「この間会ったことは妻には言わないでおいてほしい」
唐突に彼はこう切り出した。
その日の二日ほど前に偶然彼がわたしの家の近くに来る用事があり、その際に川沿いを散歩したのだ。
翌日は3人でドライブすることになっていた。
言わないでいることはかまわないけれど、彼が奥さんに隠し事をしていることが引っかかった。わたしとのことは包み隠さず報告しているはずだし、彼がわたしにこれ以上の関係を求めているとは到底思えない。
実際、表に出てまずいようなことはしていない。
かといって会う頻度がいやに高すぎるのもまた事実だった。
わたしは知らず知らずのうちに彼に会うことを要求していたのかもしれない。
そうとは口に出して言わなくても、そういう雰囲気を醸していたことは十分に考え得る。
彼はわたしと会いたくないわけではないが、そのすべてを奥さんに報告することは彼女に何か疑念を抱かせることになりかねない。なにも行動のすべてを逐一報告する義務があるわけではないだろうけど、ややこしい問題が立ち上がるのは彼の望むところではない。
わたしたちはそれくらい頻繁に会っていた。
そう考えて想像するに、散歩のことだけでなく会っていたことの半分くらいは話していないのではないだろうか。
わたしは唖然とした。
いつのまにか自分の欲求に忠実になってしまっている自分がそこにいた。
かつての誓いはいったいどこへ行ったのか。
それから数週間の後、メールで他愛もないやり取りをしているときに事件は起こった。
わたしの発した何気ない冗談が彼を深く傷つけ、心を乱した。
彼は現在精神疾患を抱えており、会話には充分注意しなければならない。
このときの話題は慎重になる必要があるものだった。
おまけに梅雨時期の湿った気候は彼の気分を過敏で沈みやすいものにする。
雨は人の心に陰鬱な影を落とし、その奥深くに根を張るのだ。
わたしは油断していた。
自分が彼との会話を楽しむあまり(それが表情の見えないメールだということも災いした)、慎重になるべき場面でつまずいたのだ。
おまけに気候のこともあまり気にしていなかった。
彼の状態が決して快方に向かっているのではないことを、以前に本人の口から聞かされていた。それどころかむしろ、去年の同じ頃と比べて悪くなっていると医者は彼に向けて話していた。
わたしは前にも増して注意深くなるべきだったのだ。
数日の間連絡が途絶えていたが、今日来たメールに体調が思わしくないことが短く書いてあった。
わたしは分水嶺を見過ごしていた。
そればかりか通過してしまっていることにも気づかないでいた。
わたしが負わせた彼の傷は、彼の今後の回復に少なからず影響をもたらすかもしれない。彼をよくない方向に引っ張りまわすのでは、わたしは疫病神も同然だ。
今後の彼との、そして自分との接し方を考え直す必要がある。
導き出されたものが結果的に彼との断絶を意味するものであっても、よい方向に向かうのであればわたしにはそれを退ける理由はない。
彼が幸せになってくれることがわたしの最大の願いなのだから。
天使にはなかなかなれない。