本日のテーマ
【何を信じて生きるかで
人生は大きく変わる】
人の人生は、こんな言い方ができるのではないでしょうか。
「何を信じて生きるかで、その人の人生が決まる」
なぜ、テロリストたちは罪もない人たちを殺すのか?
なぜ、宗教から戦争や殺戮が起こるのか?
その理由は共通しています。
それは「何かを強く信じている」ということです。
人生は、どのようなことを信じているかで、それが生き方に現れます。
そして、信じたものに意志とエネルギーを注ぎながら生きようとするのです。
もし間違ったことを信じ、そこに意志とエネルギーを注いでしまえば、取り返しのつかない悲惨な人生になってしまうかもしれません……。
私たちの身の回りには信じているものが沢山あります。
また世間は、何かをあなたに信じさせようと躍起(やっき)になっています。
信じさせて商品を売り込みたい…
信じさせて勧誘したい…
信じさせて騙したい…
例えば、信じることではこんな事もあります。
やりたい事、やらなければならない事が簡単に出来る方法があれば楽ができます。
簡単に、
仕事が出来るようになる…
話が上手くなれる…
ゴルフが上手くなる…
勉強が出来るようになる…
異性にモテルようになる…
ダイエットができる…
多くの人が簡単に出来る方法を望んでいるからハウツー本が売れるのでしょう。
誰でもできる○○…
一時間で○○ができる…
○○の必勝法…
人は求めている事が簡単に実現できる方法を信じやすいようです。
例えば、願い事を成就させるのに、
「辛い修業をしたら叶えられる」と言われるより、
「お題目をあげただけで叶う」と言われた方を信じたくなります。
しかし、世の中そんなに甘くはありません。
もし間違ったものを信じてしまえば、いくら努力しても望みは叶わないでしょう。
「信じる」ことに対し、もっとしっかり考え慎重に信じるものを選ぶことが人生において大事なことだと、わたしは思うのです。
スリランカ上座仏教の長老 アルボムッレ・スマナサーラの著書『あべこべ感覚』では、「信じなければいけないものは、嘘」と説いています。
わたしはこの話に、とても説得力を感じました。
「日本では、宗教を社会生活から切り離していることは先に述べました。しかし、一方では、やけに真剣に信仰しているようです。どうもちぐはぐで滑稽(こっけい)なのですが、たとえば、般若心経だけはお守りに使ったり、うちわに書いてあったり、湯のみに書いてあったり、しまいにはネクタイにまで般若心経がずらっとプリントされていたりと、けっこう生活に取り入れられています。そのような信仰は、はたして意味があるのでしょうか?私からみれば、『そこまで信仰が厚いのは、それが嘘だから』なのです。嘘は、信じなくてはだめなのです。事実は、信じる必要がありません。たとえば、「地球は丸い」ということを「信仰」している人いますか?信仰する必要はないでしょう。それは事実ですからね。般若心経もそれと同じことです。『般若心経は、みんながものすごく信仰しているものです』と言っています。そして、『こんなに一生懸命、信仰しているのだから、そこにはなにか意味があるはずです』と思っています。しかし、あまりにも信仰が強くて、信仰すること自体にしか価値を見いだせないのであれば、それは嘘に決まっています。この世の中に、なにか変わらないものがあるという嘘に、ひたすらしがみついているだけです。私に対しても「こんなにも日本人が信じているのですが。文句をつけないでください」という抗議がきます。しかし、私は事実を言っているだけです」
「信じていれば安心」と思っていることはないですか。
信じているだけでは何も変化は期待できないでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ氏の言葉に耳を傾けて考えることで何か気づきが得られるかもしれません。
わたしは、尊敬するある僧侶が言った、この言葉を信じたいと思っています。
「般若心経は、知識やただ唱えるのではなく、般若心経に書かれていることを学び実践して自分を磨きながら生きることこそが本当の般若心経の教えなのです」
わたしは、この教えを知った後で自分なりに『般若心経』とはどんな教えかを調べてみました。
――般若心経の教え――
「この世の中のあらゆる存在は生成と死滅する。どんなものも永遠の実体をもたない。どんな美しい女性でもやがて老いて亡くなる。どんな高級な品もやがて崩れ壊れる。生と死があるから命がある。人は対立的にものを見る。好きと嫌い、幸せと不幸せなどといって自らの心を苦しめる。互いがあるから成り立つのである。だから執着を捨て『とらわれない』『こだわらない』心を持つことが真理の教えであり、一切の苦しみを取り除く道である」
自分の心を
執着をもたない…
こだわらない…
とらわれない…
このように育むことで、人生で起こる出来事や、遭遇するものから惑わされないことが大事だと分かりました。