Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

  忌野清志郎のおっちゃん、今年もあんたのくたばった日がやってきた。あの世からのこの世の眺めはどうだい?こっちはひっちゃかめっちゃかだ。

 

 ロシアがウクライナを攻めて、イスラエルがガザを攻めて、それもまだ終わっちゃいないのに今度はアメリカがイランを攻めている!

 戦争をやっている奴らは、みんな自分の信じている神様が正しい、と言っている。だけどもさ、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、みんな同じ神様なんだ。あいつらの神様の教えには殺すな、と書いてある。でも戦争をしている連中にはそんなの関係ないんだ。

 

 

 

 戦争でどっちが勝ったか負けたかなんてわかるもんか、わかるのは罪のない人がたくさん殺される、ってことだ。「大東亜戦争」のとき、俺の親父もお袋もガキだった。あの時親父顔袋に何かあったら俺はいなかった。だから俺は戦争に反対だ。

 

 だいたい、石油のない、レアメタルもない日本が戦争やったらどうなるんだ?

 

 でも、今戦争のない日本でも、戦争反対を叫ぶことには勇気がいるようになった。

 

 学校で戦争はいけないと教えたら偏向教育だってさ。

 

 沖縄の辺野古沖で、研修旅行中抗議船に乗っていた高校生が転覆事故で命を落とした。起きちゃいけない事故が起きた。二度とこんなことをおこさないようにしなきゃいけない。

 でも大人たちはこの事故を利用して偏向教育がどうのこうのと騒いでいる。

 そもそも、狭い日本の端っこの小さな島に、なんで米軍基地を押し付けなきゃならないんだ?中国や北朝鮮の脅威だの地政学だのどうのこうのといって、自分の住んでいるところさえ無事ならいい、と大人は思っているんだろ?

 嫌なものは誰かに押し付ける、それはいじめだよ。

 

 まだまだおかしなことがある。武器輸出解禁だ。朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも日本はアメリカの補給基地になって、日本の産業界は儲かった。

 高石早苗さんは

「時代が違う。」

というけれど、はっきり言って薄っぺらな言葉だ。売って儲かればもうかるほど、武器商人は武器を売りたくなる。人間の欲望ってそういうもんだろ。メイド・イン・ジャパンの武器をつかって遠くの国で罪のない子供が殺される。

 だめだ、それは。

 

 国民は物価高だ、老後は、子供の教育はどうしよう、と悩んでいるときに、高市早苗さんは国旗損壊罪をつくろうとしている。そのうち、こんなやっても犯罪になっちまうんだな。

 

 

 

 中国や北朝鮮はひどい国だと言いながらあの国の偉い奴らと同じことをやろうとしてるんだよ、あいつらは。

 

 だけど絶望するもんか。したたかに生きろ、とあんたは教えてくれた。

 

 忌野清志郎よ、安らかに眠るな。

 

 

 

 

 

 中国浙江省紹興は紹興酒の起源として有名な街である。この街に「孔乙己(コンイーチー)」という居酒屋があること最近知った。この店の名はこの街で生まれ育った作家・魯迅の小説からとった名だ。『孔乙己』は以前にも読んだ作品だが、その居酒屋のことを知ったら気になったので読み返した。

 

 『孔乙己』の舞台は街の居酒屋だ。そこの常連客に、知識人の格好をして難しいことばかりしゃべる男がいた。子供が最初に字を習う手本の言葉から付けられた彼の綽名が孔乙己だ。子供の頃は恵まれた環境で科挙合格を目指して勉強してた彼だが、今は困窮し、盗みを働くようになった。そのうちに盗みを働いた先で脚の骨を折られ、不自由になった身体で酒を呑みに来るのだが、それきり誰も彼をみかけなくなる。

 革命により清王朝が倒れて変わりゆく時代に順応できなかった者の悲哀を描いた作品だ。

 

 魯迅の代表作『阿Q正伝』を読んでいるとき、中国人の同僚にこの本を見せたら

「阿Qは壁に頭をぶつけられても『息子に殴られたようなものだ』という。」

と面白がった。彼(1970年生まれ)は中学生のとき授業で魯迅の小説を暗唱させられた。その話を聞いて気の毒だと思ったがそれで彼は魯迅を嫌いになったわけではなかった。

 

 阿Qは村の祠で寝起きし、日雇いで暮らす男で、彼の名前を誰も知らない。

 同僚が指摘するように、彼が喧嘩をして、辮髪の根元をつかまれ壁に頭をぶつけられる話が何度も出てくるのだが、その度に彼は強がる。学園ものの漫画で、喧嘩でぼこぼこにされても負けと思うまで負けじゃない、と強がる突っ張りが出てくることあるが、あれを思い出す。

 辛亥革命で阿Qのいる村も物騒になるのだが、革命党が金持ちの家を略奪すると、阿Qがそれに乗じて騒ぐ。そうすると彼は革命党の一味と疑われ捕まってあっけなく処刑される。

 これもまた時代の変化にもてあそばれたものの物語だ。

 

 魯迅本人の生家の没落を描いた『故郷』は中学の授業で読んだ作品だ。

「本来道はないが、歩く人が多くなると、道となるのだ。」

という最後の言葉があの時の私の心に残った。

「魯迅は医者になるため日本に留学したのだが、そのとき日本人が中国人の首を斬って殺しているのを周りの人が笑って見ている幻燈をみて彼は医者になるのをやめて作家になった。」

とあの時先生が話してくれた。

 魯迅が学んだ学校は仙台医学専門学校で、東北大学医学部の前身となる学校だが、あの時は私も東北大学で学ぶことになるとは予想もつかなかった。

 

 

 原子力発電の問題について継続的に本を執筆している青木美希がまた本を出したので買って読んだ。本のタイトルは『それでも日本に原発は必要なのか?』(文春新書)。

 青木は2023年にも文春新書から『なぜ日本は原発を止められないか』を出している。『なぜ~』では日本の原子力発電は核兵器とは関係あるのか、という話をしていたが、前著と紛らわしいタイトルの本著では原発に替わるべき再生エネルギーの話に重きが置かれている。

 

 

 本書では太陽光発電や風力発電といった再生エネルギーによる電力供給を始めたものの頓挫する事例がいくつも取り上げられる。原子力発電は出力の調整ができないから、その分他の電力の供給量を調整しなければならない。だから再生エネルギーの事業者は出力を抑制させられ、採算が合わなくなるのだ。

 
 1980年代だと日本のメーカーが太陽電池の技術で最先端を行っていたのだが、今は中国のメーカーに大きく差をつけられている。
 これもエネルギー技術開発に関する国家予算の多くが原子力に割り振られてきた結果なのだ。
 
 本書では再生エネルギーをめぐる海外(ドイツ、イタリア、韓国)の事情を取り上げる。さらに日本では自民党政治家と電力業界、野党の国民民主党と電力総連(電力会社の労組)が互いに強く結びつき、再生エネルギーの普及を阻んでいる事情を著者は詳細に書き記している。
 
 こういう厳しい状況だが、福島の原発事故で今も苦しむ人を見たならば、二度と原発事故を起こさないため、原発はなくすために行動しなければならない、そういう著者の思いを私も共有したい。
 

 

 

 ところで、著者の青木美希は朝日新聞に所属しているが、記者の職からは外されている。この本の取材、執筆はすべて勤務時間外になされている。もちろん朝日新聞やその系列の出版社から著書を出すことはできず、文春新書からの出版となった。よく朝日は左で文春は右なんてことをいうがそう単純なものではない。文春に関して言えば、雑誌とそれ以外の出版物とでは編集者が異なるわけだし、朝日は広告収入に頼るところが大きいのは読売や産経と変わらない。

 小学6年生の社会科の授業で室町・戦国時代を学ぶとき、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のうち誰かについて調べてまとめる、という宿題が出た。私は家にあった小学生むけ図鑑に掲載されていた豊臣秀吉についての記載をようやく、というか丸写しして提出したのだが、小学生にとっては荷の重い宿題だった。

 宿題を提出して、次の社会の授業で皆が自分の提出したものを一人ずつ順番に読み上げた。このとき、ほとんどの女子が織田信長についてまとめたと言って発表をはじめたのだが、戦で兵士が敵に捕まって、味方は来ないと仲間に言えと脅されたけれども味方は来ると言って殺されました、と言って尻切れトンボで発表を終えた、なんてことがあった。

 女子児童何人かで共同で調べごとをして宿題をまとめようとしたのだが、長篠の合戦のところで息切れした、というわけだ。

 

 そういうわけではないのだが、1575年7月9日(天正3年5月21日)に起きた長篠の合戦は気になるので2026年春分の日の連休に古戦場へ行ってきた。

 

 東京から新幹線ひかり号に乗り、豊橋で飯田線の特急伊那路に乗り継いで午前10時45分本長篠駅着。ここから歩く。12時頃に長篠城に到着。これだったら特急より1本後の普通に乗って長篠城駅で降りても大して変わりはない。到着して、最初に目についた飲食店で昼食を摂ってから長篠城址を散策。

 

 

 城跡にはサッカーができそうな広場が広がる。451年前、ここには武装した将兵がひしめいていたのだが、今の静けさからはなかなかそれは想像できない。

 長篠城は豊川と宇連(うれ)川が合流する場所の近くに今川氏によって造られた城だ。これが徳川氏のものとなり武田氏のものとなり、また徳川氏が獲ったものを武田氏が獲り返そうとして包囲したのが長篠の合戦だ。

 現在城跡は敵兵の侵入を阻む木の柵に替わって鉄の網の柵で囲まれている。

 

 

 その金網に、鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)の磔刑図を印刷した板が取り付けられている。彼こそが女の同級生たちがレポートの末尾で言及した人物だ。

 鳥居強右衛門は長篠城主である奥平貞能の家臣だった。長篠城が武田勝頼の軍に包囲されると、貞能は徳川家康に援軍を要請するため、強右衛門を岡崎城に派遣した。

 岡崎城に入り、織田・徳川連合軍が長篠に向かう準備が整っていることを知った強右衛門は長篠に戻ろうとするのだが、武田軍に捕まる。援軍は来ない、と長篠城の将兵に向かって言えば命を助けると言われた強右衛門だが、脅しに屈せず織田・徳川の援軍は来ると自軍に向かい、援軍は来る、と叫んで殺された。鳥居強右衛門は死んだが、彼の言葉で励まされた長篠城の兵士たちは援軍が来るまで持ちこたえた。

 これが記録に遺る話である。

 

 時代劇でも取り上げられるこの話、実際はどうだったのか。この柵の下は崖になっていて、谷底のだいぶ深いところを豊川が流れる。木が茂っているので谷の向こう側は見渡せないが、すぐ近くを走るJR飯田線の鉄橋をみるとこの谷は結構幅が広そうだ。

 

 では、鳥居強右衛門の叫びは自軍の将兵に届いたのか?

 

 それは分からない。とにかく、この城の兵士たちが持ちこたえたのは事実だ。

 彼は死して英雄とたたえられ、後世に語り継がれる存在となった。

 しかし、戦いとか戦争とかつくものには数知れない兵士の死が伴なう。彼らの遺体は家族のもとに帰ることはない。武具はもちろん衣類もはぎとられ、あとの骸(むくろ)は野犬や烏に食い散らかされるのだ…。

 

 しばらく城跡の風景を眺めた後、谷の向こう側に行く。幹線道路を歩き、豊川の橋を渡ったところで脇道に進み、さらに未舗装道路を歩いてようやくあの兵士の最期の地に着く。こちらからも城の様子はわかりづらい。

 

 

 また舗装道路に戻り、しばらく歩くと「鳥居強右衛門の墓」という標識がある。新昌寺という寺の墓地に彼の墓もあるのだが、現在の墓石は18世紀に建立されたもので、墓所は大正年間に整備されたものだそうだ。

 この寺のそばに飯田線の駅がある。その名は鳥居。

 

 さて、強右衛門が自軍に告げた通り織田・徳川連合軍がやってくると、戦場は長篠城の南にある設楽原へ移ったので、私はそこへ足を延ばすことにした。ペーパードライバーの私が公共交通に頼れない場所を旅するならば歩くしかない。飯田線大海駅近くまで南下して、外で仕事をしている人に長篠・設楽原合戦場跡はどちらですか、と尋ねたら相手はびっくりした。その人から教わった方角へ歩いて行って、新東名高速道をくぐってからまた人に聞いて、丘を登って、着いたところが新城市設楽原歴史資料館

 この合戦は織田軍の鉄砲が威力を発揮した、とよく言われる。鉄砲が本格的に使用された初めての合戦だという人もいる。そういうことで館内にはたくさんの鉄砲が陳列されているが、戦国時代のものばかりではないようだ。口径が5cmくらいありそうな大筒もあったが、これは戦闘ではなく専ら庶民が狩猟に用いたものだと収蔵後の研究で分かったという。銃の付属品として、亀の甲羅でつくった火薬入れ、なんていうものもあった。

 

 展示品を観た後、入館券を売っていたスタッフにJRの駅までの道を聞いたら

「バボーサクには行かれましたか?」

と聞かれた。そういえばここに来るまでに道を教えてくれた人たちもバボーサクと言っていたが、それは織田・徳川連合軍が武田軍の騎馬部隊の通行を妨げるためにつくった馬防柵のことだった。スタッフから資料館の周辺地図をもらい、駅へ向かう前に馬防柵を観るため丘を降りた。そこには丘と丘との間に造成された南北に細長い耕作地があり、その端に馬防柵が再現してあった。

 長篠・設楽原の合戦については諸説があり、鉄砲を持った足軽が三段構えで銃撃をしたというのは後の作り話だ、なんていう話や、武田信玄の跡を継いだ勝頼は重臣たちに支持されず、武田軍が自滅した、とかいう話も聞いたことがある。この合戦では武田軍も織田軍を上回る数の鉄砲を有していたようだが、こういう柵で織田・徳川連合軍が武田軍の騎馬部隊の動きを制約したことが戦果につながったのだろうか。

 

 

 この古戦場で観るべきものは観た。あとは三河東郷駅まで歩いてJRの客となった。本長篠駅から三河東郷駅まで鉄道の行程は7.1km。この日私はどれくらい歩いたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 いま、韓国へ旅行したいと思っているのだが、そう思って書店へ行ったらこんな本を見つけたので買って読んだ。

 

 

 本のタイトルは『歴史を見つめる~日韓の大切な人たちとともに』(柘植書房新社)。著者の宮内秋緒は大学で韓国語を学び、韓国に留学後、韓国人と結婚して韓国で生活している。彼女が子供を現地の小学校に通わせていた時、同じように子供を学校に通わせている日本人女性たちと交流したのだが、自分たちが学校で教わった歴史と、子供たちが学校で教わる歴史が違うことに戸惑う、という話を聴いて、彼女は母親仲間たちと一緒に歴史の勉強会をした。

 この本はその勉強会がきっかけで制作されたものだが、時として専門性の高い内容を分かりやすく書いている。

 

 本は日本と朝鮮半島の古代の古代史から始まる。仏教などの大陸の文化は中国から直接もたらされたものもあれば、朝鮮半島からもたらされたものもある。こういう話を読みながら、そういえば高松塚古墳に描かれた女性の衣裳はチマチョゴリに似てるな、ということも思った。

 近代には日本の為政者が朝鮮半島の人びとを苦しめたが、日本列島と朝鮮半島の間で友好的に人や物が行き来した時代の方が長いのだ。

 日本では明治維新後、欧米列強に倣って国を近代化した後、為政者たちが大陸進出へと眼を向けることとなる。そして彼らが当時の朝鮮王朝から主権を奪っていった過程も丁寧にこの本では解説されている。

 

 こうやって日本人がアジアで悪いことをしたように言うと自分が日本人であることに誇りを持てなくなるではないか、という人もいる。

 さて、そうだろうか。

 

 著者の子供が小学校に通っていた時、子供が同級生から「日本は韓国に悪いことをした。」「独島(ドクト。日本名・竹島)は韓国のものだ。」と言われて傷ついたことがあったという。その時彼女は学校の先生に子供が傷ついたことを率直に伝え、加害児童から当人に直接謝罪してもらった。運動会で独島に関するプロパガンダ音楽が使われると知ると、やはり率直にそのことを先生に伝え、そういう曲を使うことをやめてもらった。

 

 竹島問題について著者は、それが日本と韓国どちらのものか、という話はしない。日本と韓国の為政者がそれぞれ自分に都合の良い古文書や古地図を引用して「自国の立場」を主張することを彼女は批判する。日本が韓国・朝鮮に対する加害の事実を認め、両者間の信頼関係が構築されてから、領土問題について一致点を探るべきだ、という著者の主張に私は賛同する。

 

 

 

 2026年3月16日、沖縄・辺野古で研修旅行中の高校生を乗せた船が転覆し、船長と女子生徒が亡くなった。二人の死を悼む。
 女子生徒は英語が堪能で、国際的な仕事に就くことを目指していたという。事故がなければどんな未来が開けていたのか。悲しい。
 
 亡くなった船長を含め、船の運航にたずさわった人たちの責任は明らかにされなければならない。事故の再発を防ぐためにそれは必要だ。
 
 だが、関係者の責任を明らかにすることと、誹謗中傷は別だ。
 
 ネットでは生徒たちの通っていた同志社国際高校の教師が偏った教育をしていたとか、生徒達を基地反対運動に動員していたとか、そんなことを言いたい放題にしている者たちがいるが、それには異をとなえる。
 ネットメディアの中には、負傷して救助を待つ女子生徒達を興味本位で撮った写真を掲載したところもある。彼女たちの顔はうつっていないとはいえ、これはリンチだ。
 
 いったい、偏った教育とは何だ?それでは中立公正な教育とは何だ?
 国の指導者の考えとは異なる見方を教える、世の中の少数者の見方を教える、それのどこが偏っているのだ?政府の発表以外は教えるな、というのでは中国のような強権国家と一緒ではないか。
 
 高校生なんて世俗のことにしか興味はない、という人もいるだろう。確かにそういう高校生も多い。私が高校生だった1980年代もそうだ。しかし、社会問題について議論し合う高校生だっていた。それは先生に強制された、とか誘導された、とか言うものではない。
 
 私が高校1年のとき、3年生の先輩で文化祭の時社会問題研究会をつくってパンフレットを制作した人たちがいた。彼らの中には女性の自立について関心のある女の先輩がいて、彼女の考えに刺激を受けた。
 
 私は3年生のとき、高速道路のもたらす環境破壊について調べて文化祭で展示発表をした。私と入れ違いに入学した女子生徒は原子力発電について文化祭で展示発表した。
 
 あのとき、私達を見守って下さった先生方に感謝する。
 
 私が高校生の頃、熱心に英語を勉強する女子生徒たちが多かった。今回亡くなった生徒が英語が堪能だった、というニュースを聞いて彼女たちを思い出す。
 彼女は研修旅行から無事帰ったらそれから先さらに視野を広めただろう。そして学んだ英語をどんなことに生かしただろう…。
 
 

 

 以前、とある文化交流イベントで怪しげなロックバンドに遭遇したことがある。彼らは顔をお化けのように白く塗っていて、男性メンバーの中には女装していた人もいた。彼らのうちの何名かは障害者だった。なにか、これから見世物をみるような戸惑いを覚えた。

 しかし、彼らが声を張り上げて歌い出すとその戸惑いはいっぺんに吹き飛んだ。

 

 

 

  彼らの名前はスーパー猛毒ちんどん。その名の通り毒のあるバンドだ。障害者は施設ではなく地域で生きるべきだとして、普段彼らはさいたま市でにじ屋というリサイクルショップを営んでいる。

 

 そんな彼らもパンデミックが起これば歌の方を休んで日常生活を守らなければならない。しかし、休眠を終えてついに彼らは復活ライブを挙行することとなった。そして2026年3月14日夕方、私は埼玉県所沢市にある音楽喫茶MOJOへ赴いた。

 

 

 前座のバンドが歌い終えると、ついに彼らは舞台に現れた。初めて彼らを知って12年。時間は彼らにも私にも平等に過ぎていった。

 

 

 照明が落ちた。歌が始まる。

 しゃべくり役の男性、チマチョゴリ姿でキョンシーのように踊る女性、半裸で腕を振り回す男性…。時は経ってもあの時のままだ!

 

 数え歌で

「八つ 敗れた恋ばかり恋ばかり」

そうだよな、人生思うようにいかないよな。と思う。そうしたら今度は車椅子の女性が「昭和」のアイドルのテイストで歌うのだが、この歌では彼女と同じ障害を持った女の子が

「あなたをよろこばせられない。」

好きな男の子への告白を諦めている。

 

 

労働歌『がんばろう』の合唱もあった。こんな歌、私(1969年生まれ)の年代で知っている人は少ないだろう。だけど彼らと一緒にこぶしを突き上げる。

 

 初めて彼らを知った時にはなかったレパートリーも披露された。そこで彼らは

「俺たち殺されるために生まれたわけじゃない」

と叫ぶ。そうだ、これは2016年、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺人事件をモチーフに生まれた歌だ。

「障害者は不幸しか生まない。」

と犯人の男は逮捕後供述したというが、悲しいことに多くの人が彼と似た考えを持っている。そして人を選別する思想は私のなかにも潜んでいる。

 だが、だれもが殺されるために生まれてきたわけではない。世界中で戦争が起きている今、それを叫ばなければならない。

 

 さて、ライブは終わりに近づいた。ありがとう、と彼らが叫ぶ。私もありがとう、と叫ぶ。

 また会おう。

 

 

 2026年3月14日、東京・虎ノ門で反戦集会に参加した。会場の近くにはアメリカ合衆国大使館があるが、大使館前の場所は警察から使用許可が出ないのでその近くの大通りに面した広場が会場となった。

 在日イラン人が開催したこの集会では、イラン人らしい男女がイランに住む共和国の国旗を掲げている。

 会場に広げられたペルシャ絨毯には、米軍の空爆で死亡した子供たちの写真や、布に包まれた遺体に似せた立体作品などが飾られている。

 

 

 集会が始まった。イラン人たちが、ペルシャ語、英語、日本語で米軍やイスラエル軍による攻撃を非難する。

「Free, free Palestine!」

というコールも挙がる。イスラエルに攻撃され、住民が住む場所を奪われているパレスチナに連帯してのことだ。会場にはパレスチナ国旗も掲げられている。

 

「アメリカは攻撃をやめろ。」「罪のない子供たちを殺すな。」

これらのコールには私も一緒に声をあげた。

「アメリカに死を。」「イスラエルに死を。」

故郷を攻撃されている人たちの怒りは分かるが、このコールに私は同調しなかった。

 

 やがて、東アジア系の男性も発言をした。その人は在日コリアンだった。そういえば、この集会を私が知ったのはFacebookでの在日コリアンの投稿だった。今回発言したのはその人だろうか。

「半島が統一されるまで、祖国の解放はありません。だから私はイランやパレスチナの人びとに連帯します。」

そうだ。現在朝鮮半島が南北に分断されているのは、第二次世界大戦後に始まった米国とソ連の代理戦争の結果なのだ。そして南北分断の歴史は日本帝国主義による朝鮮支配の歴史から連続している。

 

 

 そのうちに私たちの背後から何か叫び声が聞こえた。イラン人男性が怒りを込めて何かを叫ぶ。集会の進行役のイラン人女性が

「向こうは気にしない。こっちに集中。」

と男性を叱る。

 叫んでいる人たちも旗を持っている。色遣いは現行のイラン国旗と似ているが、中央にライオンの紋章が描かれているところが違う。1979年のイラン革命前の、この国がイラン帝国と名乗っていた時代の国旗だ。イラン国旗と星条旗、イスラエル国旗を掲げた街宣車も現れた。

 米国や日本で暮らすイラン人の中には、今回米軍がミサイル攻撃でイランの最高指導者を殺害したことを歓迎する人たちもいる。現在のイランでは国民が抑圧されている、だから米国、イスラエルの攻撃によってイランで体制転換が起きることを彼らは期待している。

 

 確かに今のイランでは国民が抑圧されている。一方、1979年以前のイランでは女性にスカーフ着用は強制されていなかったが、やはり言論の自由はなかった。現体制と王政の違いは米国の資本家にとって都合がよいかどうかの違いなのだ。

 

 とにもかくにも、私は米軍によるイラン攻撃を非難する立場に立つ。

 

 

 

 

あなたもスタンプをGETしよう

 

 アメリカ合衆国とイスラエルの軍隊がイランを攻撃している。それに関してイラン出身の女優・サヘル・ローズが平和への思いをⅩに投稿したら「安全な場所から平和を語るな」とか「止めたいなら現場へ行け」などというコメントが彼女に返ってきたという。彼女が戦災孤児であることを知ってのことなのか。

 

 

 その他にも音楽評論家・湯川れい子が自分の戦争体験をⅩに投稿すると「(終戦時に9歳だった者の体験は)戦争体験には入らない」という投稿があったという。いったい人生の大先輩に何を言うのか。

 

 

 私の父は湯川れい子より1歳幼い8歳で敗戦を迎えた。私はその父の体験を聴いて育ったが、父の体験もまた、戦争体験ではない、というのか。

 1945年3月10日、父は東京・本郷で東京大空襲に遭遇した。当時父は病弱で床に臥せっていて、祖母が父をおぶって避難した。

 被災後父たち家族は東京都八王子市へ移転した。八王子では体力もついて外遊びができるようになったのだが、そうしたら米軍機の機銃掃射に遭遇して死にかけた。

 

 母は戦争のことを知らないという。母は4歳の時「満州」で敗戦を迎えたのだが、それでもソ連兵たちが家に上がり込んできて金目のものを持ち去って行ったことは覚えているという。

 

 もしも父が東京大空襲で灰になっていたら、母が大陸に取り残されていたら、私は生まれてこなかった。

 

 戦時中子供だった人の体験は戦争体験ではない、ということを私も言われたことがある。それは1985年のことで、第二次世界大戦中兵士だった人の体験を聴く機会を持てたころのことだ。そういうことを私に言った人はシベリア抑留を経験した人だった。人は誰でも自分の体験を基準に物事をとらえたくなるものだ。その人の体験の壮絶さを思えば、どんなことが戦争体験かについてその人に対してあれこれ言い返そうとは思わない。

 

 しかし、湯川やサヘルに対して攻撃している人たちは兵士としての体験はしていないだろう。そして、兵士や住民を数で理解し、自らは危険を冒さずに命令を下す司令官の視点で戦争をみているのではないか。

 では、彼らは元兵士の話ならばその全てを信じるのか?元兵士が勇ましい話をすればそれに賛同するだろう。しかし、元兵士が自分は罪のない民間人を殺してしまっただとか、「慰安婦」は可哀そうだったとか、自分のフィルターに引っ掛かる話をすればそれは嘘だ反日だ、と騒ぐのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2026年2月28日、アメリカ合衆国とイスラエル軍がイランへの攻撃を開始した。学校が襲撃され、子供たちが多数死傷した、という報道もある。最高指導者・ハイメイ師が死亡した、という報道もされた。
米国の後押しでイスラエルのシオニストによるパレスチナ人虐殺が続く中、また戦争かよ、と思う。
 
 これまでのイランの体制は国民を抑圧するものだった。しかし、それはこの国を攻撃してよい、という理由にはならない。トランプ大統領はイラン国民に体制転換を呼びかけたが、これにどれだけの人が従うというのか。
 
 ロシアや中国の体制と較べてどれがまともか、と言っている場合ではない。
 
 神がこの世におわしますというのなら、いったいどれだけの人が人生を台無しにすれば神は満足するのか。