久しぶりに能楽を観てきた | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 予備校の古文の授業で教わった「世の中騒がし」という言葉を思い出した。悪性の伝染病が流行している、という意味の言葉だ。今年は1月からコロナウイルスが流行り、世界中が騒がしくなって音楽や演劇といった舞台芸術も大いに影響を受けたが、秋になってぼちぼちと能楽堂での能公演が開かれるようになった。そこで私は2020年10月11日、東京・水道橋の宝生能楽堂の公演を観に行った。
 
 
 
 この日の公演で印象に残ったのは『昭君』である。この曲のモチーフとなっているのは中国・前漢代に実在した王昭君という女性だ。北方騎馬民族の王国・匈奴の王・呼韓邪単于は漢の美女を妻に欲しいと漢の元帝に求め、元帝が政治の具として匈奴に送った女性が王昭君だった。
 物語で伝えられるところによると、王昭君は絶世の美女だった。皇帝が夜の相手を選ぶために後宮の女たちの画姿を観るのだが、他の女たちは絵師に賄賂を贈って自分を美しく描かせる。しかし誇り高き王昭君は賄賂を贈らなかったために絵師は彼女を醜く描いた。皇帝は画姿を観て最も醜いと思った女を匈奴に送ることにしたのだが、そうして遥か彼方へ送られることとなったのは美しく誇り高き王昭君だった、というのが読み伝えらえる話である。
 
 さて、能楽では生身の王昭君は登場しない。王昭君の年老いた父母が、庭の柳が枯れたのをみて娘の死を悟り涙する、といのが前半。前シテ(主人公)の老人と、老女がむせび泣く動作がいい。面の傾け方で人の表情を表現し、手足で人の感情を象徴的に表現するのが能の表現であり、この表現手法は人の心に深く沈んだ怒りや悲しみの表現で静かにそして強く人の心に訴える。そんな能の特性が生かされた前半の舞台である。
 能楽の演者はたいていの場合男であり、今回も男が老女を演じていたのだが、その声がいかにも老女らしかったのが印象的だ。
 後半の舞台は躍動的となる。王昭君の霊に扮した子方(少年)が現れる。それを追って匈奴の王(前シテの老人と二役)が現れて王昭君の老いた母の前で激しく舞うのだが、やがて消えて舞台に静寂が戻る。
 動と静の対比がいい。
 
 
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 さて、能楽の公演が再開したとはいえ、コロナウイルスの感染を防ぐため公演主催者はさまざまな配慮を行なっている。西洋音楽のコーラスに相当する地謡は役者のわきに並んで声を出すのだが、よくよくみると彼らは透明のマスクを着けて声を出していた。
 
 
 観客席は観客が市松状に座るようになっている。それは人が集う他の場所と一緒である。たいていの場所では、人が間隔をあけて座るようにするため、座っていけない場所にその旨を告げる表示をしているのだが、宝生能楽堂ではそれとは多少違うことをしていた。
 人の座らない席の背もたれにはプラスチックシートで補強・防水した紙が紐で固定てあるのだが、そこには座っていけない、という表示に代えて和歌が印刷されている。中には高校の古文の教科書に掲載されているものもある。これらはいずれも能楽の曲中で引用されている歌だ。数ある歌の中から、大学の能楽部員が選んで訳をつけたものがここでは貼り付けられている。
 コロナだ、三密だと世知辛い世だが、こういう世だからこそ己の美意識を高く保たなければならない、と感じさせられた。