本日のテーマ
【心眼】
以前、テレビで時代劇『柳生武芸帳』を観たとき、強く印象に残った場面がありました。
柳生十兵衛が心眼を開き、剣術をさらに磨いていく場面です。
目を閉じていても、周囲の気配を感じ取り、肉眼で見るよりも正確に振る舞う。
そんな姿が描かれていました。
それを観ながら、私はふと思いました。
「心眼で、本当にものを見ることができるのだろうか」
心眼とは、辞書によれば、
「物事の真実の姿を見抜く、鋭い心の働き。心の目」
とあります。
私は、そのことについて瞑想しながら考えてみました。
そして感じたのは、心眼というものは、もしかしたら本当に存在するのかもしれない。
しかし、それを身につけるには相当な修行が必要なのだろう、ということでした。
少なくとも、私のような凡人には簡単なことではありません。
目を閉じて心で見ようとしても、すぐに余計な考えが浮かんできます。
邪念が入り、心は静まりません。
心で見るということが、いかに難しいかを感じました。
そんなことを考えているうちに、ふと思い出した人がいました。
以前、雑誌の編集をしていたとき、視覚障がいを持つF氏という方と一緒に仕事をしていました。
私はあるとき、彼にこんなことを聞いたことがあります。
「目が見えなくて、不自由ではありませんか」
すると、F氏はこう答えました。
「生まれたときから見えないから、一度も不自由だと思ったことがない。僕には、これが当たり前だから」
その言葉を聞いたとき、私は驚きました。
自分が不自由だと思っていることが、相手にとっては不自由ではない。
それは、私の見方そのものを揺さぶる言葉でした。
F氏には、驚かされることが何度もありました。
音もなく人が近づいてきても、その気配を感じ取る。
部屋の中のどこに何があるのか、おおよその位置を把握している。
目が見えないはずなのに、周囲の空気や雰囲気を感じ取っているように見えるのです。
さらに、記憶する力、覚える力もとても優れていました。
私は彼の振る舞いを見ていて、こう感じました。
F氏は、目で見ているのではない。
心と全身で感じ取っているのではないか。
そのとき、私はふと一つの考えに至りました。
見えるものを見るのが、肉眼。
肉眼では見えないものを感じ取るのが、心眼。
そう考えると、心眼とは、何か特別な能力だけを指す言葉ではないのかもしれません。
人の気持ちを感じ取る。
言葉の奥にある思いを察する。
表情の向こうにある苦しみや迷いに気づく。
出来事の表面だけでなく、その奥にある意味を見ようとする。
それもまた、心眼なのではないかと思うのです。
今の時代は、目に見えるものばかりが重視されがちです。
数字、結果、肩書き、見た目、評価。
もちろん、それらも大切です。
しかし、人の心や思い、本当の苦しみ、本当の願いは、目には見えません。
だからこそ、これからの時代には、目に見えないものを感じ取る力が必要なのではないでしょうか。
心眼とは、心で無理に見ることではなく、感じ取る力なのかもしれません。
目で見えるものと、目では見えないもの。
その両方を見つめようとする姿勢こそ、本当の意味での「見る力」なのだと思います。
画家ミレーの言葉に、こんな言葉があります。
「ものを観るのに目をあいただけでは足りない。心の働きがなくてはならない。」
目を開けているだけでは、見えていないものがあります。
心が働いて、初めて見えてくるものがあります。
それを見つめようとする力。
それが、心眼なのかもしれません。