阿房列車エチンゲ号は北を目指す(上) | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 阿房列車といえば、内田百閒が書いた鉄道紀行文のタイトルである。第二次世界大戦後、輸送インフラが回復してきた昭和20年代後半に百閒先生は汽車に乗って気ままに旅したように思えるが、その百閒先生が北海道を旅したことはなかった。当時北海道へ行くときは津軽海峡を船で渡ったのだが、その津軽海峡には第二次世界大戦中日本海軍が米軍艦船を沈めるため敷設した機雷が数多く残っており、百閒先生はそれをおそれて青函連絡船には乗らなかった。しかし、機雷よりも恐ろしいものが青函連絡船を襲った。1954年9月26日の洞爺丸台風である。一夜にして1100名を超す人命が喪われた台風がきっかけで、戦前よりあった青函トンネル建設計画が具体化する。

 

 さて、私は2023年5月3日、青森港から青函連絡船津軽海峡フェリーの客となり、阿房列車エチンゲ号を運行することとした。なお、エチンゲとはカメを指すアイヌ語である。

 青い森鉄道の各駅停車からタクシーに乗り継いでフェリーターミナルへ。そこでフェリーに乗り込み、カーペット敷き船室の客となる。1987年の春休み、初めて青函連絡船に乗った時と同じだ。船室には何組もの親子連れ、そして渡島半島の高校の野球部員たち。やがて船が出て青森港が遠ざかる。

「ご覧あれが竜飛岬北のはずれと 見知らぬ人が言ったけど」

と艶歌『津軽海峡冬景色』で石川さゆりは歌う。竜飛岬は津軽半島の先端だが、1987年春休みの帰りの連絡船で椅子席の隣に座ったおばあさんから教わったのは下北半島の仏ヶ浦だ。草木が生えず岩肌がむき出しとなって海に面した崖が、仏様が並んでいるように見える、ということで付いた名が仏ヶ浦。今よりはるかに航海が危険だった昔、海を行く人々は海岸の仏様に何を思ったか。

 

 夕日が津軽半島の向こうに沈むころ、船は函館に着く。桟橋のある七重浜は洞爺丸が遭難した時、搭乗者の遺体が打ち上げられた場所だ。ここからバスに乗り換え、函館駅まで行き、近くのビジネスホテルで一泊。

 

 

 函館といえば五稜郭もあれば立待岬のそばには石川啄木兄貴の墓もあるが、それらは割愛して朝の列車に乗り込む。函館駅で迎えてくれたのは国鉄型のディーゼルカーだ。青い布を張ったボックス席が懐かしい。

 だが、ギリギリながら青函連絡船の時代を知ったものにとって側線にほとんど車両の停まっていない車窓風景はさみしい。苗穂工場と並んで北海道の鉄道車両整備を担ってきた五稜郭工場も閉鎖となった。

 1987年の冬休み。あの時は青函連絡船の夜行便から札幌行の特急北斗に乗った。空が明るくなるにつれ、線路際にたつ白樺の木々が眼に入り、北海道に来たのだ、と感じたのを覚えている。

 あの時、隣の席に座っていたのが白人男性だった。日本語の本を読んでいるので話しかけた。その人はアメリカ人で、日本の大学で英語の非常勤講師を遣っていて、3年くらいでアメリカに戻るのだという。子供は日本で一緒に暮らしているが奥さんは仕事があるのでアメリカにとどまっているという。

「なぜ一緒じゃないんですか?僕なら奥さんには家にいてほしいと思います。」

と生意気に私がそう言ったら、彼は

「私は妻の働いている姿が生き生きとして好きです。」

と答えた。当時高校生の私は勉強をほったらかして旅に出たが、こういう話を聞けたことは意義があったと思う。大学入学前はひたむきに勉強しても、大学に入って自分にブランド価値がつくと合同サークルだ合コンだと遊びまくり、本音では女性をバカにしながら「大人」になるより、こういう話を聞くことの方が意義あることだったと今も私は思っている。

 やがて車窓に湖が映り列車は大沼公園に到着したので降りた。駅から少し歩くと貸しボートや遊覧船の乗り場がある。この辺りは湖岸線が入り組んでいて水墨画向きの風景を見せてくれる。

 大沼公園というと思い出す映画がある。『伽倻子のために』だ。

 

 1984年に公開されたこの映画は在日朝鮮人の青年・サンジュ二と日本人少女の伽倻子(かやこ)の出会いと別れを描いた映画であり、南果歩はこの映画で線の細い少女を演じての女優デビューした。大沼公園はその二人がボートに乗ってつかの間の幸せを味わった場所だ。

 湖岸を歩いていると、夫婦連れやアベックを何組か見かけた。昼近くになれば親子連れもやってくるだろう。だが、一人旅の私は次の普通列車に乗り森駅で降りた。

 森駅の周りにあるのは森ではない。駅の東側には噴火湾が広がる。そして西側には小さな町並み。樺太で生まれ、日本の敗戦後は北海道で育った主人公のサンジュ二は早稲田大学に進学するため東京に出る途中、森町に住む父の知人を訪ねて伽倻子と出会う。伽倻子は日本人だが、サンジュ二の父の知人である在日朝鮮人の娘として育てられてきた。

 家族のいる場所に安らぎを感じられない二人は癒しを求めるように惹かれあい、同棲するのだが双方の親に祝福されることなく別れる。

 二人が別れて時が経ってサンジュ二が伽倻子の養父を訪ねる。鉛色の海に向かって雪道をとぼとぼと歩くところで映画は終わる。

 森町は東に海、西に丘があり、その丘に住宅が立ち並んでいる。サンジュ二と伽倻子が出会ったときから住み人は入れ替わっているが、それでも簡素な木造家屋がいくつか残っている。森駅の周りには2,3階建ての建物が立ち並び、丘の上の住宅地から海はチラチラとしか見えないが、ここは確かにサンジュ二が一人で坂を下りた場所だ。

 さて、私が『伽倻子のために』を観たのは高校受験を終えて一息ついた十五の春だが、入学した高校の先輩にもこの映画を観た人がいた。現在若者の貧困問題で盛んに発言している教育社会学者の大内裕和さんだ。

 

 森駅からは特急北斗に乗って北を再び目指す。

 

(『阿房列車エチンゲ号は北を目指す(中)』へつづく)