茶と特攻隊 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 私は裏千家で茶道を習っている。習い始めて10年くらいか。
 先日、裏千家の先代の家元である千玄室のことをNHK Eテレで取り上げていて、稽古に行ったときそのことが話題になった。先代家元のことを流派内では大宗匠と呼ぶのだが、何人かの生徒が
「大宗匠の番組、観ます。」
と言っていた。しかし、私は彼の番組を観る気にはならなかった。
 
『NHKアカデミア』というE-テレの番組のサブタイトルは『千玄室 茶道と世界平和』。リモートで視聴者の質問に答えるコーナーもあったようだが、「世界平和」という言葉がむなしく思えた。
 
 何年か前、大宗匠が国連幹部にお茶を点てた、という新聞記事を読んだ。そのころ、国連の人権問題を扱う委員会で従軍慰安婦問題を取り上げていた。記事によると茶席で大宗匠はそのことに触れ、
「どうぞお手柔らかに。」
と言ったと書かれている。この人はこの問題を戦争で人生を奪われた人の問題ではなく国と国との問題としてとらえていないな、と思った。そういう人が「平和」を口にしても私は信じられないのだ。
 
 大宗匠は第二次世界大戦中は海軍にいた。特攻隊に志願しており、敗戦があと何日か後ならば出撃して散華(戦死)していた。彼のことを取り上げるとき、よく出てくる言葉が「特攻隊の生き残り」だ。
「先代家元は特攻隊の生き残りだから平和の尊さを分かっている。」
とネットで書いている人がいたが、特攻隊の生き残りの、戦後の生き方は様々だ。
 
 特攻隊の生き残りといえば、私の通っていた高校の先生にも特攻隊の生き残りがいた。
 1年生の時、理科Iの生物分野を教わった先生は定年後非常勤講師として私達を教えていた。ある時、始業のチャイムが鳴っても私たちが騒いでいると、
「君たちは明日戦争で死ぬとは思わないからそうやって騒いでいられるんだ。私の友達でだらしのない男がいたが、最期は笑って死んでいったぞ。君たちは彼のように死ねるか?」
と語って先生が私たちを叱ったことがあった。
 
 私が2年生の時、1986年4月29日に政府主催の大きなイベントがあった。「天皇陛下在位60周年記念式典」である。天皇陛下とは昭和天皇のことだ。たまたま家のテレビでこのイベントの中継の終わりの方を観ていたら、中曽根康弘首相(当時)が
「天皇陛下万歳!」
の音頭をとっていたのだが、これには気味悪さを感じた。後日、放課後用事があって学校の職員室へ行ったら生物の先生がほかの先生たちと雑談をしていて、中曽根の万歳に触れていた。先生もあの万歳には違和感を感じていた。先生に話しかけると、先生は式典自体にも違和感を感じたと語り、
「あの人はあの戦争に対して責任がある。だから『自分にはあの戦争に対して責任がある』と認めてほしい。」
と先生は私に語った。
 こういう話を書くと、その教師は日教組だから偏ったことを言うのだ、と思う人もいるだろう。私はこの先生が組合員だったかどうかは知らない。だが、あの先生に叱られたことのある者としては、彼の戦争や天皇に対する思いは、若い仲間が死んでいった、自分もその仲間と同じように死んだかもしれない、そういう思いから発したものだろう。
 戦後権威ある立場に就いた人の語る平和より、戦争で死んだ人のことを思って語る平和こそ私は信用する。
 
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 下の写真に写っているのは私の家にある茶道具だ。茶杓(ちゃしゃく)と茶筅(ちゃせん)は私が店で買った安物だが、茶碗は父方の祖母の遺品だ。
 祖母は経済的に恵まれた境遇に育ったのだろう。茶道や箏(こと)のたしなみはあった。だが、戦後の混乱期は違った。あのころは日本全体が貧しかったが、父の家はそれ以上に貧しかった。そして祖母がそのたしなみを披露することはなかった。祖母がどの流派で茶を習ったのかもわからないが、祖母の所有した茶道具はいくつか遺っているから私はたまにそれで茶を点てている。