本日のテーマ
【泥中の蓮】
人生では、自分の至らなさのために苦しめられることがあります。
それが仏教でいうところの“煩悩(ぼんのう)”になるのでしょう。
煩悩とは…
身心を悩まし苦しめ、煩(わずら)わせ、けがす精神作用のこと。
釈迦は、欲望には二種類あると説いています。
①単純な欲望
②渇愛(かつあい)という欲望
① 単純な欲望とは、
背中がかゆい、眠たい、お腹が空いた、トイレに行きたいという欲望です。
② 渇愛とは、
満たされれば満たされるほど大きく膨らむ欲望です。
船が難破して海を漂っていて、のどがカラカラに渇いた状態のようなもので、水が飲みたい、周りには水が豊富にあるのですが、それは海水です。
そこでしかたなく海水を飲んでしまいます。
ところが、海水を飲んでものどの渇きは癒されません、それどころか飲めば飲むほど渇きはひどくなります。これが渇愛の欲望です。
満たしても次々と欲望が膨らんでくる状態のことです。
満たされない海を、いつまでも漂い続けるのです。
幸せになるためには、この渇愛の欲望である煩悩を脱しなければなりません。
仏教では煩悩を脱することでさとりの境地に至ることができると教えます。
その例え話が「泥中の蓮」です。
蓮は、水面に美しい花を咲かせますが、その根は、泥の中にあります。
仏教では泥は煩悩を象徴します。汚い泥の中から茎をのばし、清らかな花を咲かすようすを、どんな環境が悪くて清く生きることにたとえた言葉が「泥中の蓮」です。
汚れた煩悩の世界を脱して、さとりの境地に至ることを表わしています。
人間はどんな環境に置かれていても、気づき、努力することで煩悩を脱し、花を咲かすことができるということですね。
煩悩を脱するためには、“渇愛の欲望”がどれだけ自分にとってマイナスになるかを気づくことが必要なようです。
■スウェーデンのことわざ…
「貧乏人とは少ししかもたない者のことではなく、たくさん欲しがる者のことである」
どんなに物質的に豊かになっても、精神的に貧しければ本当の豊かさを手に入れることはできないでしょう。
わたしはが、追求したいのは、真の豊かさです。