それでも記憶に刻むべきだ | Kura-Kura Pagong

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"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 ベルリンの広場に設置された『平和の碑』と呼ばれる像が撤去される、という話になった。『平和の碑』とは日本では『少女像』とよばれ、保守層の一部からは『慰安婦像』と呼ばれるあの像だ。
 日本の茂木外相からドイツの外相へ撤去を要請し、広場の管理者であるベルリン市ミッテ区は設置者に対して像の撤去命令を出した。その後、像の設置者が撤去命令に対して異議を申し立て、今私がブログを作成している2020年10月18日時点ではミッテ区の処分は保留となっている。
 
 私は、日本の「愛国者」の言い分を聞いて像を撤去する、ということはしてほしくないと思う。私だって日本人だ。だが、日本の為政者たちが誠意をもって過去の戦争責任に向き合うこと、日本人が過去の戦争責任を記憶に刻むこと、そのことこそが日本が世界において名誉ある地位につくことにつながる、と信じる。
 

 
 以前、飲み会に出席したらある友人が
「ブログに慰安婦のこと書かないで。日本の立場を主張して。」
と言われたことがある。そういう話になる1時間ほど前、彼女は韓国人の悪口で盛り上がっていた。そういう彼女に対して首を縦に振る気にはならない。
「日本人だって苦労した。」
ごもっともである。私の母は満州の引揚者だから、あの時日本人女性たちが頭を丸坊主にしてソ連兵の性暴力から身を護ろうとした話は何度も聞いた。それでも身を護れなかった女性の話も近年になってメディアで取り上げられるようになった。
 身を護れず望まない妊娠をした女性たちが引き揚げてきて堕胎手術を受けた話。同じ村の女性を護るためソ連兵にソ連兵に性接待した女性の話。
 それらの話も記憶に刻むべきだ。そしてなんで彼女たちが人生を奪われたのか、という歴史を学ぶべきだ。日本人である前に人として。
 
 なお、私は韓国人慰安婦の問題を「同胞の若い女」が被害を受けた問題として声を挙げる一部の韓国人には決して同調しない。彼らは被害者を「望んで体を売った」、「金目当て」と貶める日本の「オヤジ」たちの合わせ鏡だからである。
 
 なお、平和の少女像をつくった美術家は中国人やベトナム人の性暴力被害者の像も制作している。彼らはこの問題を国や民族の問題ではなく人間の問題だと理解しているからつながることが出来る。


記憶