小学6年生の社会科の授業で室町・戦国時代を学ぶとき、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のうち誰かについて調べてまとめる、という宿題が出た。私は家にあった小学生むけ図鑑に掲載されていた豊臣秀吉についての記載をようやく、というか丸写しして提出したのだが、小学生にとっては荷の重い宿題だった。
宿題を提出して、次の社会の授業で皆が自分の提出したものを一人ずつ順番に読み上げた。このとき、ほとんどの女子が織田信長についてまとめたと言って発表をはじめたのだが、戦で兵士が敵に捕まって、味方は来ないと仲間に言えと脅されたけれども味方は来ると言って殺されました、と言って尻切れトンボで発表を終えた、なんてことがあった。
女子児童何人かで共同で調べごとをして宿題をまとめようとしたのだが、長篠の合戦のところで息切れした、というわけだ。
そういうわけではないのだが、1575年7月9日(天正3年5月21日)に起きた長篠の合戦は気になるので2026年春分の日の連休に古戦場へ行ってきた。
東京から新幹線ひかり号に乗り、豊橋で飯田線の特急伊那路に乗り継いで午前10時45分本長篠駅着。ここから歩く。12時頃に長篠城に到着。これだったら特急より1本後の普通に乗って長篠城駅で降りても大して変わりはない。到着して、最初に目についた飲食店で昼食を摂ってから長篠城址を散策。

城跡にはサッカーができそうな広場が広がる。451年前、ここには武装した将兵がひしめいていたのだが、今の静けさからはなかなかそれは想像できない。
長篠城は豊川と宇連(うれ)川が合流する場所の近くに今川氏によって造られた城だ。これが徳川氏のものとなり武田氏のものとなり、また徳川氏が獲ったものを武田氏が獲り返そうとして包囲したのが長篠の合戦だ。
現在城跡は敵兵の侵入を阻む木の柵に替わって鉄の網の柵で囲まれている。

その金網に、鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)の磔刑図を印刷した板が取り付けられている。彼こそが女の同級生たちがレポートの末尾で言及した人物だ。
鳥居強右衛門は長篠城主である奥平貞能の家臣だった。長篠城が武田勝頼の軍に包囲されると、貞能は徳川家康に援軍を要請するため、強右衛門を岡崎城に派遣した。
岡崎城に入り、織田・徳川連合軍が長篠に向かう準備が整っていることを知った強右衛門は長篠に戻ろうとするのだが、武田軍に捕まる。援軍は来ない、と長篠城の将兵に向かって言えば命を助けると言われた強右衛門だが、脅しに屈せず織田・徳川の援軍は来ると自軍に向かい、援軍は来る、と叫んで殺された。鳥居強右衛門は死んだが、彼の言葉で励まされた長篠城の兵士たちは援軍が来るまで持ちこたえた。
これが記録に遺る話である。
時代劇でも取り上げられるこの話、実際はどうだったのか。この柵の下は崖になっていて、谷底のだいぶ深いところを豊川が流れる。木が茂っているので谷の向こう側は見渡せないが、すぐ近くを走るJR飯田線の鉄橋をみるとこの谷は結構幅が広そうだ。
では、鳥居強右衛門の叫びは自軍の将兵に届いたのか?
それは分からない。とにかく、この城の兵士たちが持ちこたえたのは事実だ。
彼は死して英雄とたたえられ、後世に語り継がれる存在となった。
しかし、戦いとか戦争とかつくものには数知れない兵士の死が伴なう。彼らの遺体は家族のもとに帰ることはない。武具はもちろん衣類もはぎとられ、あとの骸(むくろ)は野犬や烏に食い散らかされるのだ…。
しばらく城跡の風景を眺めた後、谷の向こう側に行く。幹線道路を歩き、豊川の橋を渡ったところで脇道に進み、さらに未舗装道路を歩いてようやくあの兵士の最期の地に着く。こちらからも城の様子はわかりづらい。

また舗装道路に戻り、しばらく歩くと「鳥居強右衛門の墓」という標識がある。新昌寺という寺の墓地に彼の墓もあるのだが、現在の墓石は18世紀に建立されたもので、墓所は大正年間に整備されたものだそうだ。
この寺のそばに飯田線の駅がある。その名は鳥居。
さて、強右衛門が自軍に告げた通り織田・徳川連合軍がやってくると、戦場は長篠城の南にある設楽原へ移ったので、私はそこへ足を延ばすことにした。ペーパードライバーの私が公共交通に頼れない場所を旅するならば歩くしかない。飯田線大海駅近くまで南下して、外で仕事をしている人に長篠・設楽原合戦場跡はどちらですか、と尋ねたら相手はびっくりした。その人から教わった方角へ歩いて行って、新東名高速道をくぐってからまた人に聞いて、丘を登って、着いたところが新城市設楽原歴史資料館。
この合戦は織田軍の鉄砲が威力を発揮した、とよく言われる。鉄砲が本格的に使用された初めての合戦だという人もいる。そういうことで館内にはたくさんの鉄砲が陳列されているが、戦国時代のものばかりではないようだ。口径が5cmくらいありそうな大筒もあったが、これは戦闘ではなく専ら庶民が狩猟に用いたものだと収蔵後の研究で分かったという。銃の付属品として、亀の甲羅でつくった火薬入れ、なんていうものもあった。
展示品を観た後、入館券を売っていたスタッフにJRの駅までの道を聞いたら
「バボーサクには行かれましたか?」
と聞かれた。そういえばここに来るまでに道を教えてくれた人たちもバボーサクと言っていたが、それは織田・徳川連合軍が武田軍の騎馬部隊の通行を妨げるためにつくった馬防柵のことだった。スタッフから資料館の周辺地図をもらい、駅へ向かう前に馬防柵を観るため丘を降りた。そこには丘と丘との間に造成された南北に細長い耕作地があり、その端に馬防柵が再現してあった。
長篠・設楽原の合戦については諸説があり、鉄砲を持った足軽が三段構えで銃撃をしたというのは後の作り話だ、なんていう話や、武田信玄の跡を継いだ勝頼は重臣たちに支持されず、武田軍が自滅した、とかいう話も聞いたことがある。この合戦では武田軍も織田軍を上回る数の鉄砲を有していたようだが、こういう柵で織田・徳川連合軍が武田軍の騎馬部隊の動きを制約したことが戦果につながったのだろうか。

この古戦場で観るべきものは観た。あとは三河東郷駅まで歩いてJRの客となった。本長篠駅から三河東郷駅まで鉄道の行程は7.1km。この日私はどれくらい歩いたのだろうか。