたということだけだった。
10代の頃に読んだサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」は当時の私にとってとても印象的で、ページを繰らなくともその冒頭部分や結末を簡単に頭に思い描くことができた。今でもできる。サリンジャーは今年のはじめに没した。
「マイ・ロスト・シティー」はフィッツジェラルドの短編集で、(おそらく)村上春樹氏が自分の好みに合わせて選んだであろういくつかの短編とひとつのエッセイが収められていた。
訳者は冒頭に寄せて、フィッツジェラルドの文学は時間を経て読み直してみて初めて素晴らしさがわかる類のものだ、かのアーネスト・ヘミングウェイも当時(彼らは同時代の作家だ)同じ評をしている、とあった。
私は最初のページから読み始めた。
何編かを読み終えて、私は春樹氏やヘミングウェイの指摘が確かなものだとの思いを抱いた。読んだ当時はそれほど心惹かれなかったのが、今はその文章は驚くほど色鮮やかに躍動して感じられる。
「残り火」の冒頭は見事だった。
たしかにそこには派手さが目に付いた。
言葉選びはいささか華美に過ぎたし、技巧的な言い回しは誇大な広告が踊る雑誌の紙面を思わせ、私に若干の胸焼けをもたらせた。ちょうど10代の私をそうしたように。
けれど読み進めるうちに言葉たちはとても上手にダンスを踊っているように見えてきた。習慣的に身に付けられた誇張された笑顔を振りまき、少々大げさな振り付けではあるにせよ、その踊りは言葉たちにぴったりとフィットして、まるでそれが生まれたときからずっとやってきているしぐさであるかのように見えた。感心するくらい上手く演じられるそれは演技には見えないものなのだ。そして上等な踊りはやはり上等なものに変わりはない。
とまあ私の語調もハルキナイズドされてきましたが、まあとにかくそれくらい何かこうある種の兆しが迫り来るのがわかるドラマティックなオープニングだったわけです。
余談だけど春樹氏って言葉運びは巧みだけど独善的で極端な物言いするよなー。
まあいいや。
私は「残り火」を読み終わると続く「氷の城」にとりかかりました。読む前はまるっきり想像が沸かなかったと先ほど書きましたが、この短編は読み始めると思い出してきました。そうそう、そうだった、サリー・キャロル。けだるそうだけど奔放な南部の娘サリー・キャロル。そして瞬くうちに私の脳裏には小説の情景がありありと映し出されていきました。それは夢でも見ていると思えるくらいリアリティーを持って私の脳を刺激しました。ほこりっぽく舞う砂塵の砂粒から照りつける南部の太陽、骨董品なみのフォードのバンパーに反射するその光までもが質感を伴った感覚(ヴィジョンだけではなく、手触りや熱やにおいさえも)として私を捉えたのです。アメリカはジョージア州なんて行ったこともないのだけど。
わたしはどきどきしました。別になんてことのない情景で特に意味のあるシーンというわけでもないのに、とてもどきどきしたのです。子どもの頃に町の小さな映画館で上映の幕が上がると同時に感じたあの感じ。
そんな調子でフィッツジェラルドの短編は私を魅了し、短時間の間に貪るようにして私はその本を読みました。途中、仕事帰りの友人がうちを訪れましたが、そんなことはおかまいなしに私は読み続けました。(お茶は出しました)
友人はコンビニ弁当をもそもそと食べ、少しばかりの間ラップトップをカタカタ
といじって帰りました。悪いことしたな、ごめんね、Hちゃん。
まだ読み終わってないので、今夜も多分読みます。
