箏曲家 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

ある芸術家の追悼文を依頼されたので書いた。昨年(2018年)8月17日、愛知県岡崎市の箏曲家・高瀬悦子さんが102歳で亡くなった。悦子さんの娘で、悦子さんと共同で箏曲一門を主宰していた高瀬紀子さんと私はインターネットで交流していて、年賀状も交換していた。何も知らず今年も紀子さんに年賀状を出したら寒中見舞いが返ってきて、そこで悦子さんが亡くなったことを知った。それから間もなく紀子さんから『岡崎文化』という年刊雑誌とともに追悼文の執筆依頼が届いた。ただのリスナーに過ぎない私が追悼文依頼が来たのか、と驚いたが、いろいろな立場の人が追悼文を書いた方が供養になる、ということなのだろうと思って800字で追悼文を書いて送った。

 

 それが掲載されたのが下の『岡崎文化』第42号である。岡崎の文化人の親睦や交流を目的として発刊されているこの雑誌に、私の文章が載ってしまった。高瀬悦子さんに長年師事してきた門弟の人たちや、古典芸能の世界で悦子さんと対等だったであろう大正琴の師範の追悼文に混じって…。

 

 

 あれは2000年1月のことである。当時私は岡崎に住んでいたのだが、インターネットの岡崎地域情報BBSで箏曲のコンサートが市内であることを知った。当時私は箏曲についてほとんど知らなかったが、日本の古典音楽を是非聴きたいと思い、当日会場へ赴いた。悦子さんたち一門は岡崎市内の公会堂で隔年でコンサートを開催し、古典曲や宮城道雄の曲を演奏している。ところで宮城道雄についてだが、日本で暮らしている人ならば、この人の名を知らなくても彼の代表曲『春の海』は知っているはずだ。この曲はいろいろな場所でBGMとして使われている。

 

 その年の定期演奏会は悦子さんの節目の年のコンサートということで、悦子さんへのインタビューコーナーがあった。

 悦子さんはもともと山田流の門弟だったのだが、流派の異なる宮城道雄の演奏に惹かれ、彼に師事するようになった。インタビューで、初めて宮城から稽古を受けたときの話をするとき、当時80代だった悦子さんは顔を上気させ、少女のような表情を浮かべた。それが強く私の印象に残った。

 

 話は第2次世界大戦中の苦労話、そして師匠・宮城道雄との別れへと続く。1956年6月25日、宮城は演奏旅行のため乗車していた夜行急行列車銀河から転落して一命を落とすのだが、彼が運び込まれた愛知県刈谷市内の病院にいち早く駆けつけたのが悦子さんと伴侶の忠三さん(1998年逝去)(#)であった。東京から遺族が駆けつけるには一日かかる。その間、悦子さんは宮城の遺体を清め、忠三さんとともに音楽関係者やメディア記者への対応をした。

 辛い記憶であろう。それを悦子さんはあの場で語ってくれた。

 悦子さんのお話を聞いていて思い出したことがあった。小学校の音楽の時間、先生が雑談である音楽家の話をしてくれた。その音楽家は眼が見えなかったが、12歳の時から弟子を取るほどの天才だった。しかし、彼は列車からの転落事故で亡くなったという。あの天才音楽家が、今ここで話の中心になっている先生だったのだ!今目の前にいると人が、歴史上の人物を生身の人として語っている。それは私にとって大きな体験だった。

 

 その後、私は娘の紀子さんとインターネットで交流することとなった。当時紀子さんはホームページを運営していて、箏曲のことの他、身の回りの出来事も紹介していた。ホームページで悦子さんは庭仕事をしたり、飼い犬の服を編んだりしていた。そこで、箏曲家とは別の面である、アクティブなおばあちゃまとしての高瀬悦子さんを私はみた。

 

 私が悦子さんをみたのは2018年の演奏会である。体力の衰えた悦子さんは、舞台で自ら箏(こと)を弾くことはなかったが、車いすに乗って舞台袖から弟子たちの演奏を見守っていた。

 

 月並みな言葉だが、私は追悼文をこのように締めくくった。

「高瀬悦子先生のご冥福をお祈りいたしますとともに、高瀬先生が愛されたお弟子の皆様やご家族、そして箏曲界の益々のご発展をお祈りいたします。」

 近頃「国を愛する」とか「日本人としての誇り」とかいった言葉をよく聞くが、そのわりに日本の自然を愛し、日本の文化を愛する、という人は少ないように思える。そして、自国の文化に誇りを持てない人が近隣の国の人々を平気で侮辱しているように思える。自国の人や文化を愛するのと同様に、他国の人や文化を愛する人がこの国に増えた先に、箏曲界の発展もある、と私は思っている。

 

# 高瀬忠三さんは事故後、鉄道関係者や病院関係者に取材して『悲しき記録(宮城道雄最期の記録)』という短いルポをまとめている。当時のメディアの中には宮城が自殺したと報じたところがあったため、これに反論するために忠三さんはルポをまとめたとのことである。現在このルポはインターネットで公開されているが、一芸術家の死の記録としてだけでなく、一鉄道事故の記録としても読みでがあるルポである。