Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 先日、朝のニュースを観ていたら学童疎開船・対馬丸のことを取り上げていた。対馬丸沈没から80年、というニュースだ。

 

 対馬丸は日本郵船の貨物戦だが、第2次世界大戦中の1944年8月22日、沖縄から本土へ疎開する子供たちを乗せて長崎へ向かう途中米軍の潜水艦に攻撃されて沈没した。ウィキペディアの記事によると、撃沈による死者は1,484名。その多くは子供達だ。

 

 対馬丸が撃沈された時、対馬丸を含めた3隻の民間船で船団が組まれていた。ニュースでは同じ船団の船から対馬丸の沈没を目撃した女性の証言を伝えていた。疎開では学校ごとに乗る船が決まっていたのだが、女性の在学していた国民学校(小学校)は搭乗の直前になって乗る船が対馬丸から別の船に変更になったという。提島丸が攻撃され、沈み始めるとき女性は甲板からそれを見ていたのだが、怖くなって船倉に逃げ、最後までは見ていないと話していた。

 

 

 

 1937年生まれの父は幼いとき沖縄にいた。那覇の公設市場や首里城、沖縄県営鉄道の汽車が記憶に残っているという。当時祖父は貿易会社の那覇事務所に勤務していたのだが、1941年、日米開戦が叫ばれる頃に祖母の兄から沖縄を出るよう指示する手紙が来たという。日米開戦となればいずれ沖縄で戦闘が行われる、その前に逃げろ、と祖母の兄は書いてよこしたのだ。

 

 そういう手紙が「矢のように」来て、祖父は沖縄を出る決意をする。日本海軍の戦闘機が真珠湾を攻撃し、日米開戦となったのはこの年の12月だが、父たちはその12月に沖縄を発ち、翌1942年の正月は本土で迎えた。

 真珠湾攻撃から1942年6月のミッドウェイ海戦まで、日本と米国の戦争は日本有利で進んでいたといわれているが、この頃はすでに米軍の潜水艦が日本の船舶を狙って東シナ海に潜んでいた。父たちの乗った船はそういう潜水艦を警戒しながら航行し、平時なら2日で行けるところを7日かけて鹿児島港へ入港したという。

 

 そもそも沖縄の子供たちの疎開は近い将来沖縄で米軍との決戦が行なわれる、という認識のもとで実行された。すでに東シナ海の制海権は米軍に握られている中、艦船ではなく老朽化した民間船を用いた危険な航海だった。それは子供たちを戦火から守る、というよりも戦争の足手まといになるから移送する、というものだったのだ。

 

 ところで、私は女性の証言をNHK総合6時30分台のニュースで聴いたのだが、出勤の時間が近づいていたので途中で聴くのをやめて身支度を始めた。この日、6時30分台のニュースのトップは「天皇皇后両陛下、那須御用邸でご静養」というものだったが、対馬丸をトップに持ってくれば最後まで証言を聞けたのに、と思った。

 

 そもそもあの戦争、1943年頃から日本の敗色が濃くなり、国体護持のため続けられていた。国体とは天皇制のことだが、それを守るためにどれだけの人が命を落としたのか。せめてソ連参戦の前に戦争を終えていれば朝鮮半島の分断もなかった。

 

 この国ではいまだに人の命に軽重が付けられている、と思わされる朝のニュースだった。

 

 

朝ドラマ『虎に翼』のネタである。

1953年、裁判官・三淵嘉子をモデルとした主人公・寅子が新潟地裁三条支部に勤めていた時、美佐江という少女と出会う。法律家を志望する聡明な彼女に寅子は関心を持つのだが…。

 

 新潟で相次いで少年による窃盗事件が起こる。売春をして少女が相次いで摘発される。彼らは美佐江に窃盗や売春を唆された可能性がある。

 そのことを寅子が美佐江に問いただすと

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」

「悪い人の物を盗ったり、自分の身体を好きに使ったりしてはいけないのですか?」

氷のような笑みを浮かべて美佐江は問い返す。

 

「どうして身体を売ってはいけないの?」

そういう問いは戦争が遠い昔の話になっても繰り返される。

1980年代、女子大生が身体を売る、という話がよく週刊誌で取り上げられた。

私は小学校高学年から中学生にいたる時期だったが、親の読み終えた週刊誌でこういう話を読んだ。

「貧乏のため泣く泣く身体を売るのは昔の話。いまどきの女子大生はルンルン気分で身体を売る。」

 

 1990年代、今度は女子高生の援助交際が問題となる。彼女たちはブランド物目当てで身体を売ったのだという。

 女子大生から女子高生へ、メディアが面白かしく取り上げる対象の年齢を低くした、そういう時期の話だ。

 

 

 私の話になるが、私は50歳代で独身だ。「縁がなかった」という言い方もあるが、私にとっては恋に破れやぶれての結果だ。

 30歳前後の頃は独身で交際相手もいないことであれこれ言われた。

 

「風俗いかないと視野が狭くなる。」

酒の席でそういった友もいた。私が買春をするまいと思ったのは、日本の男たちが当時強かった円を携えてタイやフィリピンへ若い性を買いに行く、という話だとか、第二次世界大戦中の従軍慰安婦(彼女たちは娼婦だという者もいるが、性奴隷にせよ娼婦にせよ、彼女たちが日本の軍国主義により人生を奪われたことに変わりはない)の話だとかのいろいろ知ってのことだ。

 今頃エリート街道を進んでいるであろうこの友の視野は社会の影の部分には向けられていない。

 

「風俗いかないで、初夜の時『ボク、童貞です。』なんて言うのは恥ずかしいぞ。」

居酒屋で親しくなった人にはそういわれた。けれども女は処女で初夜を迎えることがよしとされる。現実に処女で結婚する女性が少ないとしても、女性は結婚相手と出会う前遊んでいた場合、そのことは伏せられる。

そういったことの二重基準にその人は疑問を持たない。

 

「結婚前の男は風俗で遊ぶべき。女遊びをすることで男は女性との接し方を覚える。」

そういう「常識」を女性から言われたことがある。私が大学の非常勤研究員だった時、同じ大学の違うキャンパスの教員だった彼女は共同研究者として私の属する研究室に出入りしていた。彼女が助手(一般の会社でいえば平社員。現在は助教とよばれる)から助教授に昇進してよその大学に移ろうとしたころ、休日出勤した私に夕食を驕りながら彼女は私に説教した。彼女によれば周囲の人と同じように消費をすることが「社会人らしい」ことで、車を持っておらず、学生よりも家賃の安いアパートに住む私に以前も説教をしたことがあるのだが、この時の説教はこれまでの説教よりも腹が立った。当時あの研究室にいた博士課程の大学院生で、風俗通いはしていてもはシャイで身近な女性とはまともに話すことができない者もいたのだ。

「では、あなたがオールドミスなのは男遊びをしなかったせいなのですね。」

とよほど言おうかと思ったが堪えた。

 男社会の常識を受け売りで話す彼女は、それでも科学者なのか、と今でも思う。

 

「どうして身体を売ってはいけないの?」

理屈屋のお嬢さんの問いにどう答えたらよいか、私にはわからない。

ましてやこの時代は戦争に負けて価値観が大きく変わったといってもいまだに家父長制的な価値観を持つ人が多かった。それに反発しての疑問である。

 

 

朝ドラマ『虎に翼』を観ている。
先週(2024年7月29日~8月2日)放映されたドラマの時代設定は1952年。裁判官・三淵嘉子をモデルとした主人公・寅子は新潟地裁三条支所の所長を務めている。
 
 でもって、来週の予告で怖い台詞が出てきた。
美佐江という少女が
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
と寅子に問うのだ。
 
 美佐江は新潟で寅子の友人から英語を教わる高校生で非常に頭が良いのだが、親しい友人に対して支配欲を示したりして怖さを感じさせる少女だ。
 
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
 1990年代末にそんな言葉が飛び交ったことがあった。1997年、神戸で当時14歳の少年が幼い子供たちを殺傷する事件が起きた。殺された被害者の一人は加害少年の弟の友達で加害少年も一緒に遊んだことのある子供だった。
 少年法を侵し、確信犯で少年の顔写真を公開する雑誌もあった。
 なぜ少年は罰せられないのか、という声も挙がった。
 
 そういうなか、とあるテレビ番組で子供が
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
と大人に問うたそうだ。
 
 クリスチャンの知り合いは
「人を殺してはいけないと理解するには信仰が必要だ。」
と言った。しかし人として守るべきことを信仰を通して教えればよい、という考えに私は疑問を持つ。
 
 そういえば、『検事キソガワ』という漫画でもそういう疑問を取り上げていた。
 『検事キソガワ』は鈴木あつむが描いた漫画で、『モーニング』で連載されていた。この漫画の主人公・木曽川は検察官で、送検された被疑者との対話を大事にし、事件の背景を調べて被疑者はどういう処分を受けるべきなのかを考える。
 
 その木曾川が少年事件を担当する。傷害事件で逮捕された少女は進学校の生徒で、『虎に翼』の少女のように頭がよくて怖い少女だ。
 少女が
「なぜ人を殺してはいけないの?」
と木曽川に問う。彼女を取り調べた警察官を困らせた質問だ。
これに木曽川は答える。
「人類の歴史は『殺してはいけない』どころか殺すことを繰り返すものだった。だから人類は他者と契約を結ぶことを考えた。『私はあなたを殺さないから、あなたも私を殺さないでほしい。』と。」
この答えに対して少女は
「納得しないけど合格点をあげる。
と反応する。
 
 木曽川が少女の成育歴を調べる。少女は中学生のとき歳の近い少年と交際し、彼の子を妊娠したのだが、母親に強要されてその子を堕胎した。
 
 胎児は人かどうか、議論の分かれるところだ。だが、少女は自分の子供を殺した、と感じた。そして彼女は
「なぜ人を殺してはいけないの?」
と大人に問うようになった。
 
 
 朝ドラマの話に戻る。
 現在のドラマの時代設定は戦後復興期だ。少女・美佐江は戦時中に幼少期を過ごした。私の父は1937年生まれで、この少女とは近い年代だ。国民学校に通っていた父は「打倒鬼畜米英」という言葉を聞いて、アメリカ人やイギリス人の頭には角が生えていると思ったそうだ。だから戦争に負けて、進駐軍の兵士を見て、本当は彼らに角がないと知って驚いたそうだ。
 
 戦争で「お国のために戦う」ということは敵国の人間を殺す、ということだ。少女の身近な大人でも戦場で人を殺してきた人はいるだろう。そして、戦争が終わって、あの戦争は間違っていた、という声が聞かれるようになる。
 さらに、このドラマでは取り上げられていないが、この時代には朝鮮半島で戦争が続いている。かつて日本の植民地だった隣国で戦争が起きたおかげで儲かったという大人もいる。
 そういう混乱の中で、
「なぜ人を殺してはいけないの?」
が湧いてきても不思議ではない。
 
 こんなことを書いて、じゃあお前はこどもの質問にどう答えるか、という人もいるだろう。
「君だって人に殺されたくないから、君も人を殺してはいけない。」
と答えるしかないだろう。理屈屋には納得いかない答えかもしれない。だが、そういうこどもでも他の大人の解答ならば受け入れるかもしれない。
 
 さて、寅子は美佐江の質問にどう答えるか?
 
 

 

 

 裁判官・三淵嘉子をモデルにしたキャラを主人公とした朝ドラマ『虎に翼』を観ている。

 

 ドラマは現在戦後復興期を描いていて、主人公・寅子は新潟地裁三条支部長。そして昨日8月2日放映分で、寅子の同僚の判事・星航一が総力戦研究所にいた、という過去を明かした。

 

 総力戦研究所は日米開戦の前年である1940年に設けられた内閣総理大臣直属の機関で、軍や官庁の若きエリートがここで研修を受けた。

 研究所では模擬内閣を組織し、日本が米国と戦争を始めた想定で演習を行なったのだが、何度演習を行なっても日本の敗戦、という結果がでたという。研究所員はその結果を総理大臣に報告したが、これが国の方針に影響を及ぼすことはなかった。そして現実に日本は米国と戦争を行ない、多くの命が失われた。

 

 ドラマで航一の説明的なセリフを聴いていて、そういえばこの話は1990年代にもテレビで観たな、と思い出した。

 どこの放送局でやったかは忘れたが、再現ドラマ形式で進行するドラマ、例えば戦闘で戦艦を失って新たに戦艦を建造するのにどれだけの鋼鉄を調達するか…とかそんな話がでてきて、結局演習では昭和18年で敗戦。現実には

そのあと2年も戦争が続いたのだが…。

 

 あの頃私は理学部の大学生だった。情報処理概論とかいう講義で、シミュレーションの話が出てきて、そういえば総力戦研究所が行なった演習も現代の言葉でいえばシミュレーションだな、なんて思った。

 

 さて、ドラマで航一は過去を語る前、ある弁護士が1945年8月1日の長岡空襲の際娘と孫娘を失った、とい話を聞き

「ごめんなさい。」

と言って泣いたことがあった。

 

 そのごめんなさい、とは日米開戦前、国の指導部の近くにいながら戦争を止められなかったことだ。

 

 まあ、一人の若者が抵抗したくらいであの戦争は止められなかっただろう。

だが、私はあの戦争は仕方なかったとは思いたくない。過去を悔いることで今自分が何をなすべきかも見えてくるだろう。

 

 戦争で死んだ人、人生を奪われた人、そういう人の視点をわずかでも持ち合わせていれば、あれは運命だった、なんて言葉は出てこない。

 

 

 

 1984年とはいってもジョージ・オーウェルのディストピア小説の話ではない。私の少年期の思い出だ。

 

 1984年の私は中学3年生、受験生だった。その年の夏には米国・ロスアンゼルスでオリンピックが開催された。同級生の中には塾の先生からオリンピック中継をテレビで観るな、と言われた人もいたが、私は結構オリンピック中継で記憶に残る場面がある。もちろん、勉強もやった。そして、私にとって1984年のオリンピックは夢を感じることのできた唯一のオリンピックだ。

 

おりんぴっくか

 

 開会式。金髪の美女が国名のプラカードを持ち、その後ろを各国の選手団が入場する。印象に残っている選手団は日本ではなく、イスラエルと中国だ。

 

 イスラエル選手団の国名が読み上げられると、観客席から大きな拍手が沸き上がる。選手たちが立ち止まり拍手に応える。旗手である女性選手がアップで映される。1972年のミュンヘンオリンピックでパレスチナゲリラが選手村を襲い、イスラエル代表選手が殺害された。その事件を受けてのオベーションだと実況アナウンサーが静かに語った。

 その後、この地の情勢はイスラエルが善、パレスチナゲリラが悪、という簡単な図式では理解できないことを知ったのは私が大学に入ってからのことだ。

 

 この大会は中国が初めて選手団を派遣した大会だという。初めてにしては選手の数は多かった。それまで中国人の服装といえば無彩色の人民服、というイメージだ強かったが、この時の選手団の制服は明るい青のブレザーに赤いネクタイ。そうして若い国をイメージづけたかと思うと体操やバレーボールの選手たちが金メダルを獲った。

 

 あの頃の私はオリンピックの表彰式で、日本の国歌が流れ、日本の国旗が揚げられる、という風景に「素直に」感動した。

 

 だが、そういうなかでも「メダルの価値って何だろう?」に疑問を持つこともあった。

 あれは柔道無差別級(当時柔道に女子の種目はなかった)。この種目に出場した日本代表は山下泰裕。彼は準決勝で足を負傷していたのだが、決勝でエジプト代表のモハメド・ラシュワンを抑え込みの一本で破り、金メダルを獲った。表彰式では銀メダルのラシュワンが足を怪我したまま表彰台に登る山下を手助けする様子がテレビで流されたが、決勝ではラシュワンは山下の怪我した足を攻撃せず上半身だけを攻めた、ということも当時は報道された。

 ではラシュワンのスポーツマンシップはメダルに関係なく称賛されるべきものではないか、と表彰式から少し時間が経ってから私は思ったのだった。

 

 表彰式といえば、体操の具志堅幸司が何かの種目で中国代表の李寧と同点優勝で金メダルを獲った。その表彰式では、具志堅が李に順番を譲ったことで中華人民共和国国歌が『君が代』より先に演奏されたのだが、これは日本人がメダルに今ほど関心を持っていなくて、日中関係も険悪でなかったときの出来事だった。

 今大会で、日本代表が中国代表に順番を譲ったら国のお偉いさんもネット右翼も騒ぎそうで、想像するといやな気がしてくる。

 

 本日7月24日は芥川龍之介の命日で河童忌。彼が胡瓜とか河童とか好きだから河童忌なのだが、彼の作品に『河童』というのがあるのも忘れてはならない。

 

 架空の河童の世界を通して現実の社会を視るディストピア小説。この中では失業した労働者を毒ガスで殺して、その肉を食肉として利用する、という話も出てくる。ナチスがユダヤ人虐殺を行なう十数年前に書かれた話である。

 

 ナチスが毒ガスを使って殺害したのユダヤ人だけでない。ロマや障碍者も虐殺の対象だった。

 方や日本はどうか。最近、優生保護法に基づいて障碍者に不妊手術を強制したことについての国家の責任が最高裁で認められ、岸田首相が当事者に謝罪した。法の下の平等をうたった憲法を制定してもなお、行政が人の命にながいあいだ軽重をつけいていたのだ。

 

 人の命に軽重をつける考えは私の中にも巣食っている。

 

JR東海飯田線は東海道本線の豊橋駅と中央本線の辰野駅との間を、山間部を抜けて結ぶ総延長195kmの鉄道路線だ。7月の連休に、この路線の列車に乗った。
 
 
 連休最終日の朝、豊橋駅を降りて飯田線の列車を待っていると、やってきたのは213系電車。営業運転を開始したのは1987年の国鉄分割民営化後だが、設計は国鉄により行われた車輛だ。
 この電車、運転台の助手席部分のすぐ後ろにロングシートがあるのだが、そこが空いていたのでこの展望席に座る。
 さあ、出発だ。途中、豊川までは名古屋の通勤圏内で線路は複線。そこを過ぎると阿房列車の旅は本番だ。緑濃き風景の中を列車は進む。
 

 列車が長篠城駅に近づくと、進行方向左側の車窓に鳥居右衛門磔刑地のモニュメントや長篠城址のモニュメントがみえる。
 1575年(天正3年)、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍がこの地で戦った。織田軍が鉄砲による攻撃で武田軍の騎馬部隊を壊滅させ、戦国日本の情勢を大きく変えたといわれる長篠の合戦だが、この辺りは有名な屏風絵で描かれているような広々とした平野ではなく山々に挟まれた場所である。
 

 
 長篠城を過ぎると列車は山また山、トンネルを抜けて鉄橋を渡り、渓流をわきに見ながら進む。山険しい地形のため、この辺りの区間が開通したのは1937年。この地を測量した川村カ子ト(かねと)は旭川出身のアイヌで、アイヌ文化の伝承かつ活動で名を遺した人だ。現在旭川には彼の名を冠した博物館があり、その一角には飯田線の駅名標も飾られている。
 

 
 

 
 

 
 このような山深い区間は静岡県浜松市域内にある。浜松市は政令指定市で、駅の所在地も浜松市天竜区となる。山深いのに住所には「区」がつく、という場所は札幌や仙台にもあるが…。
 
 途中列車は小和田駅に停まる。ここも静岡県浜松市天竜区。1993年、現在の天皇の婚約が発表され、婚約者の小和田雅子がヒロインとして祭り上げられた時、この駅も彼女の姓と同じ漢字表記の駅ということで話題になった。2000年の夏にも私はこの路線で乗り鉄をしたが、列車が停車するとき車掌が
「皇太子雅子さまが…」
とアナウンスしていた。彼女が皇后となった今、車掌のアナウンスはどうなるだろうか…、と思ったがほかの駅と同じアナウンスとなっていた。
 
 列車が静岡県を抜け、長野県内に入る。飯田駅に列車が近づくと
「町に来た…」
と思う。それからも列車は人里と人里を結んで走る。辰野からはJR東日本中央本線の線路を進む。中央本線の文字通り「本線」と合流する岡谷駅で新宿駅に向かう特急列車に乗り換え、阿房列車6時間の旅は終わった。 
 

 
 

 

 愛知県というと名古屋を連想する方は多かろう。愛知県は大和時代の行政区分に沿って尾張と三河の二つの地域に分けられる。「尾張名古屋は城でもつ」というとおり、名古屋は尾張だ。尾張地方のほぼ全域が江戸時代は尾張徳川家の領地だった。方や、三河地方は小大名や旗本の領地のモザイクだった。

 私はそんな三河地方の西尾市に何となくアイデンティティを感じている。

 

 現在の西尾市域に限ってみても、江戸時代はモザイクだった。そのモザイクのピースの一つに西尾藩がある。名古屋鉄道西尾駅から西に15分歩くと西尾城址があるが、ここが西尾藩の拠点だ。

 とはいっても西尾藩は江戸時代、何度か大名家が入れ替わっている。そして1764年(明和元年)から1868年の廃藩置県まで西尾藩を領有したのが大給松井平家だ。西尾を領有していた大給松平の藩主に松平乗全(のりやす)がいる。彼は井伊直弼が幕府大老だった時その下で老中を務めていた。

 江戸時代、私の先祖はこの大給松平家の家臣だった。藩主が国替えとなるたびに私の先祖も引っ越しをして武士の時代の終末をこの西尾で迎えた。

 廃藩置県から十余年後、私の父方の祖父はこの城下町で産まれた。その関係で私の本籍地は愛知県西尾市となっている。

 

 
 西尾駅の西側、西尾城址の北側に碁盤の目状に細い道が付けられた場所がある。ここが西尾城の城下町だ。
 

もむ

 

 2024年7月13日、私はこの町を訪れた。これで何度目だろうか。初めて訪れたのは小学生の時、家族旅行で。その次が1994年、学生の時一人で。

 

 あの時から意外にもこの城下町の風景は変わっていない。昔の商家が建てられた時からあまり姿を変えずに今も建っている。最近になって建てられた建物もそういう建物と調和する外観デザインとなっているのが面白い。

 翌日私は犬山城を観に愛知県犬山市へ行ったが、あちらの建物は観光客のために整備されているのに対し、こちらは住む人が時代に折り合いをつけて建物を維持している。

 どちらも済む人には大変だろうが、私は生活臭のある西尾の町並みが好きだ。

 

 この西尾のことを小京都と呼ぶ人もいるが、それはどうかと思う。
 数ある城下町の中には、領主が京都を意識して都市設計をした町もある。そういう町ならば小京都かもしれないが、西尾でそういう話は聞いたことがない。
 西尾は西尾だ。
 
 町を訪れた私は花屋で花を求め、先祖の墓のある菩提寺を目指した。しかし、単調な町割りのせいか、なかなか菩提寺にたどり着くことができない。しかし、町の人ふたりに道を尋ねて、ようやく菩提寺にたどり着き、先祖の墓に手を合わせることができた。
 私の本籍地は菩提寺のすぐそばにある。祖父の生まれた場所に今どんな人が暮らしているのかはわからないが、その前を通って町を散策する。
 
 
 
 西尾の城下町には様々な寺がある。その中には境内で原爆写真展をやっている寺もあった。これぞ御仏に仕える寺だ。お布施を置いてきた。
 
 西尾の町で日本一となってる事項がある。それは抹茶の生産高だ。
 宇治と較べて西尾の抹茶の知名度は低い。私は裏千家で茶道を習っているのが、私が習っている先生も西尾には関心がないようだ。
 だが、三州西尾は抹茶の町だ。
 
 昔懐かし丸ポストも抹茶色に塗られている。
 
 

 西尾歴史公園に着く。ここはかつて城があった場所だ。廃藩置県時に天守閣をはじめ城の施設は取り壊されたが、現在は櫓が木造漆喰づくりで再建されているほか、二の丸の石垣のあった場所がかさ上げされていて往時をしのべるようになっている。
 その他、公園内には公家近衛家の屋敷が京都から移築されている。この屋敷の中で名物の茶を点ててくれるので一服いただく。
 
 そういえば、街のあちこちこちから太鼓をたたく音が聴こえる。夜の営業に向けて屋台の準備を準備をしている人たちがいる。
 7月の連休にこの町では祭りが催されるのだ。祭りの名は祇園祭。先ほど西尾が小京都と呼ばれることに異議を述べたが、祇園祭の名は良しとしよう。
 

 

 山車や神輿が城跡に集い、浴衣姿の女性も目に付くようになった。
 午後4時半、大名行列が城の門から出てきた。
 今夜は祭りだ。
 

 

2024年9月21日から23日にかけて東京・高円寺の座・高円寺で「日韓琉 鎮魂祭り」というイベントが開催された。そこで能が演じられたので観てきた。

 

22日土曜日の脳は『望恨歌(マンハンガ)』。

第二次世界大戦中、朝鮮半島から連行され強制的に鉱山や工場で働かされた朝鮮人徴用工を話だ。

この能、観るのは今回で3回目だ。

 

参列者が白い麻の服をまとった朝鮮式の葬列で能は始まる。

あばら家に見立てた作り物が舞台に据えられ、そこを日本の僧が訪ねる。僧は九州の炭鉱で一命を落とした青年が妻に宛てた手紙を携えているのだが、青年が手紙をしたためてからそれが見つかるまで時が経ち、妻は老婆となっている。

 

 最初は受け取りを拒む妻だが若い夫の手紙を読んで涙する。

 最後は老婆が舞うのだが、一瞬老婆が夫と別れたときの年齢に戻ったように見えた。

 老婆は夫の魂と再会した!

 

 こういう瞬間があるから観能はやめられない。

 

翌6月23日は沖縄慰霊の日。そしてこの日の能は『沖縄残月記』。この曲は大和の古語とウチナーグチの「二か国語」で演じられた。

 

父と幼い息子がおんばを訪れる。

 

幼子がおんばの口寄せで亡くなった曾祖母の話を聞くのだが、その話が1945年の沖縄戦の話だ。

 

おんばが灰色の羽織を脱ぎ、白い着物姿になると、そこは戦場だ。おんばがもんぺに白シャツ姿の若かりしときの曾祖母に、幼子は彼の知らない大伯父になる。

 最低限の舞台装置で演じられる能ではこうやって場面が換わる。

 

 軍隊によりガマ(洞窟)から追い出された女。彼女は幼い息子の手を引くとともに赤子を抱いている。

 その幼子が息絶える。これはそれまで彼が持っていた風車を落とす動作で象徴される。赤子も失い、一人になった女。

 

 女が紅型をまとうことで時間は現在に戻る。大おんばが羽織る紅型、花に見えたものをよくみると地上に降下する兵士の落下傘(パラシュート)だった。兵士が搭乗していた飛行機も紅型には描かれている!

 

この舞台、通常の能では地謡(ぢうたい)が座っているところに沖縄の武士の装束をまとった蛇皮線弾きが座っている。蛇皮線と鼓の音に合わせておんばが舞い、静かに舞台は終わる。

 

 このイベント、いずれもシテ(主役)は清水寛二。彼は2021年にもこの場所でシテを務めた。この時の演目はパレスチナ問題を題材にした『ヤコブの井戸』。

 

 

 

 

『望恨歌』、『沖縄残月記』も、原作は多田富雄。多田は著名な免疫学者であり、マルチ人間である。

 私は大学、大学院と理系で学んだが、周囲は人文科学方面には関心がない、という人が多かった。あの頃は学生運動のことを強烈に覚えている先生も多く、学生が社会問題に関心を持つこと自体に否定的な先生もいた。それに研究予算を獲得する上で、社会に関し自分の考えを持つことは不利になる、という考えの人もいただろう。

 そういうことに思いもめぐらすと、多田先生はすごい、とおもう。

 NHKBSでは朝海外のテレビ局が放映しているニュースを通訳付きで流している。海外のテレビ局にはイギリスのBBCやフランスのF2もある。現在日本の首都では東京都知事選挙が行なわれているが、これらの国では総選挙がおこなわれている。そしてこれらの国のニュースを観ていて印象的なのは選挙のことを積極的に取り上げていることだ。
 ニュースでは与党、野党を問わず政党代表者に政策を語らせているし、不祥事を起こしている候補者がいればその不祥事を丁寧に報道する、まちなかで有権者にマイクを向け、どんな政策に関心を持って候補者を選ぶかを尋ねる。
 そんなニュースの中で、フランスの若い女性へのインタビューが印象に残った。
「私はまだどの候補に入れるか決めていません。多分投票する間際までどの候補に入れるか迷うでしょう。」
それでも彼女は投票に行くのだ。
 
 それに引き換え日本のテレビは…、と私は思う。
 こちらは7月7日夜には都知事選挙の開票速報のため大河ドラマを放映しない、というNHKの告知。こうやって開票はスポーツ中継のように熱心に取り上げるのに、なぜ日本のテレビは投票日前に選挙のことをしっかりと報道しないのか、と思う。
 
 何年か前、国政選挙の時にニュースでこんなインタビューを流したのが脳裏に焼き付いている。
 公園で、若い母親が幼い子供を遊ばせている。インタビュアーがその母親に投票へ行きますか、とたずねる。
「私政治のこと分らないし、政治のことがわからないのに投票してはいけないと夫が言うから多分投票しません。」
テレビ局は他人事のようにそんな声を流す。そして他人事のように多くの有権者は選挙に関心を持っていないと伝える…。
 
 さっきのフランスのニュースとは大違いだ。フランスにだって選挙に関心のない若者は数多くいるだろう。だが、ニュース番組の作り手は若者の無関心を言い訳にはしない。
 
 そういうことを思っているうちに今度は
「先進国って何だ?」
という疑問が湧いてきた。国民が物質的に豊かな暮らしをしていれば先進国か?高い工業生産力があれば先進国か?
 例えば中国。あの国は1980年代以降目覚ましい経済発展を遂げて工業大国となった。しかし、独裁国家のあの国を先進国と呼ぶ気にはならない。
 
 では日本はどうか?
 政権についている政治家たちがいくら腐敗してもそれにとって代わる人材がいない。そしてそれに対して何も感じなくなり、物質的な豊かさにだけ心を動かす人たち…。
 悲しいが、私は自分の祖国を先進国とは思えない…。
 
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 下の写真は東京都知事選挙のポスター掲示板。(高田馬場駅前広場)
 
 NHKから国民を守る党が掲示板ジャックをした、女性のヌードや何年か前に他界した俳優の顔写真がこの政党のスペースに張られた、というのがニュースになっているが、この掲示板には「日本語校正」なるポスターが張られている。
 
 こういう選挙をおもちゃにした行為を防ぐため公職選挙法を改正すべきだ、という声も挙がっている。だが、テレビの政見放送で卑猥語を発する候補がいたから、公選法を改正して卑猥語は削除するようにしても、今度は政策を語らずにただ服を脱ぐ候補が現れたりするのだ。
 
 多くの人たちが選挙に対して白けていれば、受けを狙ってふざけた行為をする者は跡を絶たないだろう。
 
 こういうことを防ぐため、まずメディアは有権者の無関心を言い訳にせず報道活動をしてもらいたい。