桃 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 西暦1600年に「天下分け目の合戦」があった関ヶ原には桃配山(ももくばりやま)と呼ばれる場所がある。

 東海道本線関ヶ原駅で列車を降りて、駅前の店で自転車を借り、しばらく漕ぐと桃配山が見えてくる。そんな高い山ではない。道端に自転車を停めて、1,2分登ればすぐ頂上だ。合戦の時、徳川家康は最初この場所に陣を構えたという。現在もこの場所からは周囲の田んぼを見渡すことができる。

 

 桃配山の案内板を読んで知ったのだが、この場所を合戦場としたのは徳川家康と石田三成の戦争だけではないそうだ。西暦672年に起きた壬申の乱のときもこの場所で合戦があったという。

 645年の大化の改新で権力を得たのは中大兄皇子(天智天皇)だが、彼の没後に、大海人皇子と大友皇子が後継の座を争ったのが壬申の乱である。大海人皇子は天智天皇の弟であり、大友皇子は天智天皇の息子。結果は大海人皇子の大勝利であり、彼は帝位について天武天皇となった。一方、負けた大友皇子は自害。古代の天皇家はこうして身内で殺し合ったのだ。

 まあ、天皇家の骨肉の争いでも、武家の覇権争いでも、兵卒となって危険を冒さなければならないのは庶民なのだが…。

 
 この桃配山にはその大海人皇子のエピソードが残っている。戦争を前にして、この場所に陣を構えた大海人に村人が桃を献上した。その桃があまりにも美味かったもので、大海人はこの一帯の桃を買い取って兵士全員に配った。そうして軍の士気を上げた大海人は戦争に勝利した、という。桃配山というこの山の名前はそのエピソードから付いたものだ。
 
 案内板によると、徳川家康は大海人皇子の逸話にゲンを担いでこの地に陣を構えた、という。だが、1000年足らずでこの場所の地形が大きく変わるわけでなし、兵器も刀や弓矢が主体だ。家康はゲンを担いだ、というより過去の成功例に学んだのだろう。
 
 ところで、3月3日は桃の節句だ。女の子のいる家庭では雛人形を飾り、この日は女の子の日というイメージがある。しかし、桃が象徴するものは女の子の成長ばかりではないだろう。桃配山の話のように、桃は時として武勇を象徴する。日本の有名な昔話に登場するヒーローだって桃の実から生まれたのだ。