日本海阿房列車(上) | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 森昌子の艶歌で『哀しみ本線日本海』というのがある。あの歌で唄われているのはおそらく秋田か青森の風景だろう。関西を出て日本海に沿って北陸、東北を通り、北を目指す夜行列車で日本海というのがあった。今この列車はないが、現在もこのルートで貨物列車が運行されている。だが、今回私が旅するのはその日本海ではない。日本海の西側である。

 

 京都で京都鉄道博物館と東寺を訪ねたあと、私は京都駅を起点とする山陰本線の客となった。私の乗った特急列車は京都の住宅街を抜けてトンネルに入る。トンネルに入ったところで車掌が来たので車内精算を依頼する。私は福知山までの特急券を購入していたのだが、これを豊岡まで変更してもらうためである。美人の車掌が乗務用端末を操作して作業を始めたところで列車はトンネルを抜けて渓谷を渡る。渓谷を渡ると列車はまたトンネルに入ったので、美人の車掌の精算作業を見る。それを繰り返すうち美人の車掌が精算後の特急券を渡してくれた。やがて列車は福知山駅に停る。京都から乗ったはしだて号はここから京都タンゴ鉄道宮福線に入って天橋立を目指すので私は別の列車に乗り換えなければならない。新大阪から福知山線を経由してくるこうのとり号の自由席車はどこに停るのかとおもってホームを見回すと、駅員が自由席と書いたプラカードを持って現れたので、彼のいる場所で列車を待った。やがて豊岡行の列車が来たのでそれに乗った。

 なお、JRの特急券は原則として1列車の乗車に限り有効だが、私のように福知山駅で特急と特急を乗り継ぐ場合には特例で1枚の特急券で乗車できる。私は先ほど、それに気づいて車掌に精算を依頼したのである。列車は夕刻の豊岡駅に到着した。

 

 

 駅の側線には1970年代に国鉄車両として製造されたディーゼル車が停まっている。そして、機関庫で休んでいるのはDD51型ディーゼル機関車だろうか。かつてこの路線で旅客列車も貨物列車も牽いた機関車である。私も1985年、この機関車が索く客車列車に乗った。明日からの旅への期待が膨らむ。

 

 

 翌朝、私が豊岡駅のホームに立つと、昨日見た車両と同じような車両がホームに入ってきた。40系気動車である。くすんだオレンジ色の塗装は国鉄時代を同じである。蒸気機関車が日本の鉄路から消えたあと、ローカル線の主役となったディーゼル車のうち、普通列車用の車両の塗装には1970年代後半になって首都圏色と呼ばれる塗装が採用された。それがこの塗装である。当時の鉄道ファンはこれをタラコ色と呼んで嫌ったのだが、それが今ではそのタラコ色を楽しんで撮るのだから勝手なものである。今回の旅で私は何本もの列車を乗り継いだが、このタラコ色の車両には何度も遭遇した。

 

 豊岡を出て、城崎温泉を過ぎると、列車は日本海に近いところを走るようになる。私は海が見えるたびにスマホのシャッターを切った。

 

 そのうちに列車は余部鉄橋(あまるべきょうりょう)を渡った。この橋梁は海に山が迫るような地形の場所に鉄道を通すためにかけられた橋である。かつては鉄骨を組み上げた高さ40m余の橋脚に長さ300余の橋桁が渡された姿が美しいとして鉄道ファンの人気を集めた。21世紀になりこの橋はコンクリート橋に掛け替えられたが、橋からの眺望の見事さは今も変わらない。

 

 

 列車が鳥取県内に入ると、どんよりしていた空は晴れて行楽日和となった。そうしたら

「次の由良駅でお降りの方は降りる準備をお願いいたします。」

とアナウンスが入った。

 

  由良駅は一見すると普通のローカル駅のようだったが、屋根の柱に付けた駅名標には〈コナン駅〉と括弧書きがしてあって、その下には人気漫画の主人公が描かれている。そしてこの駅では親子連れがぞろぞろと降りていった。

 

 この由良というところは推理漫画『名探偵コナン』の作者・青山剛昌の出身地で、この駅の近くには彼の漫画のファンのための施設があるのだ。次の次の駅あたりでは、こんなラッピング車両とも遭遇した。

 

 

 

  列車は米子駅に到着した。ホームの向かい側の乗り場で待っていたのは、伯備線から乗り入れてきた115系電車だ。岡山からの電車特急を走らせるため、山陰本線の伯耆大山(ほうきだいせん)ー西出雲間は電化されている。そして、この区間では架線から電気を取る電車も普通列車に使われている。この115系電車は7,80年代ならば関東でも関西でも中長距離の普通列車に当たり前に使われていた。みかん電車と呼ばれていたあの頃の塗装(緑とオレンジ)とは違うが、懐かしい車両である。

 さて、上の写真は列車の後ろ側(米子側)を写したものである。そして途中、対向列車待ち合わせで停車した時に列車の前側(出雲市側)を見ようとホームに出て、驚いた。

 

小さい子供の描いた画の中の電車である。もともと長編成で使うことを前提に製造された115系だがローカル線に転用されるに当たり、中間車に運転台を設けるに際、曲面のあるオリジナルの形状ではなく、コストの低い平面状の形状で顔がつくられたというわけだ。それでもこの電車の車内のボックス席は国鉄時代のままであり、旅情をそそる。

 

115系の車窓に水面がうつる。小さな子供が

「うみ!うみ!」

とはしゃぐ。この水面は日本海ではなく宍道湖なのだが、宍道湖の水は川の水と海の水が混じった汽水である。まあ、これも「うみ」か。

 

 

 出雲市に到着。ここで私はイカヅケ丼を食べ、一畑電車を眺めてから、次の列車に乗り込む。私を待っていたのは国鉄分割民営化後に製造されたレールバスである。

 

 国鉄型よりも小さな車体が一両だけだが、結構な数の人が乗り込む。私と同じボックスにはアベックが座る。さすがにいちゃつきはしないが、気疲れする。私にとっては子供が騒いでいる方がまだ気楽である。まったりと海を眺めているうちに

 

 

 こんな駅にも遭遇する。

 

 

 列車を降りたあと、ホームのヘリに座って休む女子高生がいた。なお、彼女の座っている場所のレールは撤去してあるので安全上何の問題もない。

 

 

2時間程乗ると浜田駅。ここでアベックは降りた。上下の特急列車と待ち合わせたあと、さらに30分も列車は停まる。

 かつて出雲号という夜行列車があった。現在運行されているサンライズ出雲とは異なり、京都から山陰本線を通って西に向かう列車だ。その終着駅が浜田だった。喧騒の東京を夜に出て、京都からは山と海に挟まれた鉄路をゆっくりと進んでここまで到達したのだ。

 

 

 兵庫県の豊岡を朝出て、鳥取県を通って島根県の益田駅に夕方6時過ぎに到着した。酒場で食べたアジの刺身が旨かった。(『日本海阿房列車(下)』へつづく)